不倫


 7月に入ったばかりの土曜日の朝、8時台の東北新幹線に乗るべく、秋子は六時には家を出た。通りに出てタクシーを拾った。子どもを抱いている。夫の実家に預けるためだ。夫はまだ寝ている。多少不貞腐れているのだろうか。見送りもしてくれなかった。悪意は無いのだろうが、はっきりイヤだと言わない夫の態度が子どもっぽくて、秋子は腹立たしかった。
 実家の義母は、朝早いのに起きて待っていてくれた。年の割に活発で、心根の優しい江戸っ子である。秋子を良い嫁だと言って可愛がってくれる義母に、夫以上に済まないと思い心の中で手を合わせながら、待たせておいたタクシーに再び乗り込んだ。茅場町駅でタクシーを降り、日比谷線に乗った。上野に着いたのは8時を少し回った頃だった。沢田は新幹線の改札の外で秋子を待っていた。時刻表を見上げると、あと5分で出発するのがある。それに乗るために2人は足早に改札を抜けた。
「朝ご飯食べたの?」
「いや、食べてない。君は?」
「食べてないわ。子どもをよそに預けるのに早く出て来たから」
「ご主人は?」
 秋子は左腕のダイバーウォッチに目を落とし、首を傾げなら言った。
「もう家を出たわ」
「朝食の用意をして来たのか?」
「いいえ」
「サボったんだ」
「違うの。あの人朝ご飯食べないの」
 さも驚いたように沢田は声を揚げた。秋子も困ったように眉を顰めた。
「秋子が朝食抜きの男と暮らしてるなんて信じられないな」
「でしょう?」
「流石の俺もお前のおかげで朝飯が食えるようになった程だ」
 秋子は爽やかな気分で朝食を摂るのが好きだ。時にはゆっくりと目覚め、良い音楽を聴きながら支度をする。どうにも体がゆうことを聞かない時にはシャワーを浴びたりもした。学生時代、短い期間ではあったが秋子の部屋に居ついたことのある沢田も、それに付き合わされるうちに、すっかり朝食を摂る習慣が身に付いてしまった。全く、目覚まし時計が鳴ると、弾むように起きて、あんなに楽しそうに朝食を作る女に、沢田は出会ったことがない。朝というのは気分が澱んでいて、食事など胃がもたれるだけだと思っていたが、食べてみるとそれほどでもなく、かえって体がシャキっとした。そのせいばかりでもないだろうが煙草の本数も減り、今では2日に1箱空かなくなった。
「朝食抜きの男は出世しないっていうぜ」
「出世のための朝食じゃないわ。生きるための食事よ。起きて着替えて30分もしないうちに通勤の電車じゃ、とても仕事に熱が入るとは思えないわ」
「あんなに爽やかな朝を迎えるお前と2年も一緒に居て何の影響も受けないなんて、よっぽど鈍感な男だなあ」
 俺は朝飯は食えないんだから仕方がないと決めつけて、あっさりしたものから始めてみましょうと努力する秋子に、夫は全く耳を貸さなかった。子どもが意地を張っているようでみっともないと秋子は思った。最近少し太った夫は、ズボンがまだそんなにきつくないことを理由に、朝食の利点を認めようとしない。些細なことではあるが、それも秋子に離婚の2文字を思い浮かばせる要因である。
 車内販売のワゴンが自動扉の向こうからやって来たので、2人は弁当を買うことにした。それぞれ違う弁当と違う飲み物を買い、お互いの中身を突っつき合って食べた。
 仙台までの2時間はあっと言う間に過ぎ、秋子は久し振りに内容のある会話をしたと思った。俄かに脳が活性化されたように感じた。
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