君のブレスが切れるまで
第51話 もう一度、貴女と
手紙と本にゆっくり手を伸ばし、止める。
「はぁ、はぁ……落ち着いて、ゆっくりでいいから……」
本当に恐る恐るといった感じだ。触れてしまえば消えてなくなるんじゃないかなんて思ってしまう。ううん、もしかしたらこれもまた夢なんじゃないかって、それがとても怖かった。
止めた手を強く握り、そして、もう一度進める。
触れないと始まらない、もう逃げないって決めたから。
数センチ、数ミリ、ようやくそれに手が触れる。
「夢……じゃない……本物だ」
感触がある、それは私に夢じゃないと確信させた。残された二つの物を手に取ると、腰が抜けたようにその場へと座り込んでしまう。
「宛名……は……っ」
手紙の裏側を見ると、途端に涙が込み上げてきた。
だって、そこにある名前は……名前は――
「私の……名前……だ」
雨の字で私の名前が書かれてあった。そう、これは私宛の手紙。雨から私への手紙。
「うっ……く……泣いてる場合じゃないでしょ、中身を……」
そうだ。手紙を見ないと、雨が残してくれた手紙を。
袖でゴシゴシと涙を拭き取り、手紙の封を切っていく。ゆっくりと、中身を傷つけないように。
長いか短いか、体感時間が狂っているせいでわからない。ようやく開けきると便箋が一枚だけ封入されていた。
二枚折りにされた便箋を開き、私はその手紙を読んでいく。
「奏へ……手紙を書こうと思ったけれど、どう伝えていいのかわからなくて簡潔にしか書けなかったわ」
大事なものはもう一つの本に封印してあるから、鍵を使って開けて頂戴。場所は――
私はその手紙を頼りに、白いソファの上に置いてあったカピバラの大きなぬいぐるみ『カッピー』を抱いて、持ってくる。
もふもふの毛の中に、巧妙に隠されてあった小さなポケット。そこにはおもちゃのような小さな、可愛らしい鍵が入っていた。
私がもし気づいたとしても、何の鍵どころか本当におもちゃだろうとしか思えない小さな鍵。雨はどこまで考えて、私にプレゼントをしていたのだろう。
そしてもう一つの残されていた物。白い本を手に取ると、ファンシーな南京錠で表と裏表紙に封印が施されていた。外から見てもページがあるわけではない。本としての役割はなく、中に何かを封入するような入れ物と言ったほうが正しい。
「何が入ってるんだろう……」
ゆっくりと小さな鍵を錠の鍵穴へと差し込む。そして右に回すと――
カチャ。
音が鳴り、封印が解かれる。本を開いてみると、
「SDカードと……なにこれ……」
デジカメとかに使われるSDカードと、見たこともない平べったい長方形のものが入っていた。
「これはともかく、SDカードの方ならスマホで中身が見れるかも……」
ポケットからスマホを取り出すと、SDカード挿入口へとそれを入れる。
雨が残してくれていたこれに何があるのだろう。写真でもあればと思いながら操作していくが、残念ながら写真なんていうのは一つも残されてなかった。
「データが飛んじゃったとか……じゃないよね……あれ?」
あんまりこういう操作をするわけじゃない、かなり覚束ない感じだったけど一つだけデータが残されてあることに気がついた。
サムネイルには何も映っていない。雨が言っていた大切なのって言うのはこれ……かな。
少しだけ躊躇しながらボタンを押すと、真っ暗な映像がスマホの画面全体を覆った。
「…………?」
しばらく待ってみたけど、特に反応があるわけじゃない。ただ、なにか物音が聞こえる。
耳を澄まして、じっと見つめてみると。
『こう、かしら……ん、大丈夫のようね』
「っ……!」
その声に体が反応する。凛と響く、すごく懐かしい声。ああ、そんな、そんなまさか。
電球色と言うのだろうか、オレンジに近い色でパッと画面が明るくなり、私のいるこの部屋と同じ部屋が映る。
そして――
『こんにちは、いえ……こんばんはかしら?』
画面外から現れたのは、あの日、雨の降る夜を最後に私が失ってしまったかけがえのない人。赤いカチューシャを身に着け、美しい黒髪と真紅に染まる眼を持った女の子。
その子は椅子へと座ると、
『奏』
昔と変わらない無表情と声で私の名前を呼んでくれた。
私の記憶が蘇っていく。年月が経ち、忘れ、ぼやけてしまっていた彼女のシルエットが色鮮やかに戻っていく。
「雨……うそ……こんな、雨……」
『奏はこの映像を私と見ているかしら? そうだとすればとても嬉しいことね』
「え……?」
『いえ、そうなっていればいいなと思ったの。恐らくは奏一人で見ているかしら……。外れていたら笑って頂戴。あ、怒ってしまうかしら?』
その言葉を聞いて、私は知らない内に涙が頬を伝っていた。
雨は自分の死を予見していた。だけど、本当にもしかしたら自分が生きている未来というのも考えてこれを残していたんだ。
『手紙は見てくれたかしら? ものすごく下手だったでしょう? これについてのことしか書いてないだろうし、どうも上手くいかなくて。あ、もしこれを奏が見つけていたのだとしたら、メモを見たのでしょう? メモには正規の方法で開けなければ爆発って書いていたはずだけど』
明るく振る舞う雨、無表情だったとしても私にはわかる。雨は昔とは違い、こんな流暢に話すのはすごくいい傾向だった。もう一度、こんな雨を見れるなんて、余計に涙が出てきてしまう。
『実を言うとそれは――』
わかってるよ。それは――
「『冗談なのよ』でしょ?」
スマホに映る雨と私の声がハモる。私を笑わせるために冗談をたくさん覚えたんでしょ? わかってる、わかってるよ。ちゃんと覚えてる。
こんな他愛もない話を残してるなんて雨はお馬鹿さんだなぁ……。でも……でも、今の私は笑えないよ……。
『……奏、一人ぼっちにしてしまってごめんなさい。私は逝ってしまったのよね?』
うん、そうだよ……。雨は私を守って、死んでしまった。
『奏はこんな世界は嫌いかしら』
嫌いだよ、雨がいないこんな世界なんて。
『死にたいと思っているかしら』
思ってるよ、今でもずっと。必要だと言ってくれる子もいる、けど……やっぱり私は死にたいよ。
『私を、恨んでるかしら……』
雨が少しだけ詰まるのに気がついた。
恨む、そうだね……。
ちょっとだけ、ほんのちょっぴりだけ……恨んでるかもしれない。けど、貴女はもういないから、話をしたいけど雨は違う世界に行っちゃったから。
俯いたままの雨は何を言おうかと言葉を整理してるのだろう。少しだけ沈黙が続き、私も同じく沈黙を、何も考えることができなかった。
『それでも生きてほしい……』
小さい、けどはっきりとそう聞こえた。雨の悲痛な言葉は、私にとって呪いの言葉となる。
こんな世界で生きていく価値なんてないのに。雨は、私にそれを強いるの……?
『奏の生きる理由になると言った私が死んだ時点で、奏が約束を守る理由はないかもしれない。けれど、私は……奏に生きていてほしい』
「っ……どうしてっ!」
『お願い……生きて』
一方的な彼女の願い。私からの声は届かない、完全な一方通行。私はそれに絶望しかけていた。
『これじゃ……ダメね。こんなのじゃ……奏には……』
ほとんど聞こえないくらいの声でそう言うと、急に雨は後ろを振り返る。数秒くらいの硬直後、もう一度こっちを向いてくれると、
『…………再生機については、次の機会に』
不明な単語を言い残し画面が揺れ、真っ暗に戻ってしまった。恐らく引き出しに録画装置を入れられたんだ。
けれど、雨は録画を切り忘れたのか音と声だけが聞こえてきていた。
『わっ、わぁ……⁉』
『っと……部屋の外から気配がすると思ったら、起きてたのね』
あれ……この会話、どこかで……それにこの声――
『まったく、盗み聞きなんてレディのすることではないわよ?』
『あ……あはは……やっぱりバレてた?』
そう、か。あの時、誰かと話してたのって。
『ね、ねぇ……雨……誰かと話してた?』
『……そうね。話してたかも』
『誰……とか聞いてもいい?』
私と、だったんだね……。
『私の友人よ。遠い所にいるの』
§
しばらく放心状態のまま、私は過去の私と、雨が交わした会話を聞いていた。
昔の記憶の通り、その後は特に進展はなく動画は終わってしまう。白い本にもう一つだけ残されていた謎の物体については触れられることも、追記の動画があるわけでもなかった。
不確かではあるけど、多分……雨はそれを撮る前に事故にあってしまったんだ。
中途半端に残ってしまった雨からの贈り物は、雨の姿を見せて、私に絶望を押し付ける為だけの物だったなんて。
「生きて……か。死ねないんだよ……私は雨の祝福のせいで死ぬことを許されないんだよ……」
そう、雨に言われなくとも私は生きていくしか道はない。残された謎が解明したところで、これは覆らないのだ。
私は苛立ちと悲しみのまま、本に入っていた平べったい物体を持つと力いっぱい壁へ投げつけようと試みた。
でも、
「っ……」
既の所で踏みとどまる。
……できるわけがない。大切な雨が残してくれたものなのに、どうしたらそんなことができようか。
ゆっくりと手を下ろし、手のひらを開ける。
私の手からはみ出すくらいの謎の物体。それなりの大きさで、単体では何もできなさそう。雨の残した不明な言語、『再生機』と言うものなのだろうか? 単体で扱えない物が再生機だなんて。
私はそれを持ったまま、ポフッとベッドへ寝そべる。
「泣いて……泣いて、すごく疲れた……」
雨の姿が瞼の裏へと焼き付いている。
雨は今の私の辛さなんてわかってくれていなかった。ううん、無理もない。本当なら早く見つけられるはずのものだったのに、こんなにも時間がかかってしまったのだから。雨でも、今の私の気持ちなんてわかるはずがないんだ。
そう思ってしまうと悲しくて、また涙が流れていってしまう。泣けなかったのが嘘みたいだ。
「何なの……雨、一体……これは……」
右手に持った物体を見る。再生機というには烏滸がましい、再生する装置としては使い物にならない物。
……もしかしたら再生機というのは違うものを差しているんじゃないだろうか。これは再生機ではなく、それに組み込む記憶装置なんじゃないかと。
私は起き上がると、グッとそれを握った。
ここからは雨のヒントなんていうものはない、私が探さなきゃいけない。
どうしても諦めきれない、この中に何があるのか知りたい。私は知らなきゃいけない。
「そうだよ……諦めたくない……諦めたらダメ」
動画の中で雨は言っていた。『これじゃ……ダメね。こんなのじゃ……奏には……』と。
雨だって、あれだけじゃ私に伝わらないってわかったから言ったのかもしれない、知っていたのかもしれない。じゃあ、これはそれを補う為の何か。
謎の物体をくるりと回してみる。型番は何も書かれていない、ネットで調べるには情報が少なすぎる。だけど、金色の端子があるのは見つけた、つまり本当に組み込むものだ。
少なくともパソコンに使うようなものではなさそうだ。スマホでも扱えない、こんな大きさのもの、既存のレコーダーでも使えたりはしないだろう。
一体何に――
「もしかして……」
一瞬の閃き、私は物体を握り返すとリビングへと向かった。
目的のものは、一つ。
昔、ガラガラくじで当たったミヤノジョウグループが作ったホームシアターだ。
未だに人気は衰えず後継機が発売された影響で、値段も少しは抑え気味になった。とはいえ、まだまだ割高なのだが。
私が持っているのはそれの初期版。リビングの隅でほったらかされてあったそれは、随分と埃被っていた。今日の今日まで存在自体を忘れていたのだから無理もない。
埃も払わず、私はそれを調べていく。雨はミヤノジョウグループ、宮之城の令嬢だ。もしかしたら雨はこれの存在を知っていたのかもしれない、そしてこれが再生機だとするのなら――
私は思い出す。
脳波から人の思い出を再生できるという言葉を……。ルリは嘘かもしれないと言っていたけど、私はもう一度それに縋り付くしかなかった。
「あっ……」
謎の物体が入れられるような場所を見つけた。とはいえ、差し込んだとしても半分以上ははみ出てしまう。通常は蓋が閉められるほどの大きさなのだろう、つまりこれは誰が見ても規格外だと言える。
「横幅や高さが違うだけで無理……本当に入るの……?」
入らなかったら私の推理は間違っていることになる、そしてそのまま迷宮入りだ。でも、その不安とは裏腹にスッとその中へ、謎の物体は滑り込んで。
カチッ。
と奥まで差し込めた確認音が鳴る。
「よかった……これで電源を入れれば……」
言い終える前に、なぜか嫌な予感がした。付けてしまえば、取り返しの付かないことになるんじゃないかという感覚だ。
「ここまで来て……逃げるの? 知りたいんでしょ……私は……」
そう、知りたい。
人間というのは傲慢で、知らなきゃ良かったと思うことを何度も味わったのにもかかわらず、知りたいという気持ちは捨てきれない。
私は嫌な予感と知りたいという気持ちを天秤に掛けて、自分の欲深さを選ぶ。
どちらを選んでも、きっと後悔することになるのは知っていたから。それなら、ルリや宮城くんが言ってくれたように逃げ出さないでおきたかった。
埃を拭き取ると、嫌な予感はずっと私に付き纏っていた。
この選択で本当に良かったのか、今なら変えられるんだよ? って頭の中で囁いてくれる。逃げて、逃げて、逃げ続けた弱い私がそう囁くのだ。
「……逃げないよ。知りたいことから逃げた先には、もう何もないって知ってるから」
口ずさみ、私は電源を入れた。
中空に画像が映し出される。先程の謎の物体は記憶装置で間違いないようだ、読み込みのマークが出ている。
けど……すぐに止まり、読み込み不良となって失敗してしまった。
「っ……どうして、ダメ……だったの?」
いや、違う。
画質が乱れ始め、部屋の壁全体に緑色の英数字が照らし出される。
「な、なに……これ……? 何が起こってるの? あっ――」
目の前にコンプリートと文字が出た瞬間、今度は赤いアラートの字と真っ赤な閃光が部屋全体を覆い尽くしていく。
「真っ赤、雨の眼の色……」
その言葉と同時にアラートが消え、次の瞬間に目を覆いたくなるような真っ白な閃光が私と部屋をかき消した。
§
「起き――起きて――」
「ん……んん……」
夢の中の優しげな声、それと共に私は覚醒を促されていく。私を呼ぶのは一体……誰?
ゆっくりと目を開けると部屋が少しだけ明るくなっている、夜が明けたんだ……。
あの白い光の後、私、眠っちゃってたのか。一体、何があったのだろう。フローリングの床の上で寝るなんて、昨日どれだけ疲れていたというのか。
「雨……」
結局、ホームシアターが変な状態になってしまって、それからのことは覚えてない。全てはわからず終いとなって――
「呼んだかしら」
「え……?」
不意に声が聞こえた。この部屋には私だけしかいないはず。でも、その声の主は確かに私の言葉に反応するように答えたのだ。
窓から目を逸し、声が聞こえた方へと振り向く。
そこには――
「……久しぶり、かしらね。奏」
「あ……め……?」
私は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていただろう。それくらいびっくりしていたのだ。
だって私の目の前には、黒いセーラー服を着込み、赤い眼を持った紛れもない宮之城 雨がそこに立っていたのだから。
「はぁ、はぁ……落ち着いて、ゆっくりでいいから……」
本当に恐る恐るといった感じだ。触れてしまえば消えてなくなるんじゃないかなんて思ってしまう。ううん、もしかしたらこれもまた夢なんじゃないかって、それがとても怖かった。
止めた手を強く握り、そして、もう一度進める。
触れないと始まらない、もう逃げないって決めたから。
数センチ、数ミリ、ようやくそれに手が触れる。
「夢……じゃない……本物だ」
感触がある、それは私に夢じゃないと確信させた。残された二つの物を手に取ると、腰が抜けたようにその場へと座り込んでしまう。
「宛名……は……っ」
手紙の裏側を見ると、途端に涙が込み上げてきた。
だって、そこにある名前は……名前は――
「私の……名前……だ」
雨の字で私の名前が書かれてあった。そう、これは私宛の手紙。雨から私への手紙。
「うっ……く……泣いてる場合じゃないでしょ、中身を……」
そうだ。手紙を見ないと、雨が残してくれた手紙を。
袖でゴシゴシと涙を拭き取り、手紙の封を切っていく。ゆっくりと、中身を傷つけないように。
長いか短いか、体感時間が狂っているせいでわからない。ようやく開けきると便箋が一枚だけ封入されていた。
二枚折りにされた便箋を開き、私はその手紙を読んでいく。
「奏へ……手紙を書こうと思ったけれど、どう伝えていいのかわからなくて簡潔にしか書けなかったわ」
大事なものはもう一つの本に封印してあるから、鍵を使って開けて頂戴。場所は――
私はその手紙を頼りに、白いソファの上に置いてあったカピバラの大きなぬいぐるみ『カッピー』を抱いて、持ってくる。
もふもふの毛の中に、巧妙に隠されてあった小さなポケット。そこにはおもちゃのような小さな、可愛らしい鍵が入っていた。
私がもし気づいたとしても、何の鍵どころか本当におもちゃだろうとしか思えない小さな鍵。雨はどこまで考えて、私にプレゼントをしていたのだろう。
そしてもう一つの残されていた物。白い本を手に取ると、ファンシーな南京錠で表と裏表紙に封印が施されていた。外から見てもページがあるわけではない。本としての役割はなく、中に何かを封入するような入れ物と言ったほうが正しい。
「何が入ってるんだろう……」
ゆっくりと小さな鍵を錠の鍵穴へと差し込む。そして右に回すと――
カチャ。
音が鳴り、封印が解かれる。本を開いてみると、
「SDカードと……なにこれ……」
デジカメとかに使われるSDカードと、見たこともない平べったい長方形のものが入っていた。
「これはともかく、SDカードの方ならスマホで中身が見れるかも……」
ポケットからスマホを取り出すと、SDカード挿入口へとそれを入れる。
雨が残してくれていたこれに何があるのだろう。写真でもあればと思いながら操作していくが、残念ながら写真なんていうのは一つも残されてなかった。
「データが飛んじゃったとか……じゃないよね……あれ?」
あんまりこういう操作をするわけじゃない、かなり覚束ない感じだったけど一つだけデータが残されてあることに気がついた。
サムネイルには何も映っていない。雨が言っていた大切なのって言うのはこれ……かな。
少しだけ躊躇しながらボタンを押すと、真っ暗な映像がスマホの画面全体を覆った。
「…………?」
しばらく待ってみたけど、特に反応があるわけじゃない。ただ、なにか物音が聞こえる。
耳を澄まして、じっと見つめてみると。
『こう、かしら……ん、大丈夫のようね』
「っ……!」
その声に体が反応する。凛と響く、すごく懐かしい声。ああ、そんな、そんなまさか。
電球色と言うのだろうか、オレンジに近い色でパッと画面が明るくなり、私のいるこの部屋と同じ部屋が映る。
そして――
『こんにちは、いえ……こんばんはかしら?』
画面外から現れたのは、あの日、雨の降る夜を最後に私が失ってしまったかけがえのない人。赤いカチューシャを身に着け、美しい黒髪と真紅に染まる眼を持った女の子。
その子は椅子へと座ると、
『奏』
昔と変わらない無表情と声で私の名前を呼んでくれた。
私の記憶が蘇っていく。年月が経ち、忘れ、ぼやけてしまっていた彼女のシルエットが色鮮やかに戻っていく。
「雨……うそ……こんな、雨……」
『奏はこの映像を私と見ているかしら? そうだとすればとても嬉しいことね』
「え……?」
『いえ、そうなっていればいいなと思ったの。恐らくは奏一人で見ているかしら……。外れていたら笑って頂戴。あ、怒ってしまうかしら?』
その言葉を聞いて、私は知らない内に涙が頬を伝っていた。
雨は自分の死を予見していた。だけど、本当にもしかしたら自分が生きている未来というのも考えてこれを残していたんだ。
『手紙は見てくれたかしら? ものすごく下手だったでしょう? これについてのことしか書いてないだろうし、どうも上手くいかなくて。あ、もしこれを奏が見つけていたのだとしたら、メモを見たのでしょう? メモには正規の方法で開けなければ爆発って書いていたはずだけど』
明るく振る舞う雨、無表情だったとしても私にはわかる。雨は昔とは違い、こんな流暢に話すのはすごくいい傾向だった。もう一度、こんな雨を見れるなんて、余計に涙が出てきてしまう。
『実を言うとそれは――』
わかってるよ。それは――
「『冗談なのよ』でしょ?」
スマホに映る雨と私の声がハモる。私を笑わせるために冗談をたくさん覚えたんでしょ? わかってる、わかってるよ。ちゃんと覚えてる。
こんな他愛もない話を残してるなんて雨はお馬鹿さんだなぁ……。でも……でも、今の私は笑えないよ……。
『……奏、一人ぼっちにしてしまってごめんなさい。私は逝ってしまったのよね?』
うん、そうだよ……。雨は私を守って、死んでしまった。
『奏はこんな世界は嫌いかしら』
嫌いだよ、雨がいないこんな世界なんて。
『死にたいと思っているかしら』
思ってるよ、今でもずっと。必要だと言ってくれる子もいる、けど……やっぱり私は死にたいよ。
『私を、恨んでるかしら……』
雨が少しだけ詰まるのに気がついた。
恨む、そうだね……。
ちょっとだけ、ほんのちょっぴりだけ……恨んでるかもしれない。けど、貴女はもういないから、話をしたいけど雨は違う世界に行っちゃったから。
俯いたままの雨は何を言おうかと言葉を整理してるのだろう。少しだけ沈黙が続き、私も同じく沈黙を、何も考えることができなかった。
『それでも生きてほしい……』
小さい、けどはっきりとそう聞こえた。雨の悲痛な言葉は、私にとって呪いの言葉となる。
こんな世界で生きていく価値なんてないのに。雨は、私にそれを強いるの……?
『奏の生きる理由になると言った私が死んだ時点で、奏が約束を守る理由はないかもしれない。けれど、私は……奏に生きていてほしい』
「っ……どうしてっ!」
『お願い……生きて』
一方的な彼女の願い。私からの声は届かない、完全な一方通行。私はそれに絶望しかけていた。
『これじゃ……ダメね。こんなのじゃ……奏には……』
ほとんど聞こえないくらいの声でそう言うと、急に雨は後ろを振り返る。数秒くらいの硬直後、もう一度こっちを向いてくれると、
『…………再生機については、次の機会に』
不明な単語を言い残し画面が揺れ、真っ暗に戻ってしまった。恐らく引き出しに録画装置を入れられたんだ。
けれど、雨は録画を切り忘れたのか音と声だけが聞こえてきていた。
『わっ、わぁ……⁉』
『っと……部屋の外から気配がすると思ったら、起きてたのね』
あれ……この会話、どこかで……それにこの声――
『まったく、盗み聞きなんてレディのすることではないわよ?』
『あ……あはは……やっぱりバレてた?』
そう、か。あの時、誰かと話してたのって。
『ね、ねぇ……雨……誰かと話してた?』
『……そうね。話してたかも』
『誰……とか聞いてもいい?』
私と、だったんだね……。
『私の友人よ。遠い所にいるの』
§
しばらく放心状態のまま、私は過去の私と、雨が交わした会話を聞いていた。
昔の記憶の通り、その後は特に進展はなく動画は終わってしまう。白い本にもう一つだけ残されていた謎の物体については触れられることも、追記の動画があるわけでもなかった。
不確かではあるけど、多分……雨はそれを撮る前に事故にあってしまったんだ。
中途半端に残ってしまった雨からの贈り物は、雨の姿を見せて、私に絶望を押し付ける為だけの物だったなんて。
「生きて……か。死ねないんだよ……私は雨の祝福のせいで死ぬことを許されないんだよ……」
そう、雨に言われなくとも私は生きていくしか道はない。残された謎が解明したところで、これは覆らないのだ。
私は苛立ちと悲しみのまま、本に入っていた平べったい物体を持つと力いっぱい壁へ投げつけようと試みた。
でも、
「っ……」
既の所で踏みとどまる。
……できるわけがない。大切な雨が残してくれたものなのに、どうしたらそんなことができようか。
ゆっくりと手を下ろし、手のひらを開ける。
私の手からはみ出すくらいの謎の物体。それなりの大きさで、単体では何もできなさそう。雨の残した不明な言語、『再生機』と言うものなのだろうか? 単体で扱えない物が再生機だなんて。
私はそれを持ったまま、ポフッとベッドへ寝そべる。
「泣いて……泣いて、すごく疲れた……」
雨の姿が瞼の裏へと焼き付いている。
雨は今の私の辛さなんてわかってくれていなかった。ううん、無理もない。本当なら早く見つけられるはずのものだったのに、こんなにも時間がかかってしまったのだから。雨でも、今の私の気持ちなんてわかるはずがないんだ。
そう思ってしまうと悲しくて、また涙が流れていってしまう。泣けなかったのが嘘みたいだ。
「何なの……雨、一体……これは……」
右手に持った物体を見る。再生機というには烏滸がましい、再生する装置としては使い物にならない物。
……もしかしたら再生機というのは違うものを差しているんじゃないだろうか。これは再生機ではなく、それに組み込む記憶装置なんじゃないかと。
私は起き上がると、グッとそれを握った。
ここからは雨のヒントなんていうものはない、私が探さなきゃいけない。
どうしても諦めきれない、この中に何があるのか知りたい。私は知らなきゃいけない。
「そうだよ……諦めたくない……諦めたらダメ」
動画の中で雨は言っていた。『これじゃ……ダメね。こんなのじゃ……奏には……』と。
雨だって、あれだけじゃ私に伝わらないってわかったから言ったのかもしれない、知っていたのかもしれない。じゃあ、これはそれを補う為の何か。
謎の物体をくるりと回してみる。型番は何も書かれていない、ネットで調べるには情報が少なすぎる。だけど、金色の端子があるのは見つけた、つまり本当に組み込むものだ。
少なくともパソコンに使うようなものではなさそうだ。スマホでも扱えない、こんな大きさのもの、既存のレコーダーでも使えたりはしないだろう。
一体何に――
「もしかして……」
一瞬の閃き、私は物体を握り返すとリビングへと向かった。
目的のものは、一つ。
昔、ガラガラくじで当たったミヤノジョウグループが作ったホームシアターだ。
未だに人気は衰えず後継機が発売された影響で、値段も少しは抑え気味になった。とはいえ、まだまだ割高なのだが。
私が持っているのはそれの初期版。リビングの隅でほったらかされてあったそれは、随分と埃被っていた。今日の今日まで存在自体を忘れていたのだから無理もない。
埃も払わず、私はそれを調べていく。雨はミヤノジョウグループ、宮之城の令嬢だ。もしかしたら雨はこれの存在を知っていたのかもしれない、そしてこれが再生機だとするのなら――
私は思い出す。
脳波から人の思い出を再生できるという言葉を……。ルリは嘘かもしれないと言っていたけど、私はもう一度それに縋り付くしかなかった。
「あっ……」
謎の物体が入れられるような場所を見つけた。とはいえ、差し込んだとしても半分以上ははみ出てしまう。通常は蓋が閉められるほどの大きさなのだろう、つまりこれは誰が見ても規格外だと言える。
「横幅や高さが違うだけで無理……本当に入るの……?」
入らなかったら私の推理は間違っていることになる、そしてそのまま迷宮入りだ。でも、その不安とは裏腹にスッとその中へ、謎の物体は滑り込んで。
カチッ。
と奥まで差し込めた確認音が鳴る。
「よかった……これで電源を入れれば……」
言い終える前に、なぜか嫌な予感がした。付けてしまえば、取り返しの付かないことになるんじゃないかという感覚だ。
「ここまで来て……逃げるの? 知りたいんでしょ……私は……」
そう、知りたい。
人間というのは傲慢で、知らなきゃ良かったと思うことを何度も味わったのにもかかわらず、知りたいという気持ちは捨てきれない。
私は嫌な予感と知りたいという気持ちを天秤に掛けて、自分の欲深さを選ぶ。
どちらを選んでも、きっと後悔することになるのは知っていたから。それなら、ルリや宮城くんが言ってくれたように逃げ出さないでおきたかった。
埃を拭き取ると、嫌な予感はずっと私に付き纏っていた。
この選択で本当に良かったのか、今なら変えられるんだよ? って頭の中で囁いてくれる。逃げて、逃げて、逃げ続けた弱い私がそう囁くのだ。
「……逃げないよ。知りたいことから逃げた先には、もう何もないって知ってるから」
口ずさみ、私は電源を入れた。
中空に画像が映し出される。先程の謎の物体は記憶装置で間違いないようだ、読み込みのマークが出ている。
けど……すぐに止まり、読み込み不良となって失敗してしまった。
「っ……どうして、ダメ……だったの?」
いや、違う。
画質が乱れ始め、部屋の壁全体に緑色の英数字が照らし出される。
「な、なに……これ……? 何が起こってるの? あっ――」
目の前にコンプリートと文字が出た瞬間、今度は赤いアラートの字と真っ赤な閃光が部屋全体を覆い尽くしていく。
「真っ赤、雨の眼の色……」
その言葉と同時にアラートが消え、次の瞬間に目を覆いたくなるような真っ白な閃光が私と部屋をかき消した。
§
「起き――起きて――」
「ん……んん……」
夢の中の優しげな声、それと共に私は覚醒を促されていく。私を呼ぶのは一体……誰?
ゆっくりと目を開けると部屋が少しだけ明るくなっている、夜が明けたんだ……。
あの白い光の後、私、眠っちゃってたのか。一体、何があったのだろう。フローリングの床の上で寝るなんて、昨日どれだけ疲れていたというのか。
「雨……」
結局、ホームシアターが変な状態になってしまって、それからのことは覚えてない。全てはわからず終いとなって――
「呼んだかしら」
「え……?」
不意に声が聞こえた。この部屋には私だけしかいないはず。でも、その声の主は確かに私の言葉に反応するように答えたのだ。
窓から目を逸し、声が聞こえた方へと振り向く。
そこには――
「……久しぶり、かしらね。奏」
「あ……め……?」
私は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていただろう。それくらいびっくりしていたのだ。
だって私の目の前には、黒いセーラー服を着込み、赤い眼を持った紛れもない宮之城 雨がそこに立っていたのだから。