君のブレスが切れるまで
 中年の小太りで眼鏡を掛けたスーツ姿の男の人が私へと話しかけてくる。だけど、違うとは言わない。私は応える。


「はい」


 つぐみと言うのは私だから。馬鹿正直に本名でやる訳がない。自分の個人情報となるものは家に置いてきている。もしも、相手に自分の情報がバレてしまえば脅迫を受ける可能性だってあり得る。誰も信用なんかできないんだ。


「可愛いねぇ……髪染めてないんだぁ。こういうことする子は、みんなギャルっぽい子かと思ってたから。あれ? おでこ怪我してるの? 大丈夫?」


 中年の男は顔を近づけられながら、話してくる。
 臭い、タバコのニオイだ。でも顔をしかめたりしない、これはお金の為だから。私は精一杯の笑顔を作る。きっと、引きつっているだろうけど。


「大丈夫です。あの……行きませんか?」
「そうだねー行こうか」


 すぐに話は決まる。額の怪我については興味がなかったみたい。ただ気になったってだけで、言葉を交わす口実だったのだろう。
 男は広げた傘を左手に持つと、開いた右手はポケットに入れ、肘の辺りに少しだけ空間を開けていた。何をしているんだろう。


「何やってるの? 腕につかまってほしいんだけど」
「あ……ごめんなさい。私、初めてで」


 自分の傘を持ちつつ言われるがまま、男の右腕にしがみつくよう体を寄せる。心臓の音が跳ね上がった、もちろん嫌悪感で。
 そのままの状態で、しばらく話しながらゆっくりと歩いていく。相手の話に合わせ、顔に笑顔を貼り付けていく。男も気分がいいみたい、こんな感じで良いのか。
 簡単ではあるけど、こんなことをしていると自分が自分じゃなくなるような気がしてくる。


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