君のブレスが切れるまで

第48話 謝罪

 2023年 3月


 短大生活最後の日、卒業式が終わった。
 とうとう私にはやることが無くなってしまった。前髪は定期的に切っていたけど、後ろ髪は伸びきってしまい背中ほどにまでなっている。
 何もやりたいものが見つからないまま来月には誕生日、また歳をとってしまう。いくらでも蓄えがあるからと言って、人間、何もしなかったらどんどんダメになっていく。
 でも、それでもいい。私を必要としている人なんて誰もいないのだから。


「ただいま……」


 家に帰り着くと決まってこう言うのが癖だ。誰もいないのに、誰とも暮らしてなんかいないのに。ずっとずっとこう言い続けてる。
 私は靴を脱ぎ、家へ上がるとリビングへ進んだ。
 リビングやキッチンは綺麗で、捨て忘れたゴミとか洗い忘れた食器というのはない。自分自身の生活は酷いものだけど、彼女がいたはずのこの家の掃除だけはちゃんとしているのだ。
 私は上着を脱ぐとダイニングテーブルの椅子へとそれを掛け、座る。
 向こうの席には、顔の見えない女の子が座っていた。しかしそれは私の幻想で、思い出で、話しかけても反応が返ってくることはない。顔も出てこないなんて、もうこんなにまで忘れているのか。


 今日はどうしよう。……明日からはどうしようか?


 そんな考えだけがぐるぐると頭の中で回るけど、いい考えは思いつかない。
 本当に、どうしようか。


 §


 気づいたら私はあやかのいる病院へと来ていた。雨を殺した女に依存してしまっているなんてなんて滑稽なんだろう。頭がおかしくなっている証拠だ。
 いつもの病室の扉を開ける。部屋にはベッド、そこに座り、窓の外を見ていたあやかの姿があった。


「こんにちは、また来てあげたよ?」
「奏……か。随分久しぶり」


 振り向いてそう言ってくれる彼女の顔は、同年代とは思えないほどやつれている。無理もないか、何度も何度も私を殺せと言ってナイフを持たせたのだから。日に日にやつれていくその姿が、あの子へのせめてもの手向けになればいいと思っていた。


「今日も殺せばいい?」
「できるならそうして欲しいんだけどね」


 運の力は強大だ、もうあやかじゃ私を殺すことはできない。あれから何ヶ月も経っている。
 私に備わる祝福の眼の力は未だに誰にも効果を発揮することはできない。対象が見つからないのだ。もしもあやかに使うことができたなら、その運を上げ、死んでいる私を殺すことだって可能だったかもしれない。
 ……私が死んだ後の世界なんて興味はない、でもこいつを許すこともできない。運が上がれば、私が死んだ後、こいつを苦しめられる存在はいなくなる。その中でのうのうと生き続けられるのは嫌だった。


 死にたいのに、死んでるから死ねない。
 死にたいのに、死んだらあの子を殺したこいつを苦しめることができない。
 苦しいよ、雨……どうして私にこんな呪いをかけたの?
 彼女を思い出す度にズキリと胸が痛む。けど、顔を歪めたりはしない。ここでそんなことをすれば、こいつを喜ばせることになるかもしれないから。
 私は苛立ってしまい、歯を食いしばらせるとあやかの胸倉を掴んだ。


「どうして……どうして雨を殺したの。どうして……どうして?」


 華奢な体。私をいじめていた時とは違う、今なら逆にこいつを暴力でいじめ返せるだろう。
 でも、痛めつけて、心身共に疲弊させても、私の心の空白が埋まるなんてことはない。そんなことはわかっていた。
 けど、


「…………ごめん」


 あやかから思いもよらぬ言葉が飛び出した。
 その瞬間、私の中で何かがプツンと切れ、俯いていたその顔を引っ叩いた。


「なに、何……それ……なんで、謝るの……?」


 声が震えている。私の声が、明らかに怒りで震えてる。


「っ……謝って済むことじゃないとは思ってる。だけど――」
「謝んなよ……謝るなよっ! 私の中でのお前は悪なんだよ? ずっと、私をいじめて私から大切なものを奪って、なんで、どうして今更謝る⁉」


 手の甲で逆側の頬を引っ叩く。心の空白なんか埋まらない、虚しいだけ。わかってる……わかってる!
 でも、止まらなかった。


「うぐっ……っ――ごめん、あたしは自分が楽しければいいって思ってた。あんたらに一泡吹かされて面白くなかった……あたしはガキだった。馬鹿だったんだ……よ」
「それで……! それで……雨は死んだんだよ。お前が殺したんだよ……私も雨の元へ連れってってよ。それができないなら雨を生き返らせてよっ!」
「……ごめん、あたしじゃ……できない……」


 振り上げた手を下ろし、もう一度両手で胸倉を掴むと自分の目前まであやかの顔を引き寄せる。


「私は何度謝られても、絶対に許さない……私を殺せる日が来るまで、私を殺し続けろ! 死んでるからなんて関係ない。私の息の根を止められる日が来るまで、私と雨の為に生きて、生きて生きて生きて生きて生きて! その身で一生詫び続けろ!」


 まるで絶望に染まったような顔。まさかあやかにこんな顔をさせられることができるとは思ってもみなかった。
 これが私から渡すこいつへの罰、呪いだ。


「あたしにはもうあんたを殺せない……けど、それが望みなら、やるよ……」


 そう、その選択しか残されていない。その言葉は一生、私のおもちゃとなるのを同意したものと同じだ。だからといって、私は喜びを感じたりしない。


「……私が死んでいいよって思う日までお前は死なないし、死ねない。これからもこの最低で最悪な世界で生き続けろ。私の為に生きて、それから死んで」
「…………」


 最後にそう告げると、俯いたままのあやかを置いて部屋を後にすることにした。
 殺し続けろとは言ったけど、これは恐らく実行に移されることはない。あんな状態のあやかではもう、私に殺意を向けることもできないだろうから。
 これは言葉の綾として使っただけ、この呪詛はあいつを苦しめる為だけに存在しているのだから。



 病院の帰り、私は大学近くの駅で降りていた。
 それは本当に何となくで、何も考えていない。ただ大学へ行く癖がついていたからだと思いたい。卒業した日になにをやってるんだろう、私は。
 駅の改札口で定期を使い、外へと出る。もう便利な定期を使うことにもなれてしまった。
 構内を出ると陽の光が空から差し込んでくる。まだまだ日は高い。こんなところで何をしようというのか。


「あれ? あ、あの……!」


 語りかけてくるような男性の声。
 私には男性の友人などは存在せず、語りかけてくるようなのはキャッチセールスくらいだ。もしも祝福の眼について知るような人であれば、尚更話をするべきではないだろう。
 私は振り向かず、早足で大学の方へと歩を進めていくと、回り込むようにして私の前へと一人の男性が立ち塞がった。


 ああ、しつこい……一体何?


 見た目、服装は好青年といった感じだろうか? 背は私よりも高く、体格もいい。長すぎず、短すぎもしないが綺麗に整えられた黒髪で、顔は……女性から人気がありそうな感じだ。


「なんですか? 悪いんですけど、セールスとかは……」
「あ、赤坂 奏先輩ですよね⁉」


 そう言われ、私は身構えた。
 誰……? 私の名前を知ってる? それに、先輩? 私の後輩に慕ってくれているような後輩はいないはずだ。
 不審そうに見る私の顔を見て、彼も何かを思ったのか言葉を続ける。


「覚えてませんか? 昔、駅でぶつかった時の……高校の場所を下見しておきたくて、奏先輩に案内してもらった者です!」


 口元に手を当て、記憶を探る。
 強い思い出は私の入学式の頃だけど、卒業式の時にもそんなことが確かにあった気がした。でも、その頃に見た男の子はこの青年の子とは打って変わって違う。
 あの時の男の子はかなり小柄だった。だけど、目の前にいる彼は私よりも背が高く、体つきもかなり大きくて筋肉質。男子と面識がほとんどないせいでわからないけど、たかが数年でここまで変わってしまうのだろうか?


「……確かにそんなことはあったかもしれないけど、私は君みたいな人は知らないです」
「え? そんな、あ、いや……ちょっと背とかデカくなったり、口調が変わったりしてるからかな……で、でも……これを!」


 そういって、彼は白いハンカチをポケットから出して私へと見せてくれる。
 よく見てみると、それは昔、雨が使っていたハンカチ。ということは、本当に彼はあの時の中学生の子?


「ずっと、ずっと返したかったんです。あの時は、ありがとうございました!」


 大きな声と共に深々と頭を下げてくる彼、そんな私たちに視線が集まってきた。
 急に大声をあげてそんなことを言われると正直言って困る。私はハンカチを受け取ると、顔をあげてもらった。


「律儀な人だね、わざわざ返してくれるなんて。大切な物だったから……ありがとう」
「そうだったんですね……本当はもっと早く返すつもりだったんですけど、奏先輩が卒業生だったなんて思ってなくて、ずっと探してたんです」


 照れくさそうに話す彼。私と会えて嬉しいのだろうか、たった一日だけしか会ったことがないというのに。
 でも、今日の私はもう誰か人と会うような気分じゃない。適当に話を切り上げて帰ろう。


「そうなんだ。じゃあ、私は帰――」


 ふと考える、ここへ来たばかりでまた駅の構内へ戻るのは不自然かもしれない。構内を出てから、割とすぐに話しかけられたのだ。見られていたにしろ、違うにしろ突っ込まれるのは遠慮したい。
 少しだけ言葉を濁し、話を変える。


「あー……えっと、こんなところで一体何をしてたの?」
「実は今日、奏先輩が進学した大学の卒業式だと聞いて、もしかしたら会えるかもしれないと来てみたんですけど……道に迷っちゃって」
「どれだけ道に迷ってたの……というか卒業式はもう終わったよ?」
「ですよね……そもそも来た時間すら間に合ってなくてこんな結果に……ですが、奏先輩に会えたので運が良かったかもしれません!」


 運が良かった……その言葉に私は顔を背けてしまう。運が良ければ、すべてがすべて、いい訳ではないことを知っているから。
 そんなことも知らずか、彼は緊張したような声を発した。


「あの! 運がいいついでに……少し、お時間をいただけませんか? ちょっと、奏先輩と話したくて」
「……それは新手のナンパ?」
「ち、違いますよ!」


 慌てる彼。早く帰りたかったというのもあるけど、帰ったからといって何をするわけでもないのだ。この出会いにも何か意味があるのかもしれない。
 自分の運の良さもある、別に悪いようにはならないだろう。ホイホイと着いていくわけじゃないと、少々話を濁しながら最終的に話を受け入れる。
 それから彼はゆっくりできるお店。喫茶店をスマホで探してくれてはいるが方向音痴なのか、なかなか目的の場所へはつかなかった。
 私は近くに見つけた喫茶店を指差す。


「もうあそこでいいよ?」
「し、しかし……ってあそこだー!」
「えぇ……?」


 どうやらそこが彼の探していた喫茶店だったらしい。私の運の良さが彼を救ったのかどうかはわからないけど、ここまで方向音痴だとは……。
 日照りの中で歩いた為、暖房が入っている店内は少し暑く感じる。テーブル席へと通されると、私は上着を脱いだ。


「すみません。一度行った場所は覚えられるんですけど……地図は苦手で……」
「それだと一度も行ったことがないところは大変だね」


 店員さんがオーダーを取りに来てくれたので私はコーヒーを、彼も私と同じのを頼む。


「そういえば、君の名前を聞いてなかったよね。確か高校の卒業式の時でも、私の名前だけを聞いただけじゃなかった?」
「あぁぁぁ! そうだったんですよ、俺……あん時なにやってたんだって思って! 俺、宮城(みやぎ) 光輝(こうき)って言うんです!」
「え……」


 私が言葉を失ったタイミングで、店員さんが二つのコーヒーを持ってきてくれた。


「アイスコーヒーをお持ちいたしました」
「ありがとうございます」


 彼のお礼の後、店員さんの「ごゆっくり」というセリフと共に、ようやく失った言葉が私の中へ戻ってくる。


「そう、宮城……光輝くんだね」


 宮城、宮城か……。こんな巡り合わせになるなんて、思いもよらなかった。
 名字というだけならいくらでもこの国にはいるだろうけど、雨の名字が偽名だとはいえ同じ名字の人に出会うことになるなんて。運がいいのか、悪いのか。


「ど、どうかしましたか?」
「ううん、いい名前だね」


 そういって私は黒い液体の入っているカップを持ち、何も入れないままそれを啜っていく。
 苦い。苦いけど、今の私にはちょうどいい。
 彼もカップを手に取ると、私と同じように何も入れず口へとそれを含んでいく。


「っ…………」


 渋い顔だ。昔、無理してブラックを飲んだ時の私の表情にそっくり。
 私がブラックで飲むもんだから無理しているのだろうか。そうだとするなら男の子だなと感じてしまう。
 けど、そんな無理して美味しくないものを飲むよりは、飲みやすくした方がいい。私は席に備え付けてあるスティックシュガーを手にとった。


「ちょっとお砂糖入れようか?」
「いや、奏先輩は無糖ですよね? それなら俺も」
「気持ちわかるけど、私も苦いって思ってたから一緒に入れよ? それなら大丈夫でしょ?」
「う……それじゃお言葉に甘えて、すみません……」


 男の子は無駄にカッコつけたいところはあるみたいで、それは心を読まなくても手に取るようにわかる。わかってても、わかってない振りをしてあげるのが優しさだろう。
 シュガーを一本、コーヒーの中へ入れると久々に甘いコーヒーを飲んだ。でも、もっともっと甘いほうが私の好きな味。そんなことを少しだけ思い出す。


「あの、奏先輩は卒業後……というかしたのか、どこかの病院へ勤めるんですか?」
「ううん、就職はしてないね。何をしようとも思ってないダメな子だよ」
「え? じゃあどうする予定なんですか?」
「さぁ、どうするんだろうね」


 喉から鳴るコクッという音と共に少しだけ甘く苦いコーヒーを流し込む。
 そうだ、明日も明後日も変わらない。大学へ行く理由を無くした私にやることなんてない。家の中からほとんど出なくなるだろう。


「俺、初めて奏先輩に会った時、他の女の子とは違うなって感じたんです」
「……例えば、この眼とか?」


 右下瞼を指で下げながら言葉を返すと、彼は少しだけ赤くなり顔を背けられた。


「き、綺麗だと思います……。眼も確かにそうなんですけど……もっと……なんていうのかな……」


 彼は言葉に詰まり、うーんと唸り始める。
 お世辞であっても、綺麗だと言われるのは悪い気はしない。わざわざこちらから眼の話題を出したのだけど、この反応。どうやらこの子は祝福の眼については何も知らないらしい。
 私の目的はとりあえず終わったので彼の話題に戻せば、この子の言い分は間違いではない。他の女の子が普通なのであって私がおかしいのだ。違うと感じるのは別におかしなことではない。
 考えが纏まったのか彼は私の目を見ると、ようやく話が紡がれる。


「奏先輩はほとんど表情を変えないけど、すごく優しいじゃないですか。見ず知らずの俺の手当までしてくれて、高校までの案内もしてくれて……でも、気になるんです。どうしてずっと無表情なのか、何かあったんじゃないのかって」


 目の付け所はいいとは思う。けど、裏の気持ちが透けて見えてしまう私にはそれが嫌悪感になった。
 私のことを知りたい、できれば力になりたい。その先にあるのは、今日だけの関係ですべてを終わらせたくないと思っているから。仲良くなりたいのは下心か、それとも本心か。
 黒い部分が見え隠れするのは気分が悪い。ルリにもあんまり気にしてると疲れるだろと言われたはずなのに、意図して見てるわけじゃないのに不意に見えてしまうのはきつい。
 恐らく癖なのだ。人の顔を伺って、何を感じているのか何を思っているのか。知りたいばっかりの私の悪い癖。
 無難な返答をしよう。そして、さっさと終わらせて帰ろう。


「そうでもないよ。私が特別優しいってわけじゃない、看護師を目指してる人なら怪我をしてる人は放っておけないと思うな」
「それは……そうかもですが。でも、それじゃ奏先輩は看護師になる予定じゃなかったんですか?」


 言い方がおかしかった。無難と思っていた回答が自分の首を締めている。
 私は看護師になるわけじゃない。就職先も決まらないまま、大学を卒業したのだから。
 相変わらず話をするのは上手じゃないな……上手く切り上げられないのは昔からだ。


「言葉の綾だよ……治療したのはほんの気まぐれ、私が怪我させちゃったから」
「……でも、あのハンカチは大切なものだったんじゃないんですか⁉ そんな物を見ず知らずの男にどうして」


 ……ああ、口を滑らせていた。確かに、大切な物だとさっき言ってしまった。確かに治療したあの頃も使うか悩んだのだ。
 でもそれは、私が怪我をさせてしまったから。雨は私にすごく優しかったから、彼女を見習ってのことだった。
 そんなの言うべきことではない、この子といると雨の記憶が呼び起こされて胸が痛くなる。


「……いいじゃん、そんなこと。君は返しに来てくれたんだから」
「奏先輩……」
「もう帰るね」


 私はお金をテーブルへ置くと、逃げるように喫茶店を後にする。


「奏先輩、待って――」


 どうして君がここまで私に突っかかってくるのか、気持ちはわかる。私にどういう感情を抱いてるかわかるの。


「奏先輩!」


 追いかけてきた彼に私は手を捕まれるが、無理やりではない。引っ張られもしないし、痛くもない。本当に優しく手を取られている。振りほどけばすぐに解けてしまいそうなくらい。


「離して、話すことなんて何もない」


 ああ、聞きたくない。この子は私がこうなってしまった核心に迫ってきている。どうしてそれが彼にわかるのか、私にはわからない。


「先輩は何かから逃げてる。大切な何かから逃げてるように見えるんです」
「……」


 そう……だよ。私は逃げてる。雨が死んだ事実から、ずっと目を背けてきてるの。あの日、感情を失った日から、ずっと。雨の姿を探して、雨から逃げてる。


「俺は逃げません。出会えなくてずっと後悔したから。今、こんなことを言うのは筋違いかもしれないですけど……俺、あの日、奏先輩に一目惚れしたんです」
「なに……それ」


 その気持ちは気づいていた。でも、どうして私みたいなのに一目惚れしたのかわかんない。
 君みたいな女子に人気の出そうな子なら選り取り見取りで、もっといい子だってたくさんいるはずなのに、高校生時代のすべてを、青春を棒に振ったって言うの? たった一度しか出会ったことがない私を追い続けたの? そんなの馬鹿馬鹿しすぎる。
 私は拒否を示すように首を振った。正直自分の気持ちに整理を付けられない、いきなりそんなこと言われても困るだけだ。


「答えはわかっていました……けど、いつか振り向かせて見せます。奏先輩も逃げないでください。きっと、大切なことはそこにあると思うから」
「…………」


 私は言葉を返せなかった。
 彼は言葉通り、逃げることはせずにすべてを言い切ったのだろう。取られた腕から手が離れる。私は振り返りもせず何も言わないまま、駅の方へとフラフラと向かっていった。
 逃げて、逃げて、逃げ続けた先に待っていたのは絶望しかなかった。それに気づくのにいくら時間が経った? ううん、気づいてからもどれだけの年月が流れた?
 彼の言葉が頭の中でリフレインする。
 逃げないで。逃げないで……か。弱ったな、ずっと目を背けていたのに。ほとんど話したこともない子に指摘されてしまった。


 扉を開けなきゃ。『逃げないで』という言葉に私は終止符を打たねばならない。
 向き合わないといけない。私があの日、無くしてしまったすべての物事と。
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