君のブレスが切れるまで
第43話 卒業の日
2020年 3月 上旬
暖かい日差しの中、雨と出会った駅前通りを懐かしく思いながら歩く。今日はいつもより早く家を出た。学校に行く前に少し徘徊してみよう。
私は駅から少し離れた場所、人通りの極端に少ない薄暗い高架下へと行ってみる。
あの日、いじめられていたその場所にはもう誰の姿もない。私をいじめていた三人は未だ目を覚ましていないのだ。
「辛い思い出は色濃く残るんだね……」
フェンスに手をかけながら一人ぼやく。ここにあるのは――
いじめられた記憶。
私にハンカチを差し出してくれていた雨の記憶。
喫茶店で待っていたはずの彼女が、私を助けにきてくれた記憶だけ。
「全部、いじめが関係してる。雨の記憶も今となってはすごく辛い……よ……」
言葉をその場所へと残し、私はここを後にする。やっぱり、雨を思い出すと胸がとても痛くなる。特にあの事故現場へ足を踏み入れてしまえば、心臓が止まってしまうんじゃないかと思うくらいに。
それなりの時間が経って、私が落ち着いた頃に小物屋さんの夏美さんに会った。雨が亡くなったことを少しだけ話して、お別れしてからはもう会っていない。ただ雨のことを覚えてくれている人がいて、少しだけ安堵した。もうほとんど誰も雨の名前を出さなくなっているから。
タッタッタという足音と共に駅の方へ戻ると、足を止めていた人が前へと飛び出て、私はぶつかることになってしまう。
「っ……ごめんなさい。大丈夫?」
「いてて……すみません。こちらこそ、急に動いたりして」
小柄な男の子、中学生だろうか? 咄嗟に私を避けようとしたのか転んでしまったようだ。そのおかげで私は倒れなくて済んだが……。
手を差し伸べると、彼はその手に気づいて握り返してくれる。そしてそのまま引き起こす。
「痛っ……」
「足擦りむいちゃったんだね。ごめん、今治療するから」
「いや、そんなの――」
「いいから、バイキン入ると痛いよ」
彼を駅の入口にある段差に座らせると、私はカバンを漁り治療道具を探す。
消毒液は見つけたけど、残念ながらガーゼは切らしているようだった。
代わりになるのはポケットに入っているハンカチだけど、このハンカチは雨の……。
少しだけ悩むが、怪我をさせてしまったのは私だ。綺麗な白いハンカチをポケットから取り出すと、消毒液を少量浸し、擦りむいてしまった彼の傷口へと結んだ。
「お姉さん、そのセーラー服……あの学校の人?」
「え? ああ、うん。そうだけど……それがどうかした?」
話を聞いてみると、どうやら今年の入学生のようだ。道に間違わないように下見に来るなんて、律儀というかなんというか。そのせいで怪我をしましたなんて、元も子もない。
「せっかくだから、学校の場所まで一緒に行く? 私が怪我をさせてしまったというのもあるんだし」
「マジですか! こんなん怪我のうちに入りませんけど、案内してくれるっていうなら助かるっす!」
「え、ええ……」
急に上がる彼のテンションについていけない私、でも、とにかく案内することにした。今から行けば頃合いがいいだろうし、校門付近でルリと出会うかもしれない。
桜が舞い散る中、私は彼と喋りながら学校へと歩いていく。
「へぇ、中学校の卒業式ってもう終わったんだ」
「ですです! で、今日は高校の卒業式らしいじゃないですか? せっかくだから下見も兼ねて覗いてみるかーって感じで」
「体育祭とか文化祭みたいなお祭りじゃないから、入っても何もできないよ。そもそも……」
ジロリと彼の服を見てみる。
青いTシャツに膝上の短パン。中学校の学ランでもなければ高校指定の制服でもない。入学式も終えてないし、入ったところで部外者だ。
「外から見るだけにしておくんだよ」
「まぁ、そうしておきます。捕まって入学取り消しとかシャレにならんので」
明るく笑う彼に、私は少しだけ羨ましく思った。この子くらいの時は、もう少しだけ笑えてたのかな? いや、あの時もあんまり笑ってなかったか。叔父からの虐待受けてたし。
慣れ親しんだ坂道を歩いていくと校門が見えてきた。門の前に立っていたルリが気づいて、手を振ってくれている。
「友達っすか?」
「うん。それじゃ私はもう行くから、学校の場所わかったよね?」
「完璧っす! あ、でも……わからないことが一つ……」
「……なに?」
難しい顔をして俯く彼に、私は首を傾げる。すると、
「お姉さんの名前教えてもらってもいいですか!」
私の名前を聞いてきた。別に名乗るほどの名前でもない、今日は卒業式で、彼が入学する頃にはいないのだから聞いてもしょうがないだろう。
……それでも、なんでだろう。
優しい風が私の髪を撫ぜる。その髪を耳にかけると、私は彼にこう返した。
「奏。赤坂 奏だよ」
「奏先輩ですね! 俺、その目、すっげぇ好きです! 超クールです!」
そう言われ、大きく手を振って去っていく彼に私は目を丸くしてしまった。
次の瞬間、背中に大きな衝撃が走る。
「奏! 今の誰⁉ 告白されてなかった⁉」
ルリが後ろから抱きついてきている。少々距離があったはずなのに、どんな早さで来たんだか……。そもそも告白でもないし。
「違うよ、今年の入学生なんだって。学校の下見をーって言ってたから、案内してあげてたの」
「ふぅーん、それって新手のナンパとかじゃ……」
「中学生がナンパとかするかなぁ……そもそも名前すら聞いてないし」
そうなんだよ、私の名前を聞くだけ聞いて自分の名前は教えなかった。一体、なんだったんだろ。それに私もなんで律儀に名前を教えたんだか。
あっそう……と興味を失ったようにルリは私の背から離れる。
「惜しいことしたなぁ、少年。いくら名前を聞いても、奏は今日卒業なのよねー」
「入学したら残念がるかなぁ?」
「まぁ、探すんじゃない? 奏、二年生に見えるし」
「若く見えるってことにしておいてあげるね?」
我ながら上手い返しで、ルリはぐぬぬと唸っていた。
そういうルリも小さくて一年生に見えるから大丈夫だよなんて返し方もあったけど、怒りそうな気がするので自分の口にはしっかりチャックをしておく。
そして、私は今日、雨と過ごした高校を卒業した。
ルリは税理士と美容師のどちらかを悩んだ結果、美容師になることを決め、専門学校へと進むことに。親がうるさく税理士になれと言わなかったのは、自分がとても大変な思いをして何年も何年も勉強に身を焦がしたかららしい。
私はというと、やりたいことというか、とりあえず自分の長所を伸ばそうと医療の短期大学に進学することになった。ルリに勧められたと言うのもあるけど、いろいろな痛みがわかるから誰かの痛みを和らげたいというのもあったのかもしれない。
短期大学を選んだのは、早く卒業するためでもある。その分、人を助けられるかもしれないから。
それから時は過ぎ――
私は未だ過去を断ち切れないまま、二年弱の月日が流れた。
暖かい日差しの中、雨と出会った駅前通りを懐かしく思いながら歩く。今日はいつもより早く家を出た。学校に行く前に少し徘徊してみよう。
私は駅から少し離れた場所、人通りの極端に少ない薄暗い高架下へと行ってみる。
あの日、いじめられていたその場所にはもう誰の姿もない。私をいじめていた三人は未だ目を覚ましていないのだ。
「辛い思い出は色濃く残るんだね……」
フェンスに手をかけながら一人ぼやく。ここにあるのは――
いじめられた記憶。
私にハンカチを差し出してくれていた雨の記憶。
喫茶店で待っていたはずの彼女が、私を助けにきてくれた記憶だけ。
「全部、いじめが関係してる。雨の記憶も今となってはすごく辛い……よ……」
言葉をその場所へと残し、私はここを後にする。やっぱり、雨を思い出すと胸がとても痛くなる。特にあの事故現場へ足を踏み入れてしまえば、心臓が止まってしまうんじゃないかと思うくらいに。
それなりの時間が経って、私が落ち着いた頃に小物屋さんの夏美さんに会った。雨が亡くなったことを少しだけ話して、お別れしてからはもう会っていない。ただ雨のことを覚えてくれている人がいて、少しだけ安堵した。もうほとんど誰も雨の名前を出さなくなっているから。
タッタッタという足音と共に駅の方へ戻ると、足を止めていた人が前へと飛び出て、私はぶつかることになってしまう。
「っ……ごめんなさい。大丈夫?」
「いてて……すみません。こちらこそ、急に動いたりして」
小柄な男の子、中学生だろうか? 咄嗟に私を避けようとしたのか転んでしまったようだ。そのおかげで私は倒れなくて済んだが……。
手を差し伸べると、彼はその手に気づいて握り返してくれる。そしてそのまま引き起こす。
「痛っ……」
「足擦りむいちゃったんだね。ごめん、今治療するから」
「いや、そんなの――」
「いいから、バイキン入ると痛いよ」
彼を駅の入口にある段差に座らせると、私はカバンを漁り治療道具を探す。
消毒液は見つけたけど、残念ながらガーゼは切らしているようだった。
代わりになるのはポケットに入っているハンカチだけど、このハンカチは雨の……。
少しだけ悩むが、怪我をさせてしまったのは私だ。綺麗な白いハンカチをポケットから取り出すと、消毒液を少量浸し、擦りむいてしまった彼の傷口へと結んだ。
「お姉さん、そのセーラー服……あの学校の人?」
「え? ああ、うん。そうだけど……それがどうかした?」
話を聞いてみると、どうやら今年の入学生のようだ。道に間違わないように下見に来るなんて、律儀というかなんというか。そのせいで怪我をしましたなんて、元も子もない。
「せっかくだから、学校の場所まで一緒に行く? 私が怪我をさせてしまったというのもあるんだし」
「マジですか! こんなん怪我のうちに入りませんけど、案内してくれるっていうなら助かるっす!」
「え、ええ……」
急に上がる彼のテンションについていけない私、でも、とにかく案内することにした。今から行けば頃合いがいいだろうし、校門付近でルリと出会うかもしれない。
桜が舞い散る中、私は彼と喋りながら学校へと歩いていく。
「へぇ、中学校の卒業式ってもう終わったんだ」
「ですです! で、今日は高校の卒業式らしいじゃないですか? せっかくだから下見も兼ねて覗いてみるかーって感じで」
「体育祭とか文化祭みたいなお祭りじゃないから、入っても何もできないよ。そもそも……」
ジロリと彼の服を見てみる。
青いTシャツに膝上の短パン。中学校の学ランでもなければ高校指定の制服でもない。入学式も終えてないし、入ったところで部外者だ。
「外から見るだけにしておくんだよ」
「まぁ、そうしておきます。捕まって入学取り消しとかシャレにならんので」
明るく笑う彼に、私は少しだけ羨ましく思った。この子くらいの時は、もう少しだけ笑えてたのかな? いや、あの時もあんまり笑ってなかったか。叔父からの虐待受けてたし。
慣れ親しんだ坂道を歩いていくと校門が見えてきた。門の前に立っていたルリが気づいて、手を振ってくれている。
「友達っすか?」
「うん。それじゃ私はもう行くから、学校の場所わかったよね?」
「完璧っす! あ、でも……わからないことが一つ……」
「……なに?」
難しい顔をして俯く彼に、私は首を傾げる。すると、
「お姉さんの名前教えてもらってもいいですか!」
私の名前を聞いてきた。別に名乗るほどの名前でもない、今日は卒業式で、彼が入学する頃にはいないのだから聞いてもしょうがないだろう。
……それでも、なんでだろう。
優しい風が私の髪を撫ぜる。その髪を耳にかけると、私は彼にこう返した。
「奏。赤坂 奏だよ」
「奏先輩ですね! 俺、その目、すっげぇ好きです! 超クールです!」
そう言われ、大きく手を振って去っていく彼に私は目を丸くしてしまった。
次の瞬間、背中に大きな衝撃が走る。
「奏! 今の誰⁉ 告白されてなかった⁉」
ルリが後ろから抱きついてきている。少々距離があったはずなのに、どんな早さで来たんだか……。そもそも告白でもないし。
「違うよ、今年の入学生なんだって。学校の下見をーって言ってたから、案内してあげてたの」
「ふぅーん、それって新手のナンパとかじゃ……」
「中学生がナンパとかするかなぁ……そもそも名前すら聞いてないし」
そうなんだよ、私の名前を聞くだけ聞いて自分の名前は教えなかった。一体、なんだったんだろ。それに私もなんで律儀に名前を教えたんだか。
あっそう……と興味を失ったようにルリは私の背から離れる。
「惜しいことしたなぁ、少年。いくら名前を聞いても、奏は今日卒業なのよねー」
「入学したら残念がるかなぁ?」
「まぁ、探すんじゃない? 奏、二年生に見えるし」
「若く見えるってことにしておいてあげるね?」
我ながら上手い返しで、ルリはぐぬぬと唸っていた。
そういうルリも小さくて一年生に見えるから大丈夫だよなんて返し方もあったけど、怒りそうな気がするので自分の口にはしっかりチャックをしておく。
そして、私は今日、雨と過ごした高校を卒業した。
ルリは税理士と美容師のどちらかを悩んだ結果、美容師になることを決め、専門学校へと進むことに。親がうるさく税理士になれと言わなかったのは、自分がとても大変な思いをして何年も何年も勉強に身を焦がしたかららしい。
私はというと、やりたいことというか、とりあえず自分の長所を伸ばそうと医療の短期大学に進学することになった。ルリに勧められたと言うのもあるけど、いろいろな痛みがわかるから誰かの痛みを和らげたいというのもあったのかもしれない。
短期大学を選んだのは、早く卒業するためでもある。その分、人を助けられるかもしれないから。
それから時は過ぎ――
私は未だ過去を断ち切れないまま、二年弱の月日が流れた。