この恋が手遅れになる前に
「結婚されたんですから、この機会に呼び方を戻してください」
出来るだけ平静を保って声を出す。パソコンの光と窓から入ってくる朝日だけではまだ暗くて章吾さんがどんな顔をしているかは分からない。
この人は私がまだ別れたことを引きずっているなんて思いもしないのだろう。
年上の章吾さんに甘えてしまったこともたくさんあった。でも最後は面倒な女とは思われたくなかったからあっさり身を引いたのに。
それからは会話がなくなった。お互い目の前の仕事に夢中になった。
しばらくしてフロアの外から足音と声が聞こえてきた。他の社員が出勤してきたのだろう。私もそろそろ担当現場に行かなければ。
「おはようございます」
扉が開いて入って来たのは加藤さんだった。その後ろには涼平くんがいる。どうやら二人一緒に出勤してきたようだ。
加藤さんが涼平くんに話しかけて、涼平くんも笑顔で答えている。昨日私に向けた顔とは別人のように無邪気だ。
フロアに私と章吾さんの二人きりだったと気づいた瞬間、涼平くんは笑顔のまま固まった。
私は立ち上がって壁に取り付けられたホワイトボードに行き先と帰社時間を書くとカバンを掴んだ。そうして「あ、そうだ」と思い出したように涼平くんと加藤さんに顔を向ける。
「二人とも、営業先でポインセチアと門松のチラシを配り忘れないようにね。ハロウィンが終わったらすぐに年末の受注なんだから。新人はここで会社の名前と商品を売ること」
「はーい、古川さんの営業努力を見習います」
加藤さんは手でガッツポーズを作る。涼平くんはともかく、加藤さんには前もって言っておかないとカタログすら忘れて営業先に行ってしまうのだ。