金曜日の恋人〜花屋の彼と薔薇になれない私〜
「なぁ……」

 キッチンの片付けをしている芳乃の肩に匠が腕を回した。芳乃は弾かれたように顔をあげると、まじまじと夫の顔を見つめた。

「なぁに、どうかしたの?」

 こんな至近距離で匠の顔を見るのはいつ以来だろう。もう長いこと彼の背中しか見ていなかったことに、いまさら気がつく。

「いや、そろそろさ……子供のことを話し合わないか?」

 匠に気がつかれないよう、芳乃は小さく息をはいた。

(この人は本当に……私じゃなくお父さんと結婚したようなものね)

 父はとうとうしびれをきらして、匠にもおせっかいをしはじめたのだろう。
 それにしても、父からせかされれば、匠はこうも簡単に動くのか。長年のレスも芳乃の気持ちも、まるでなかったことのようにして。

『どれだけ話し合っても子供はできないわよ。あなたの嫌いな、つまらない行為をしないかぎりはね!』

 そうぶちまけてやりたい気持ちをなんとかこらえた。喧嘩も話し合いも、いまさらだ。自分達は、もうなにもかもが遅すぎるのだ。
 芳乃にできることは、見ない振りをして、気づかない振りをして、ただその場をやり過ごすだけ。

「そうね。そのうちにね」

 仮面のような笑顔をはりつけて、芳乃は皿洗いを再開した。これ以上会話をしなくて済むように、蛇口から大量に水を流す。ザーザーという大きな音が芳乃を守ってくれているように感じた。

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