最終列車が出るまで
「もしもしとうさん、お疲れ様です。わたくし、六時三十八分の列車なんですけど。大丈夫、だよね?」
──ダンナの事を『とうさん』と呼ぶようになったのは、いつからだっただろう?
優しくてカッコよくて憧れながら、人として尊敬もしていた職場の四つ年上の先輩。
なんとなく付き合い始めた頃は、本当に先輩の“彼女”になれたのか、不安を感じてばかりだったな。
私の両親の離婚とか、私の最終学歴が高校だとか。そういういくつかの事が、先輩のご両親に歓迎されていないと、先輩の様子から察していた。
山あり谷ありの長い長い春の末、将成先輩と同じ名字の『林田芽衣子』となった私。
先輩と出会った時はピチピチの二十歳だった私は、大人の色気がムンムン漂う?三十路に突入していた。
結婚して三年、『不妊症』の言葉が過っていた。周囲からは当たり前のように「まだ?」と訊かれる。「コウノトリの気分次第?」なんて、不安を隠しながら曖昧に笑っていた。
二人の心と身体を重ねる大切な営みが、ただの『子どもを作る為の行為』となりそうになった時、長女 逸美を授かった。
その三年後には、次女 夏美を出産した。
二人の卒業・入学が重なる大変さはあると思う。が、逸美も三才になると、こちらの言う事が理解でき、少しだけ子育てが楽になった。かといって、あまり逸美と離れ過ぎると妊娠・出産・育児の感覚が薄れてしまう。“三才差”というのは、私にとってベストなタイミングに思えた。
職場でも優しかった先輩は、家事・育児も積極的に手助けしてくれる、頼れるダンナ様となった。