君のブレスが切れるまで
第49話 背中を押して
2023年 4月 中旬
もうあの子がいなくなって何度目の春だろうか? 高校も大学にも恐らく桜が咲いている。けど、春を彩る桃色の花びらを、私は見ることなく時は過ぎていくだろう。
人はそう簡単に変われるものじゃない。言われて簡単に変われるのなら、明日にも明後日にも人は別人になっていることになる。
私は宮城 光輝くんから告白を受けた日から、自分の物事に終止符を打つため、あの子の部屋へと立った。でも、いざ開けようとすると決心がつかなくて止めてしまうのを何度も繰り返している。
今日も朝、昼、そして夜と繰り返してばかりだ。
「……今日も開けられないまま、もう一ヶ月だよ。いい加減に開けるくらいしなさいよ」
自分を叱咤するが、震える手はドアノブにかけようとして止まる。
なんで、なんでよ。あの子が死んで、一度は開けたでしょ? 何を戸惑う必要があるの⁉
震える手で空気を握る。
ああ、こうなるともう開けられない、明日にしよう。
そう諦めた瞬間、来客を告げるチャイムが家中に響き渡った。
「こんな時間に誰だろ……」
このマンションはオートロックがついている。立ち入る場合は部屋番号を入力して、家主が操作をしないと入れない仕組み。
ルリはなぜかいつもそれを掻い潜って家にまで来ていたけど。
持ち主のいない部屋の扉から離れると私はインターフォンを取り来客者に声をかけて、
「やっはろー瑠璃子だよー! 奏、開けてー!」
……かける前に元気のいい声が返ってきた。アポなしで来るなんて、一体どういうつもりだろうと思いつつもその声に少しだけ安堵する。この頃、一人でいることが多かったから少しだけ寂しかったのかもしれない。
「ルリ、今日は勝手に入って来たりしないんだね」
「高校生の頃の話でしょー? 私も大人なんだから迂闊な行動はしないのよ」
「ふーん……それじゃ、ロック解除したからまた後で」
通話を切ると、玄関へと向かう。さっさと鍵を開けておくのだ。
そして数分後、ベルなしにルリが家へと入ってきた。
「お邪魔するよー! んん? 奏……あんた随分髪の毛ボサボサねー。ちゃんと手入れしてんのー?」
「ううん。誰かと会うわけでもないし、面倒だから」
「今、私と会ってるでしょーに……」
それはルリがアポなしで来たから私のせいじゃないと言いたいところだけど、喉に押し込めリビングへと案内する。
「あー久々ね。高校の頃から来てなかったっけー」
「そうだったね。それで、今日は何しにきたの?」
うえっという感じの顔をしながらルリは、
「相変わらず刺々しいわねぇ、奏は……」
白い箱をテーブルへと置き、椅子に座る。
「んまぁ、用ってほどのもんじゃ……あるけど! 近々あんたの誕生日でしょ? 細かな日にちまでは聞いてなかったから日は合わせられなかったけど、サプライズ的に来たわけよ。電話で話しても忙しいからとかで逃げられるかもしれないし、どうせインドアな奏のことだからいるだろうと思ってね」
きししと八重歯を見せながら笑うルリ。
そういえば明日は私の誕生日だ。誕生日になれば私は二十二歳になる。
細かく伝えてなかったのは、祝われる気分に等なれなかったからだ。ルリの言う通り、先に電話をかけられていたら拒否していただろう。
「そう。けど、急にどうして?」
「あら……あんまり嬉しそうじゃないわね。んー今まで祝ってあげられなかったし、ようやく私も仕事の忙しさにも慣れてきたからね。奏が心配で来てやったってのが正しいかも」
「そっか、私……そんなに心配かけてるかな?」
そう告げると、ルリは「当たり前でしょうに」と素直に指摘してくれる。
悪いなとは思うけど、家からほとんど出ていないのに心配をかけるなんてどうなっているのやら。いや、家から出ないから心配をかけているのか。
「……まぁ、そんな顔しなさんなって、ケーキ食べて少しは元気だしな」
「せっかくルリが持ってきてくれたんだし、うん。頂くね」
私は反対の席へと座ると、ルリは持ってきていた白い箱を開ける。そこには。
「これ……は」
「ふふん、有名所のケーキよ? 恐れ入りなさい!」
真っ白なワンホールのいちごのショートケーキ。とても甘そうで私が大好きなケーキだ。
そう、これは……。
「っ……う……うぅ……」
「ちょ、奏⁉ ど、どうしたの? 急に泣かないでよ……」
急に涙が溢れ出した私にルリは慌てふためいていた。
「どうして、なんで……かな。涙が出て来るんだよ……」
「奏……辛いこと、思い出させちゃったかな……」
そんなことない。そんなことないけど、辛いことと言われればそうなのかもしれない。このケーキは、かつて私が雨の誕生日に贈るはずのケーキだったから。
だけど、その機会は奪われてしまい、もう取り戻すことはできない。ぐちゃぐちゃになったあの日のケーキは口に入れることもなく、捨てるしかなくなってしまった。
ルリは私が泣き止むまで待ってくれていて、泣き止んだ後もしばらくは気分がすっきりしないようだった。こればかりは悪いなって思ってしまう。
「ルリ。ごめんね、なんだか久々に泣いた感じ……ずっと泣けなかったから、びっくりしたみたい」
「私も心臓が止まるかと思ったわ。急に泣き出すから、完全に地雷踏んだーってね……」
「ううん、地雷どころか……雨のことを、大切なこと思い出させてくれたから。ありがと」
「……そっか。少しくらい奏の力になれたんなら良かったわ」
苦笑するルリ、かなり気を遣ってくれてる。
それからは二人でケーキを頂き、コーヒーを注いであげた。
「うっ……苦っ……」
「ごめん、砂糖はなくってさ……」
「まぁ、大丈夫。ケーキの甘さで誤魔化すから……」
ルリは忙しなく視線を動かしている。なにか言いたそうな感じではあるけど、悪い気は感じられない。
よし、と一息つくとルリは私と視線を合わせて、
「奏、例の男の子の話……聞かせなさい!」
テーブルを叩きながら力強い口調で言った。
漠然としているせいで私は話が読めずに首を傾げる。
「え? 何のこと?」
「とぼけても無駄よ! 例のカッコいい子、また店に来たんだから! そしたら、奏と会ったって聞いて!」
そこまで聞いて私は頭の中で思い当たる人物を探す。とすぐに出てきた。
「えっと、宮城 光輝くんのこと?」
「名前までは知らないけど、多分その子! でも……宮城? もしかして、宮城さんと何かしら関係あったりとか?」
あぁ……同じ名字だもんね。ルリにはそう思えてしまうのは仕方ないこと。
でも残念ながら、雨の名字は偽名で本当は違うのだ。関係は恐らくないだろう。
「別段珍しい名字ではないから、多分それはないと思うよ」
「そっかー……ってそれはともかく、何者なの? 奏は男っ気が全然ないからびっくりなんだけど!」
「別に卒業式の日に高校までの道のりを案内した時の子だよ。ルリも一度会ってると思うけど」
「えーそんな子いたっけ……」
「最初は食いついてたけど、そう言ったら興味なさそうにしてたじゃん……」
「そうだっけ……まぁそんなことはいいの! で、会ってどうしたの?」
さっきのしょんぼりしたルリはどうした? と言いたいくらいにグイグイ来る。まぁ、別に隠すことでもないから話してしまってもいいだろう。
というかルリに相談して助言を仰ぎたい。こういう経験は初めてだったから。
「告白されたぁ⁉ それに奏に一目惚れー⁉」
「なんでこの世の終わりみたいな顔をするの……」
そんな顔はしてない! などと言いながら、ルリはうーんと悩み始める。
正直な話、私は男の人と付き合ったりするつもりはない。そう言ってしまえば相談も助言も何もないのだけど、ルリの意見も聞いてみたかったのだ。
「奏……一度、付き合って見てもいいんじゃない?」
「どうしてそういう答えになったの……」
「何となくよ。少しは気持ちが変わるんじゃないかって思っただけ、とはいえ相手は高校卒業したばかりの子だからね……見た目はしっかりしてる感じだったけど、相手が奏じゃ荷が重いかなぁ?」
「どういう意味よ?」
「あんたの愛はとてつもなく重いからねぇ」
またニカッと歯を見せながら笑うルリ。雨に対する愛情のことを言っているのだろうか? 別に茶化してるようじゃないみたい。
「まぁ、そういう道もあるってこと。はい、これ」
そう言って、私へと二つに折られた小さな紙を渡してくれる。広げてみると、そこには十一桁の数字が書かれてあった。
「彼の電話番号よ。奏に会うことがあれば、渡してくれって言われてね」
「別にこんなの必要な――」
全部を言い終わる前に、言葉を遮られる。
「奏の中で! ……すべての整理がついたら、改めて返事をしてあげたらいいんじゃない?」
「ルリ……」
「で、無事付き合えたら私にも誰か紹介してほしいなーっていうのが本音よ!」
「もう……茶化してるな」
「くっくっくーどうだかね! そんじゃ、私は帰るわ」
ルリは自分のカバンを取ると、それを肩にリビングを後にする。私も後に続いて玄関まで見送りにいく。
「ルリ、今日はありがとね」
「んにゃ、私の方こそいきなり押しかけちゃってごめんね。今度は連絡するから」
「うん」
ルリはニッコリと笑い、手で銃の形を作ると私に向けてきた。
「ばぁん!」
「え……? え?」
唐突なことにその程度のリアクションしかできなかったがルリは優しく微笑んでくれて。
「宮城さんのことも、宮城くんのことも、あんた自身で答えを出しなさい。私はずっと味方でいてあげるから」
「ルリ……」
私を励まして、勇気づけてくれる。
「本当ならもっと早く、私が言わなきゃだったんだろうけど……恥ずかしくて逃げちゃったんだ」
少しだけ唇を噛んで、ほんのちょっとだけ悔しそうな顔をしながらルリは、
「逃げたせいで先を越されちゃった。でももう……逃げないから、言うね」
ゆっくりと口を開いていく。
「奏はね、必要とされてるんだよ。少なくとも私には奏が必要で、大事な友達だと思ってる。だから、奏も逃げないで……大切なものはあんたの中にあるはずよ」
彼と同じ言葉で私の背中を押してくれる。逃げ続けた私の背中を、歩み出せない私の背中を押してくれる。
心からの言葉に私は返事を出せなかった。だけど、気持ちは受け取る。それでも……なにか、なにか言わないと。
考えが浮かばないまま、口を開いてしまう。
「……素直じゃないルリがそんなことを言うなんて、明日は雨でも降りそうだね」
「うっく、余計なお世話よ! もう二度と言わないからね!」
腕を組みプンプンと怒ってしまう彼女に、悪いながらもルリはルリだ、なんて思ってしまう。内心でそんなことを思っているうちに、ルリは笑い始めた。
「ふ、ふふっ! まぁ、その刺々しい奏も奏よね。それじゃ、今度こそ帰るわね!」
「うん、ありがと。ルリ」
手を振ると、パタンと閉まる扉。そしてまたこの家に静寂が戻ってくる。
「……また背中を押されちゃった。そろそろ、私も前へ進まなきゃだよね」
玄関に立てかけてある赤い傘を手に取ると、本来の持ち主の部屋へと向かう。
そして、傘をドアノブへ掛ける。
「夜中。夜中にしよう……心の準備をそれまでに整えるの」
0時を回れば、私の誕生日。頃合いとしてはちょうどいいだろう。この日に開けなければ次はいつになるかわからない。
私は食器の片付け、お風呂等やるべきことをこなしていく。そうすれば時間は瞬く間に過ぎていき、後数分で0時を回る。
赤い傘が掛かっている扉の横。私は体育座りで壁に背をつけながら、ひたすら時間が経つのを待った。
カチ、カチと一秒ずつ秒針の音が聞こえる。その度に私の鼓動も早くなっていく。
やるべきことをしている内はあんなに早かったのに、待っている時間はどうしてこんなにも長く感じるのだろうか。
「ふぅ……ふぅ……大丈夫。今度こそは開けるから」
時計を見上げると、残り一分程度だ。今開けても誤差にしかならないのに、待ってしまうのはまだ心の準備ができてない証拠だろう。
カチ、カチ、カチ。
四分の一、秒針が回る。
カチ、カチ、カチ。
ようやく半分、もう半分しかない。
カチ、カチ、カチ。
後、十五秒。止まれと思えば、恐らく止まる。私の運ならば。でもそんなのは――
カチ、カチ、カチ。
――逃げているに過ぎない。
「はぁ、はぁ、はぁっ……」
私は立ち上がると、肩を上下させながら息を整えていく。
さぁ、開こう。
十二の針に秒針が重なった。
私はそのタイミングで赤い傘を手に取ると、ドアノブを回す。
そして、暗い部屋の中へと身を進めていった。
もうあの子がいなくなって何度目の春だろうか? 高校も大学にも恐らく桜が咲いている。けど、春を彩る桃色の花びらを、私は見ることなく時は過ぎていくだろう。
人はそう簡単に変われるものじゃない。言われて簡単に変われるのなら、明日にも明後日にも人は別人になっていることになる。
私は宮城 光輝くんから告白を受けた日から、自分の物事に終止符を打つため、あの子の部屋へと立った。でも、いざ開けようとすると決心がつかなくて止めてしまうのを何度も繰り返している。
今日も朝、昼、そして夜と繰り返してばかりだ。
「……今日も開けられないまま、もう一ヶ月だよ。いい加減に開けるくらいしなさいよ」
自分を叱咤するが、震える手はドアノブにかけようとして止まる。
なんで、なんでよ。あの子が死んで、一度は開けたでしょ? 何を戸惑う必要があるの⁉
震える手で空気を握る。
ああ、こうなるともう開けられない、明日にしよう。
そう諦めた瞬間、来客を告げるチャイムが家中に響き渡った。
「こんな時間に誰だろ……」
このマンションはオートロックがついている。立ち入る場合は部屋番号を入力して、家主が操作をしないと入れない仕組み。
ルリはなぜかいつもそれを掻い潜って家にまで来ていたけど。
持ち主のいない部屋の扉から離れると私はインターフォンを取り来客者に声をかけて、
「やっはろー瑠璃子だよー! 奏、開けてー!」
……かける前に元気のいい声が返ってきた。アポなしで来るなんて、一体どういうつもりだろうと思いつつもその声に少しだけ安堵する。この頃、一人でいることが多かったから少しだけ寂しかったのかもしれない。
「ルリ、今日は勝手に入って来たりしないんだね」
「高校生の頃の話でしょー? 私も大人なんだから迂闊な行動はしないのよ」
「ふーん……それじゃ、ロック解除したからまた後で」
通話を切ると、玄関へと向かう。さっさと鍵を開けておくのだ。
そして数分後、ベルなしにルリが家へと入ってきた。
「お邪魔するよー! んん? 奏……あんた随分髪の毛ボサボサねー。ちゃんと手入れしてんのー?」
「ううん。誰かと会うわけでもないし、面倒だから」
「今、私と会ってるでしょーに……」
それはルリがアポなしで来たから私のせいじゃないと言いたいところだけど、喉に押し込めリビングへと案内する。
「あー久々ね。高校の頃から来てなかったっけー」
「そうだったね。それで、今日は何しにきたの?」
うえっという感じの顔をしながらルリは、
「相変わらず刺々しいわねぇ、奏は……」
白い箱をテーブルへと置き、椅子に座る。
「んまぁ、用ってほどのもんじゃ……あるけど! 近々あんたの誕生日でしょ? 細かな日にちまでは聞いてなかったから日は合わせられなかったけど、サプライズ的に来たわけよ。電話で話しても忙しいからとかで逃げられるかもしれないし、どうせインドアな奏のことだからいるだろうと思ってね」
きししと八重歯を見せながら笑うルリ。
そういえば明日は私の誕生日だ。誕生日になれば私は二十二歳になる。
細かく伝えてなかったのは、祝われる気分に等なれなかったからだ。ルリの言う通り、先に電話をかけられていたら拒否していただろう。
「そう。けど、急にどうして?」
「あら……あんまり嬉しそうじゃないわね。んー今まで祝ってあげられなかったし、ようやく私も仕事の忙しさにも慣れてきたからね。奏が心配で来てやったってのが正しいかも」
「そっか、私……そんなに心配かけてるかな?」
そう告げると、ルリは「当たり前でしょうに」と素直に指摘してくれる。
悪いなとは思うけど、家からほとんど出ていないのに心配をかけるなんてどうなっているのやら。いや、家から出ないから心配をかけているのか。
「……まぁ、そんな顔しなさんなって、ケーキ食べて少しは元気だしな」
「せっかくルリが持ってきてくれたんだし、うん。頂くね」
私は反対の席へと座ると、ルリは持ってきていた白い箱を開ける。そこには。
「これ……は」
「ふふん、有名所のケーキよ? 恐れ入りなさい!」
真っ白なワンホールのいちごのショートケーキ。とても甘そうで私が大好きなケーキだ。
そう、これは……。
「っ……う……うぅ……」
「ちょ、奏⁉ ど、どうしたの? 急に泣かないでよ……」
急に涙が溢れ出した私にルリは慌てふためいていた。
「どうして、なんで……かな。涙が出て来るんだよ……」
「奏……辛いこと、思い出させちゃったかな……」
そんなことない。そんなことないけど、辛いことと言われればそうなのかもしれない。このケーキは、かつて私が雨の誕生日に贈るはずのケーキだったから。
だけど、その機会は奪われてしまい、もう取り戻すことはできない。ぐちゃぐちゃになったあの日のケーキは口に入れることもなく、捨てるしかなくなってしまった。
ルリは私が泣き止むまで待ってくれていて、泣き止んだ後もしばらくは気分がすっきりしないようだった。こればかりは悪いなって思ってしまう。
「ルリ。ごめんね、なんだか久々に泣いた感じ……ずっと泣けなかったから、びっくりしたみたい」
「私も心臓が止まるかと思ったわ。急に泣き出すから、完全に地雷踏んだーってね……」
「ううん、地雷どころか……雨のことを、大切なこと思い出させてくれたから。ありがと」
「……そっか。少しくらい奏の力になれたんなら良かったわ」
苦笑するルリ、かなり気を遣ってくれてる。
それからは二人でケーキを頂き、コーヒーを注いであげた。
「うっ……苦っ……」
「ごめん、砂糖はなくってさ……」
「まぁ、大丈夫。ケーキの甘さで誤魔化すから……」
ルリは忙しなく視線を動かしている。なにか言いたそうな感じではあるけど、悪い気は感じられない。
よし、と一息つくとルリは私と視線を合わせて、
「奏、例の男の子の話……聞かせなさい!」
テーブルを叩きながら力強い口調で言った。
漠然としているせいで私は話が読めずに首を傾げる。
「え? 何のこと?」
「とぼけても無駄よ! 例のカッコいい子、また店に来たんだから! そしたら、奏と会ったって聞いて!」
そこまで聞いて私は頭の中で思い当たる人物を探す。とすぐに出てきた。
「えっと、宮城 光輝くんのこと?」
「名前までは知らないけど、多分その子! でも……宮城? もしかして、宮城さんと何かしら関係あったりとか?」
あぁ……同じ名字だもんね。ルリにはそう思えてしまうのは仕方ないこと。
でも残念ながら、雨の名字は偽名で本当は違うのだ。関係は恐らくないだろう。
「別段珍しい名字ではないから、多分それはないと思うよ」
「そっかー……ってそれはともかく、何者なの? 奏は男っ気が全然ないからびっくりなんだけど!」
「別に卒業式の日に高校までの道のりを案内した時の子だよ。ルリも一度会ってると思うけど」
「えーそんな子いたっけ……」
「最初は食いついてたけど、そう言ったら興味なさそうにしてたじゃん……」
「そうだっけ……まぁそんなことはいいの! で、会ってどうしたの?」
さっきのしょんぼりしたルリはどうした? と言いたいくらいにグイグイ来る。まぁ、別に隠すことでもないから話してしまってもいいだろう。
というかルリに相談して助言を仰ぎたい。こういう経験は初めてだったから。
「告白されたぁ⁉ それに奏に一目惚れー⁉」
「なんでこの世の終わりみたいな顔をするの……」
そんな顔はしてない! などと言いながら、ルリはうーんと悩み始める。
正直な話、私は男の人と付き合ったりするつもりはない。そう言ってしまえば相談も助言も何もないのだけど、ルリの意見も聞いてみたかったのだ。
「奏……一度、付き合って見てもいいんじゃない?」
「どうしてそういう答えになったの……」
「何となくよ。少しは気持ちが変わるんじゃないかって思っただけ、とはいえ相手は高校卒業したばかりの子だからね……見た目はしっかりしてる感じだったけど、相手が奏じゃ荷が重いかなぁ?」
「どういう意味よ?」
「あんたの愛はとてつもなく重いからねぇ」
またニカッと歯を見せながら笑うルリ。雨に対する愛情のことを言っているのだろうか? 別に茶化してるようじゃないみたい。
「まぁ、そういう道もあるってこと。はい、これ」
そう言って、私へと二つに折られた小さな紙を渡してくれる。広げてみると、そこには十一桁の数字が書かれてあった。
「彼の電話番号よ。奏に会うことがあれば、渡してくれって言われてね」
「別にこんなの必要な――」
全部を言い終わる前に、言葉を遮られる。
「奏の中で! ……すべての整理がついたら、改めて返事をしてあげたらいいんじゃない?」
「ルリ……」
「で、無事付き合えたら私にも誰か紹介してほしいなーっていうのが本音よ!」
「もう……茶化してるな」
「くっくっくーどうだかね! そんじゃ、私は帰るわ」
ルリは自分のカバンを取ると、それを肩にリビングを後にする。私も後に続いて玄関まで見送りにいく。
「ルリ、今日はありがとね」
「んにゃ、私の方こそいきなり押しかけちゃってごめんね。今度は連絡するから」
「うん」
ルリはニッコリと笑い、手で銃の形を作ると私に向けてきた。
「ばぁん!」
「え……? え?」
唐突なことにその程度のリアクションしかできなかったがルリは優しく微笑んでくれて。
「宮城さんのことも、宮城くんのことも、あんた自身で答えを出しなさい。私はずっと味方でいてあげるから」
「ルリ……」
私を励まして、勇気づけてくれる。
「本当ならもっと早く、私が言わなきゃだったんだろうけど……恥ずかしくて逃げちゃったんだ」
少しだけ唇を噛んで、ほんのちょっとだけ悔しそうな顔をしながらルリは、
「逃げたせいで先を越されちゃった。でももう……逃げないから、言うね」
ゆっくりと口を開いていく。
「奏はね、必要とされてるんだよ。少なくとも私には奏が必要で、大事な友達だと思ってる。だから、奏も逃げないで……大切なものはあんたの中にあるはずよ」
彼と同じ言葉で私の背中を押してくれる。逃げ続けた私の背中を、歩み出せない私の背中を押してくれる。
心からの言葉に私は返事を出せなかった。だけど、気持ちは受け取る。それでも……なにか、なにか言わないと。
考えが浮かばないまま、口を開いてしまう。
「……素直じゃないルリがそんなことを言うなんて、明日は雨でも降りそうだね」
「うっく、余計なお世話よ! もう二度と言わないからね!」
腕を組みプンプンと怒ってしまう彼女に、悪いながらもルリはルリだ、なんて思ってしまう。内心でそんなことを思っているうちに、ルリは笑い始めた。
「ふ、ふふっ! まぁ、その刺々しい奏も奏よね。それじゃ、今度こそ帰るわね!」
「うん、ありがと。ルリ」
手を振ると、パタンと閉まる扉。そしてまたこの家に静寂が戻ってくる。
「……また背中を押されちゃった。そろそろ、私も前へ進まなきゃだよね」
玄関に立てかけてある赤い傘を手に取ると、本来の持ち主の部屋へと向かう。
そして、傘をドアノブへ掛ける。
「夜中。夜中にしよう……心の準備をそれまでに整えるの」
0時を回れば、私の誕生日。頃合いとしてはちょうどいいだろう。この日に開けなければ次はいつになるかわからない。
私は食器の片付け、お風呂等やるべきことをこなしていく。そうすれば時間は瞬く間に過ぎていき、後数分で0時を回る。
赤い傘が掛かっている扉の横。私は体育座りで壁に背をつけながら、ひたすら時間が経つのを待った。
カチ、カチと一秒ずつ秒針の音が聞こえる。その度に私の鼓動も早くなっていく。
やるべきことをしている内はあんなに早かったのに、待っている時間はどうしてこんなにも長く感じるのだろうか。
「ふぅ……ふぅ……大丈夫。今度こそは開けるから」
時計を見上げると、残り一分程度だ。今開けても誤差にしかならないのに、待ってしまうのはまだ心の準備ができてない証拠だろう。
カチ、カチ、カチ。
四分の一、秒針が回る。
カチ、カチ、カチ。
ようやく半分、もう半分しかない。
カチ、カチ、カチ。
後、十五秒。止まれと思えば、恐らく止まる。私の運ならば。でもそんなのは――
カチ、カチ、カチ。
――逃げているに過ぎない。
「はぁ、はぁ、はぁっ……」
私は立ち上がると、肩を上下させながら息を整えていく。
さぁ、開こう。
十二の針に秒針が重なった。
私はそのタイミングで赤い傘を手に取ると、ドアノブを回す。
そして、暗い部屋の中へと身を進めていった。