この恋が手遅れになる前に
「おやすみ!」
そう言うと私は小走りでマンションの中に入った。涼平くんを振り返れなかった。私も照れて赤くなった顔を見られたくなかった。
◇◇◇◇◇
株式会社アサカグリーンの本社ビルの1階は花屋になっている。早朝から開店するため本店社員が出勤してくる時間に合わせて私も会社に到着した。
仕入れた花をケースに入れる本店社員に挨拶すると営業部のフロアに入った。
薄暗いフロアにはまだ誰もいないと思ったけれど、壁際の席のパソコンの画面が光っている。驚いて一瞬息が詰まり、その席の主を確認してさらに動揺した。
「奏美?」
章吾さんが私の姿を見て驚いた声を上げる。
「こんなに早く出勤?」
「はい……おはようございます……」
奏美と呼ばれて心が揺れる。この人に名を呼ばれたのは何日ぶりか。
「部長も早いんですね」
「書類が溜まっててね」
「そうですか」
「…………」
「…………」
短い会話の後にはお互い黙ってしまう。
私もパソコンを立ち上げイスに座る。数メートル離れているのに意識は完全に章吾さんに集中してしまった。別れたのにまだ気持ちがある。章吾さんにはもう奥さんがいるのに。
「奏美、新人教育はどう? そろそろ教育期間終わりだろ?」
「もう会社で奏美とは呼ばない方がいいんじゃないですか? 他の社員に変に思われますよ」
「今更無理だよ。ずっとそう呼んでたのに」
何度甘い声で『奏美』と呼ばれただろう。彼の腕の中で私は何度幸せを感じただろう。
けれど章吾さんの心は私から離れた。名前を呼ばれたらいつまでも私の心は章吾さんから離れられない。
奥さんのことを何と呼んでいるのだろう。考えたくないのに嫌なことばかり頭に浮かぶ。