星空とミルクティー
人命救助







 あの夜の散歩以来、平野君とは一度、朝に家を出るタイミングで会った。

ゴミ袋の中にはコンビニ弁当の空き容器がほとんどを占めていて、自炊の形跡がない。


 目が合って挨拶はしたけど、朝の忙しい時間ということもあって長く立ち話はできないし、平野君もあたしを避けるようにさっさと階段を降りて、ゴミを捨てて部屋に戻ってしまう。


マダムもとい、施設の職員はあの怒鳴り込みの一件以来、一度も隣の部屋には来ていなかった。





 それから何週間も見ない日が続いて、平野君の存在は部屋から聞こえる微かな物音と彼の咳の音で確認するようになった。

 夜の9時過ぎ、アパートの廊下に平野君の咳が響く。

風邪が長引いているようで、ここ最近は夜の間中、咳の音がひどい。

眠れていないんじゃないか。お節介かもしれないけど、何週間もこの状態だとさすがに見過ごせない。



 玄関を出て「平野君」と呼びかけた瞬間、視界が暗く遮られた。


体全体に重たいものがのしかかって背中が反る。

ものだと思っていたのは平野君本人だった。

意識を失って、ヒューヒューと壊れた笛のような音を出しながら呼吸をしている。



「平野君!?」



 肩から落ちそうになる体を、両脇に手を入れて支えてぎょっとする。あまりにも軽い。

意識がないのに、平野君の体は女のあたしが支えて歩けるほど軽かった。

……なんだこれ、どういうことだよ。大人の男の体重じゃねえぞ。



「平野君、おい! 大丈夫か!?」



 頬を叩く力を少しずつ強くしても平野君は起きない。

呼吸が荒くてしんどそうだ。救急車を呼んだほうがいいかもしれない。でも携帯は部屋の中だった。

平野君を靴を履かせたまま部屋に上げる。

ベッドまで持ち上げることはできなかったから、折りたたみテーブルとファンヒーターをどけて、ベッド横の床に直接寝かせる。



 このままここで死んじゃうんじゃないかと怖くて、携帯を持つ指が震える。歯もカチカチ鳴って音を立てる。嫌だ、怖い。



「……お姉さん……?」



 横で意識を失っていた平野君が目を開けた。

体を起こそうとして激しく咳き込む。

口を覆う手が骨ばっていて関節が浮き出ている。

指先もささくれだらけで見てわかるくらい乾燥している。

明るい部屋で見てはっきりわかる。平野君の顔には生気というものがまるで感じられなかった。


青白くて水分も無くて、映画で見る臨終間際の病人のほうがまだマシに見える。

あと何回か咳き込んだらそのままこと切れてしまいそうな風貌に絶句する。



「……平野君、ご飯は?」



 何も答えない。薄々気づいていた。

平野君が、あの人を母親じゃないと言った日、生きるのがしんどいと言った日、ゴミ捨てのタイミングで会った日。

助けてあげられる機会はいくらでもあった。



「……すみません、帰ります」



 立ち上がろうとする体を、体重をかけて抑え込む。

平野君と一緒にバランスを崩して床に尻餅をついた。

ほら、女の力に適わないくらいボロボロだ。なのに、どうして1人になろうとするんだ。



「ダメだ、お前、こんなんじゃ死ぬぞ!」



 うなだれる平野君の肩がピクリと動いた。

 死ぬぞ、本当に。脅しでもなんでもない。


 意識が戻っても安心できない。

まだ恐怖で震えが止まらない。嫌だ。こんな優しい子がこんな目にあうなんて、世の中どうかしてる。


涙が止まらないあたしを、平野君がぼうっとした顔で見ている。

しっかりしろ、あたし。よろしくってマダムにも言われたんだから。



「……熱、測れ。体温計出すから。あと起きれるなら上着脱いでベッド行け」



 鼻をすすって体温計を手渡す。

ゆっくりとした動作で受け取って、服の中に差し込んだのを確認してから、回収した靴を玄関へ置いてキッチンに立つ。

119を表示したままの携帯はそのまま床に置いてきてしまった。




 ほとんど何も食べていないなら、いきなり固形物を出しても体が受け付けないかもしれない。

 鍋に米と水を適当に入れて火にかける。
その隣にやかんも準備する。

体温計の音が鳴って急いで平野君のところへ走って、服の中から出したばかりの体温計を奪い取る。

どうせ平野君に聞いても嘘を言いそうだったから、本人が見る前に確認する。



「……37.6℃」



 死にかけている見た目の割に体温が低いのは、もう体が熱を出せる状態じゃないのかもしれない。

そういう生きるための基本的な機能も壊れかけているのかもしれない。

ギリギリのところでここに踏みとどまっているのかもしれない。



「……上着脱いで、手伝う」



 了承を得る前に袖を引っ張る。

抵抗しても無駄だと思ったのかその力も無いのか、平野君は目を背けたままあたしの言われた通りにジャケットを脱いでベッドに入った。



「……お姉さん、」

「なに? 寒い? 毛布追加する?」

「……そういう喋り方だったっけ……」

「……いや、すげえ今テンパってて、人が、隣人が死にかけてるの見て、すげえ焦ってて」

「……うん、ごめんなさい」

「謝らなくていいから寝てろ。今重湯作ってるから」

「……重湯ってなに」

「いいからほんと、喋るな、無駄な体力使うな、こんなところで」



 平野君がやっと目を細めた。色の褪せた顔に表情が見えて少し安心する。


 キッチンに戻って鍋を見る振りをしながら何度も深く息を吐く。

落ち着こうと思ってもまだ震えは止まらないし、涙は涙腺が壊れたように拭ってもボロボロ出てくる。

 やかんの火を止めて、マグカップにココアを入れてお湯で伸ばす。
すぐに飲めるように牛乳で人肌程度に冷ます。



「平野君、起きてる?」


 目を閉じている彼に声をかける。

目をつぶっているとまぶたのくぼみがはっきりと際立って脂肪の無さがわかる。

薄い唇も皮がめくれあがって、ところどころ切れて血が滲んでいる。



「ごめん、寝てるところ悪いんだけど、ココア作ったから飲んで。カロリー摂取」



起き上がろうとする平野君を見て、急いで部屋の隅に寄せたテーブルを掴んでマグカップを置く。

それから窓際に転がしておいたやたらと大きい犬のぬいぐるみを、背もたれ代わりに平野君の背中へねじ込んだ。


 ベッドの縁に腰を下ろして、彼がマグカップを両手で受け取って口をつけるまで、なんなら喉が動くまで凝視する。

ーーよし。子どもが初めて歩いたとか、意味のある単語を話したとか、そういうレベルくらい嬉しい。嬉しいというか、安心する。

平野君は生きることを諦めているわけじゃない。



「……ありがとうございます」



 半分ほど飲んだところで、平野君が顔を上げた。間近で見る、髪の色より濃い茶色の目。ブラックホールのような瞳孔。



「前から気になってたんだけど、ハーフ?」



 ぴくりと眉が動く。直感でやばいと思った。



「……さあ。よくわからないけど、俺を産んだ人は日本人でしたよ」



 目を合わせないまま平野君が呟いた。母親ではなく産んだ人、という表現が引っかかる。

だけどこれ以上聞いてはいけない気がして無理やり飲み込む。

彼の背負ってきたものや乗り越えてきたものを知るのは今じゃないし、まだ聞く心の準備ができていない。



「ふうん。平野君の下の名前ってなんていうの?」

「真雪です」

「まゆき……」

「真っ白い雪って書いて、真雪」

「なにそれ、めちゃくちゃ良い名前じゃん。綺麗」

「お姉さんは?」

「えー、綺麗な名前の後に言いたくないんだけど」

「なんで、教えてよ。俺、教えたのに」



 マグカップを両手で持って布団の上に置きながら、平野君が「ねえ」と急かす。



「……汐」

「しお?」

「さんずいに夕方の夕で、汐」



 頭の中で字を書いたのか視線が宙に浮いた。

それから「……汐さん」と呟いてあたしの顔を見て微笑む。



「やっと名前わかった」



また、そういう可愛い顔をして……。

馴れるまで時間がかかるけど、こっちに敵意も悪意もないと分かると人懐こい顔をする。

あぁ、だからほっとけないんだ……。




「えぇ、あたし、君が引越してきた日に言ったと思ったけど」

「苗字だけだったよ」

「そうか、よく覚えてんな」


 改めて自分の名前を言ったり、平野君があたしと初めて会ったときのことを細かく覚えていたり、なんか気恥ずかしい。

彼が、それらが大事なことのようにいちいち目を細めるから余計に。


 ココアを全部飲み切るのを見届けて、マグカップを受け取ってから鍋の前に立つ。

長く話しすぎたせいで、水分を含んだ米が底に少しくっついてしまった。

水を足して木べらで削りながらときどき振り返ってベッドの様子を見る。

平野君はでかい犬のぬいぐるみを抱き枕のように隣に置いて、一緒になって布団にくるまっていた。



 これから、平野君をどうしよう。

熱が下がったところで部屋に戻しても、人に頼ることを知らない彼がこのまま自力で生活していけるとは思えない。

きっと仕事だってとっくに辞めていたのだろう。

あの油分も水分もない、干からびて骨の目立つ体は最近食事を抜いたくらいじゃ出来上がらない。もっとずっと前から生活は困窮していたはずだ。


 迷惑じゃなければなんて、こっちが下手に出ていたらダメだ。

返ってくるのは遠慮に決まっている。

思春期の息子を持つ母親になりきるつもりで、うぜえって思われるくらい平野君の生活に足を突っ込んでいかなきゃ。強気で干渉しなきゃ。


 とりあえず、今の目標は、平野君の体調を治すことだ。

しっかり休んで食事を摂ってもらって、人間が生きていられる基本的な機能を取り戻してもらわなければ。


 グツグツと粘り気のある上澄みだけをすくって茶碗に移す。

一人暮らしを初めて1か月ほどしか出番がなかった茶碗が輝いて見える。

重湯を背負ったお前がこれから1人の青年を救うんだぜ。


 ココアを飲んだ平野君を見て安心したせいか、いつものように小芝居をうてる余裕が出てきた。

涙もいつの間にか引っ込んでいる。彼を生かす。仕事よりも価値のある使命だと思った。




 せっかく眠りかけていた平野君をもう一度起こして、無理やり重湯を食べさせる。

食欲は思ったよりあるようで、鍋に入っていたおかゆも少し食べてくれた。

食欲が無くて食べられないわけじゃなかったんだもんな。

先立つものがないなら、なおさら中途半端に手を離すわけにはいかない。




「平野君、言いにくいことかもしれないけど、今、仕事してないよね?」

「……はい」

「で、金も無くて困ってる状態だよね?」

「…………はい」

「わかった。じゃあ当分、ここで生活して。せめて体調が治って仕事決まるまで。ご飯だけでも絶対あたしと一緒に食べること。昼はあたし仕事でいないから弁当作るし。……味の自信はないけど」

「え、でも、」

「でもとか禁止。ダメ、絶対。はっきり言って今のお前、ゾンビみたい。隣の部屋、事故物件にする気か。ふざけんなよ呪うぞ」

「なんでそこまでするんですか。俺、汐さんとなんの関係もないのに」

「は? ……事故物件の隣に住みたくねえからだよ。引越しの仕事してたなら、ここの中身全部動かすのにどんだけ気力と体力使うかわかんだろ」



 平野君と一緒にぐるりと視線を部屋中に巡らせる。

初めて買ったクリーム色のカーテン。

その真下、窓に沿うように置いた小さな洋服ダンス。

ごはんを食べるときもメイクするときも大活躍な白い折りたたみテーブル。

冬の命綱であるファンヒーター。

ベッド横に配置した毛足の長い真っ白なラグ。

小さいけど寂しさを紛らわしてくれるテレビ。

それを支える2つの仕切りを搭載したカラーボックスには、実家から選別してきた漫画がぎっしり詰まっている。

平野君が添い寝している犬のぬいぐるみだって、UFOキャッチャーで4000円かけて連れて帰ってきたものだ。

3年分の荷物。思い出。もはやゴミ箱に入ったちり紙ひとつだって全部あたしの城になくてはならないもの達だ。

 3年かけてやっと部屋の中が埋まってきたところなんだ。動かしてたまるか。



「とりあえず、元気になって仕事が決まるまで。3か月くらいは食わしてやれる。……たぶん」



 一方的に話しているうちに金の不安が出てきた。

金のかかる趣味はないし、買い食い以外に使わないから貯金はそこそこあるはずだけど、どうだったかな。

後で通帳を確認しないと。いざとなったら父のところで週末働かせてもらう。



「なんで……」


「なんでそこまでするのか」と言いたいんだろう。

自分でもよくわからない。
でも初めて会ったときのガラス球のような目から、人懐こい猫のような笑顔を見せた平野君を、今のままどこかに出したくなかった。

イエス以外認めないつもりでまくし立てる。



「なんでなんでうるせえな。このまま戻って絶対に餓死しないって保証できんのかよ。マダムに頼れねえんだろ、だったらうちでいいじゃん。何が不満なんだ」

「……マダム?」

「あの母親だと思ってたけど母親じゃなかった人。ごめん、心の中でマダムって勝手に呼んでた」



 ふ、と平野君の顔がほころんだ。あと一押しくらいで折れてくれそうだ。

それでも部屋に戻るっていうなら最終的には通ってやるつもりだ。

愛の告白でもしたかのように心臓がどくどくといつもより忙しくてうるさい。



「汐さん」



平野君が薄いベニヤ板みたいな上半身をピシッと伸ばした。「はい」とつられて姿勢を正す。



「すごく迷惑をかけてしまうけど、お世話になります」

「おう、任せろ」



 布団の中で浮かせた膝にぴったりとおでこをつけて深々と頭を下げる。

真っ白いつむじとミルクティ色の細くて柔らかそうな髪がさらさら流れて部屋の明かりに反射した。

寒くなるとアパートの階段に現れる野良猫を思い出した。

そういやもう来てもおかしくない季節だ。

そんなことを考えながら平野君の頭に思わず手を伸ばす。

どこにそんな力を秘めていたんだというくらいの速度で平野君がいきなり頭を上げた。



「あ、ごめん」

「……いえ、ちょっとびっくりした」



ぎゅっと手元の布団を胸に寄せる。

今さら警戒心のようなものを見せられて、いよいよ野良猫のようだとおかしくて笑ってしまう。



「平野君、未成年なんだもんなぁ。こういうのって罪になるんだっけ、未成年リャクシュっていうの? わかんねえけど。通報しないでね」

「あ、大丈夫です。俺、携帯持ってないので」



 ーー持ってたら通報すんのかよ。少しずつ言動が惚けてて面白いな。

 耐えきれずに声を出して笑ったら、平野君も首を傾げてから一緒になって笑い出した。




 平野君が倒れた翌日が日曜日で助かった。

久しぶりに仕事へ行く以外で公共機関に乗って、スーパーまで食材を買いに走った。


 当分おかゆ生活になる彼が飽きないように、ご飯のお供になりそうな惣菜を何種類か選んでかごの中に入れる。

2リットルのペットボトルも2本入れてレジに並んだところで、こんな重い荷物を仕事帰りに持つのが嫌だったからコンビニ通いになったことを思い出した。
人の命がかかるとこんなに変わるのか。


 久しぶりに通勤バッグより重い荷物を持つ。休日午前中の忙しい時間帯だとわかっていながら、父の店へ寄り道する。

弱っている人に何を食べさせたらいいのか、少しアドバイスが欲しかった。




 パンパンに張り詰めた買い物袋を提げるあたしを見て、父が「どうしたの?」とカウンター越しに首を傾げた。



「隣の部屋の子が体調崩してて緊急事態。食欲はあるみたいなんだけど、消化にいいものって、おかゆ以外何がある?」



 昼間、カフェとしてカウンターもその奥のボックス席も解放している店の中は、案の定、ほぼ満席に近い状態で混んでいた。

これを10年以上、1人で対応している父はすごい。

大勢いる客の合間を縫って素知らぬ顔でカウンターの中に入って、調理中の父に買い物袋の中身を見せる。



「うん、見た感じそこまで消化に悪そうなものは入ってないけど。塊肉もないし。脂っぽいもの、極端にしょっぱいもの、甘いもの以外だったらいいと思うよ」

「そうか、よかった」



 業務用冷蔵庫の中に買い物袋をそのまま押し込む。



「忙しそうだから、ちょっとだけ手伝っていく」



 空いているカウンターの席にコートをかけて、袖をまくってシンクの中に手を突っ込む。

父は何も言わなかったけど、横目で笑うのが見えた。



 カウンターからボックス席を見渡す。
あたしがここを出る3年前から、客層が随分変わった。

前は暇を持て余した年配の人達の集う場所だったのに、今は曜日と時間帯のせいか比較的若い人が多い。

あたしと同じくらいか、それより少し上か。



 洗い物を終えて、空いた席を片付けるためにボックス席へ向かう。

前のオーナーが残してくれたクラシカルなソファとテーブル。

大小様々な形のアンティーク調のランプが、陽の光が入らない店内を柔らかく照らしている。

埋まった座席数の割に店の中がうるさくないのは、ほとんどが1人客で、食事が終わってもコーヒーやお茶を頼んでゆったりとくつろいでいるからだった。



 客層が変わっても、雰囲気は昔と変わらない。

昼か夜か、今が何時なのか、時間がわからなくなる。
あたしはここが苦手だった。

静かに食事をする客も、自分の家のようにくつろいで読書をする客も、身内である父さえも、変な空間に紛れ込んだ奇妙な生き物みたいで、たまらなく嫌だった。


 ごちゃごちゃしているほうがいい。

ここでゆったりとかのんびりとかしていたら、いつか死んで幽霊になったことにも気づかないかもしれない。



「汐、ありがとう、もういいよ」



 皿の片付けのためにボックス席を何往復かしていたら、カウンターの中で父が言った。



「でもまだ皿洗ってない」

「十分だよ。ありがとう」

「わかった」



 カウンター越しに皿を手渡して、代わりに買い物袋を受け取る。中には買ったものの他にいちごが1パック入っていた。



「それ、あげる。ビタミン摂って、汐も風邪ひかないように」




 お礼を言って店を出る。

そんなに時間が経っていないと思っていたら2時間もあの中にいた。

いつの間にか正午はとっくに過ぎていて、日曜午後の静かな時間が外を包んでいる。

現実世界を踏みしめるように、あの奇妙な空間から逃げるように、重たい荷物を抱えたまま駅まで走った。





 部屋に戻ると、あたしのベッドで眠っていた平野君がゆっくりと体を起こした。



「汐さん、おかえりなさい」

「ただいま、ごめん、遅くなった。お腹空いたよな」

「大丈夫です」



 言ったそばからグルルルと腹の音が聞こえた。
平野君が気まずそうに布団をかき寄せる。

こいつの大丈夫は信用しないことにした。

さっそく買い物袋から買ってきたものを出して冷蔵庫に入れる。


 昨日炊飯器を使って炊いたお粥がまだ残っていた。

それを鍋に移して火にかけてから卵を割り入れる。



「そういやさ、平野君、風呂どうする? 入れるなら今のうちに入ってきてくれる? ご飯もう少しかかりそうだし」

「……えっと」

「あー、着替えねえな。平野君の部屋入っていいならあたし取りに行くけど」

「自分で行きます」

「心配だからついていっていい?」



 一旦火を止めて、一緒に平野くんの部屋に入る。

ドアを開けたとき瞬間、外気温と同じくらい冷たい空気が頬に触れた。


 廊下は薄っすらと明るい程度で、当たり前だけど人の気配がない。

というか、あまりにひんやりしていて、一昨日までここに人が住んでいたように思えない。



「ここで待ってもらっていいですか?」

「わかった。できれば布団も一式持ってきてくれると助かる。さすがに2日連続床で寝るのはしんどい」

「あ、そうですね、すみません」



 部屋の中に入っていく平野君を見ながら、布団一式持ってこれるのか不安になった。

でも部屋に入られたくなさそうだったしな。



「布団は1枚ずつでいいから!」


 部屋の奥に向かって声を上げる。

しばらくすると平野君がスポーツバッグを持って戻ってきた。



「これの中身が服です」

「オッケー、じゃあ部屋に持ってく。布団は1枚ずつだぞ。無理すんなよ」

「はい」



 運び込んだスポーツバッグと布団一式を部屋の奥、カラーボックス隣の空いたスペースに置いた。

狭い部屋が更に狭くなったけど、もので埋まっていくのは嫌じゃない。



 風呂にお湯を溜めている間に平野くんにお粥を食べさせる。

昨日よりかなり回復してきているようで、ご飯は食べるし横になりながらも会話が長くできるようになった。



「ベッドは、当分平野君が使っていいから、あたしに布団貸してくれる?」

「え、俺自分の布団使います」

「いや、起き上がるとき、ベッドのほうが楽らしいんだよ。さっき調べた」

「そうなんですね。じゃあすみません、ベッドお借りします」

「はいよ」



 給湯器の音楽が鳴る。お湯が溜まったようだ。

平野君が服を出すというので、荷物の隣の洋服ダンスからバスタオルを取り出す。



 風呂場はトイレ、洗面台との一体型だ。

シャワーの上に網棚のようなラックがあって、そこにバスタオル放り投げる。

 風呂場で倒れるかもしれない、体を拭く程度にしたほうが良かったかもしれないと思ったけど、平野君本人が何日も入っていないからと風呂に入ることになった。



「気分悪くなったら音出して。シャワーヘッドぶん投げるとかして」



 音を出したところで全裸の平野君を助けられるか微妙だけど。

どう反応したら良いのかわからないのか、平野くんが苦笑しながら首を傾げた。


 平野君が風呂に入っている間、カラーボックスの上に置いてある「大事なものボックス」の中から通帳を取り出す。

貯金、60万弱か。
これか社会人3年目の貯金額として多いのか少ないのかわからないけど、平野君1人くらいは養えるような気はして安心する。



 自分でもどうして平野君に世話を焼くのか、考えてみたけど答えが出ない。

事故物件の隣に住みたくないからなんて、本当はそんな変な理由じゃない。

ただ、隣からいなくなってほしくなかった。

 片親で育ったあたしと施設で育った平野君とは環境は全く違うのに、彼をどこか弟のような存在として見ているのかもしれない。





「お風呂、ありがとうございました」



 首にタオルを巻いて、脱いだ服を持った平野君が部屋に戻ってきた。



「あぁ、服、そこの洗濯機に入れといて、洗うから」



 トイレ兼風呂場の隣、部屋に入る手前にある洗濯機を指で示す。



「はい」



 最初こそ、ことあるごとに遠慮しまくっていた平野君が、とうとうすんなりと支援を受け入れてくれるようになった。

 部屋に戻ってきて、テーブルとベッドの間、白いラグの上にちょこんと座る。



「髪、びしょびしょじゃん。ちょっと待ってて、ドライヤー出す」



 通帳を「大事なものボックス」にしまってドライヤーを出してから平野君の後ろのベッドに腰掛ける。



「え、自分でやる……」

「いいから」



 後ろを振り向こうとする平野くんの顔にわざと温風をかけて前を向かせる。

濡れて束になった薄い茶色の髪が風になびく。

元々の色素が薄いのか、スウェットから見える骨が浮き出た首筋はあたしよりも白い。


 頭を少し傾けて、居心地悪そうにスウェットの袖をつまんでいる。

本当に捨て猫を拾ったみたいだ。

そういや一度だけ、アパートの階段に集まる猫を拾おうとしたことがある。

何個か猫缶を配置していたら、隣のエキゾチック美女が「エヅケ、ダメヨー」と本気で嫌がっていた。

あの猫は冬になってから、まだ見ていない。今年はどこで冬を越すのだろう。




 平野君が平日、あたしの部屋で過ごすにあたって、3つのルールを設けた。

1つ、ファンヒーターは絶対止めないこと。
2つ、黙っておとなしく寝ていること。
3つ、ご飯はしっかり食べること。



「特にファンヒーター、止めたら寒くて死ぬからな」

「はい」

「ごはんはお粥、大量に作っておいたしおかずも買ってきたやつだけど冷蔵庫にあるから、ちゃんと食えよ」

「はい」

「鍵かけて出るから。誰か来ても開けなくていいから」

「はい」

「じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」



 ドアを閉めてガチャリと鍵をかける。

これって軟禁状態になるのか? 自分がしている行為がいよいよ犯罪じみてきて頭を振る。いやいや人命救助。人命救助だ。






「汐、今週の金曜日、暇?」



 2ヶ月連続、合コンで成果を出せない横内明日香が焦りをにじませながら昼休憩中のデスクに詰め寄ってきた。



「あ、悪いんだけど当分合コンは無理」

「えー。 あ、もしかして石川さんと付き合うことになった?」

「いや、……いとこが泊まりに来てて」



 平野君とのことをどう言えばいいか迷った。

別にやましいことはしていないはずなのに、「隣の部屋の人が死にかけてたからしばらく一緒に住む」なんて正直に話しても一発で信用してもらえる気がしない。



「へぇ、そうなんだ。じゃあまた誘う! ていうか、石川さんとは本当に付き合ってないの?」

「ないよ」

「結構、ご飯食べに行ってるよね」

「うん」

「その後は?」

「家の近所まで送ってもらって終わり」

「……なにそれ。それでいいの?」



 良いも何も、好きかどうかわからない。

一緒に食事をする分には楽しいんだけど、それ以上のことをするという想像ができない。

 仮に好きだと言われて付き合えるのか、それすらもわからない。



 ちょうどそのタイミングで石川さん本人からメールが届いた。『今週の水曜日、会える?』という短い文章。

 横内明日香が携帯の画面を覗き見る。



「どうするの?」

「どうするって、断るよ」

「そのいとこっていつまでいるの?」

「さぁ。しばらくはいると思う」



 横内明日香に使った言い訳をそのままメールにしたためた。



『すみません、いとこが泊まりに来ててしばらく食事に行けません』



 送信ボタンを押して1分もしないうちに着信音が鳴る。

横内明日香も一緒になって驚く。

席を立って、給湯室まで走った。



「……はい」

『汐? 来週は時間取れそう?』

「あ、ちょっとわかんないです」

『そっか、残念』

「ごめんなさい」

『ううん。そのいとこっていつまでいるの』

「……しばらくはいると思う」



 横内明日香に言ったことと同じことを繰り返す。一瞬の間を置いて、石川さんの声が低くなった。



『ーー男?』

「え?」

『いとこ』

「……ち、がいますよ! 女の子です!初めての就職でちょっと悩んじゃって、実家に帰れなくてうちに避難してきてる、女の子です」



 内心、ドキドキしながら携帯を耳に押し当てる。なんでこんな嘘をついたのだろう。

 電話の向こうで石川さんが笑った。



『すごい焦ってる』

「……いえ、そんなことは」

『じゃあ、時間ができたら連絡ちょうだい』

「はい」



 プツッと通話が切れた。

時間ができたら……、当分は無理そうだ。

あの状態の平野君を置いて石川さんと食事に行くなんて考えられない。

 ひと仕事を終えた後のように、深く息をつく。

給湯室から出ようとしたところで横内明日香が入ってきた。



「電話、石川さんから?」

「うん」

「ご飯、行かないの?」

「……うん」



 石川さんとの食事は毎週の楽しみだったところがある。

だけどそれ以上に今は平野君のことが心配だった。

いくら一人暮らしの経験があるからといって、夜に1人にしたら、手負いの野良猫みたいに一瞬で信用を失って二度と戻ってこないんじゃないかと思う。


 あの「生きていくのがしんどい」と言ったときの平野君はもう見たくない。



 仕事を終えて自宅の玄関を開けると、すでに部屋が暖かかった。

平野君がいるから当たり前なんだけど、一人暮らしをしてから誰かが自分の部屋にいるというのは初めてで、明るい部屋にも一瞬動揺した。



「おかえりなさい」



 平野君がわざわざ玄関まで出迎えてくれた。



「ただいま。起きてて大丈夫なの?」

「うん、一昨日よりかなり体調良くなりました」

「そりゃあよかった」



 部屋は電気とファンヒーターだけついていて静かだった。



「テレビ、適当に見てていいのに」

「うん」



 バッグをテーブルの脇に置いてキッチンを見る。水切りかごの中には茶碗とスプーンが入っていた。



「ご飯はちゃんと食べたんだな。えらい」

「うん」



 平野君が褒められて嬉しそうに目を細めた。



「じゃあちょっと着替えてくるついでにシャワー浴びてくる。晩ご飯はその後でもいい?」

「うん」



 暇にならないようにテレビをつける。

あたしがやらないとどうせ自分からつけないだろうし。

 自分の定位置をそこに決めたのか、テーブルとベッドの間に座る平野君に無言でリモコンを手渡して、着替えを持って風呂場に向かった。



 シャワーを浴びながら、晩ご飯のことを
考える。何を食べさせよう。

3日連続お粥じゃさすがに飽きるよな……。体に優しいもの。消化しやすいもの。

専門学校時代に栄養学について散々勉強してきたはずなのに、実際思い出せないんじゃ、なんの役に立たない。


 苦肉の策で野菜スープを作ることにした。

小さい頃、あたしが風邪をひいたときなんかはお粥よりも野菜スープが出ていた気がする。

でもお粥に野菜スープ? パンでもいいかな。



 風呂場から出て、さっそく狭いキッチンの上に昨日買ったばかりの野菜を並べる。

キャベツ、ブロッコリー、人参、大根、カボチャ……。

 メニューを考えずに手当たり次第に買ったものだけど、なんとかなりそうな気がしてきた。

とりあえず大根は冷蔵庫に戻ってもらう。代わりに牛乳を取り出す。

ミルクスープでいいかと思って、幼少期に食べた味の記憶を辿ってみる。

作れるか? 今からでもダディに作り方を聞くか? いや、忙しいだろうな。
 ーーとりあえず、人参の皮を剥くか。 



 それぞれの野菜を細かく角切りにしていたら、入れ替わりでシャワーを浴びてきた平野君がとことことあたしの隣に立った。

その顔をまじまじと見ていたら「うん?」と首を傾げた。



「……あご細え。咀嚼力はあんだよな」

「そしゃく?」

「噛む力。立って歩いてるなら大丈夫か」

「うん、大丈夫です」

「あー、昨日から思ってたけど、うち、ですます禁止だから。あとドライヤー、そこに出してあるから髪乾かしてこい」

「はい」



 つけっぱなしのテレビの音がドライヤーにかき消される。

鍋でベーコンをかるく炒めてから野菜と水を入れて火にかけた。

 作り出してから思ったけど、完成までにどれくらいかかるんだ? 時計はすでに夜の7時をさそうとしている。



「俺もなんか手伝いたい」

「いや、もうやることない」



 髪を乾かし終えた平野君がまたキッチンにやってきた。



「もう完成する?」と言いながら、鍋の中を覗き込む。



「まだまだ。ごめん、もうちょい段取りよくやればよかった。お腹空いてる?」

「平気」

「ここで黙ってみててもまだできねえし、いちご食べよ」



 父からもらったいちごを冷蔵庫から取り出す。

水洗いして皿に盛って、平野君と一緒にテーブルを囲むように座った。


 テレビではちょうどゴールデンタイムのバラエティ番組が始まったところだった。

興味がある番組なのか、座ってから、いちごのヘタを取る手を止めて平野君がテレビに見入っている。


 弟がいたら、こんな感じなんだろうか。

昨日と一昨日は必死すぎて目まぐるしかったから、思う余裕がなかったけど、今この瞬間が新鮮で楽しい。

そういやテレビに昨日と一昨日は話しかけてないな。
一緒の空間に誰かがいるってこういうことか。この感じ、久しぶりだ。





 結局、渾身のミルクスープができたのは午後8時過ぎだった。

待たせすぎたことが申し訳なくて、いちごの他にヨーグルトも食べさせた。

結局、晩御飯はミルクスープとバターロールだけ。

こんなので腹が満たされるのか不安だったけど、平野君はニコニコしながら空になった皿の前で手を合わせた。




「足りた?」

「うん、腹いっぱい」

「ほんと? 遠慮じゃなくて?」

「本当」



 平野君があたしの分の空いた皿も流し台まで持っていって、そのまま袖をまくる。



「なに、洗ってくれんの?」

「うん」

「助かるー」



 照れたように笑う平野君の横顔を見てから、なにげなく袖の隙間から見えたあざにぎょっとする。

細い腕のほとんどを覆うそれはボコボコとまだらに盛り上がった皮膚だった。

ところどころふやけたように白く、そこだけ引攣れたように皮膚の質感が違う。

火傷の痕だとすぐにわかった。


「これ、どうしたの?」

「……小さいときに、ポットのお湯かかっちゃって」

「痛い?」

「昔のことなんで、今は全然」



 皿の泡を流して、濡れた手のまま袖を引っ張って腕を隠す。

よく見ると手の甲にも丸いクレーターのような痕がいくつもついていた。

 施設で育ったという理由を垣間見た気がした。

薄々気づいてはいたけど、こんな証拠のようなものを見てしまうと、やるせなくなる。



「洗ってくれてありがとう。後はあたしが片付けるからテレビ見てな」

「……うん」



 バツが悪そうにうつむいて、平野君がキッチンから離れた。

定位置に座ってテレビを眺めている。うつろに見える横顔に、聞かなきゃよかったと後悔する。




 平野君はそれから、部屋の電気を消すまで一言も話さなかった。

布団を敷くと言ったら無言のままうなずいてベッドによじ登って、そのまま背中を向けて布団に入る。

 テレビと電気を消して、しばらくすると我慢し損ねたような遠慮がちな咳が聞こえてくる。

それは夜中まで続いていた。

 



「……まだ起きてんのか」

「……ごめんなさい、咳、うるさい?」

「ううん」

「汐さん、」

「平野君、真雪って名前、誰がつけたの?」



何か言いたそうにあたしの名前を呼んだ平野君を無視して、言葉を紡ぐ。



「……知らない」

「真雪って、いい名前だよな。真っ白い雪ってそのまんまでさ、本当に平野君に合ってる」

「…………」

「あたしさ、冬の夜が好きなんだ。真っ白い雪が積もると、街灯に照らされて夜が明るくなるから、遅い時間に歩いててもそんなに怖くなくて」

「あ、」


平野君がここからいなくなるかもしれないと思うと怖くて、一方的に話し続けた。

火傷の痕の理由も施設で暮らすことになった理由も聞きたかったけど、聞けばきっとここからいなくなるだろう。
それだけは嫌だった。



「なぁ、真雪って呼んでいい?」

「……うん」

「真雪」

「うん?」

「強く生きろよ。親元離れたら無敵だぞ」

「なにそれ」

「あたしの経験上、そうなんだよ。今のお前はまず体調良くなってからだけどな」



 「えぇ?」と言いながら、ふっと真雪が笑う。その声を聞いて安心する。

外から黄色いライトが光って、除雪車の作業する重底音が聞こえる。


 明日は何を作ろう。朝ご飯は何にしよう。あ、米研いでおけばよかったな。まぁ、朝でも間に合うか。



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