不倫
3
仙台駅の東口を出てすぐの所に、同窓会が催されるホテルがある。ホテルの前の立て看板には、「D大学東北支部同窓会」と書かれている。沢田は九州出身なので、これには元より出席する必要が無い。秋子が出席している間、どこかで時間を潰さなくてはいけない。秋子をホテルのロビーで見送ってから外へ出、さて、と辺りを見渡すが、東口には大して楽しめるような建物が無い。そこで駅の構内を抜け、西口に出てみた。連絡橋が三方に伸び、デパートやら大きなビルが建ち並び、下には大きな道路が縦横に走っている。車の量は多い。かなり混んでいる。沢田は橋を降りずにそのまま入れる喫茶店をみつけ、窓際の席に座った。
土曜日の午前中のためか客は少ない。大学生らしき男女が何組か腰を落ち着けているだけだ。沢田はホットコーヒーを注文し、ジーパンのポケットから文庫本を抜き取った。半分近く読み進んでいたものを持って来ておいた。元々短い小説なのでじきに読み終わってしまうのだが、時間を潰さなくてはいけないのだと気付き、わざとゆっくり読んだ。あとがきまで読んだ。斜め読みの得意な沢田にしてはかなり緩めのスピードだ。いつもはあとがきなど読まない。読み終えて、俺はやはりあとがきは読まない方が良い、と後悔した。
本を閉じ、コーヒーを飲み干した。30分しか経っていない。なんとなく手持ち無沙汰なのでポロシャツの胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。朝から数えて2本目であった。煙草を吸い終えてしまうと、いよいよ何もすることが無くなってしまった。コーヒーのおかわりをする気も無いし、もう1本煙草を吸おうとも思わない。沢田は立ち上がり、取り敢えず外に出てみることにした。レジで金を払う時、アルバイトらしき女の子に、さっき読み終えたばかりの本を差し出した。
「これ、君にあげるよ」
流暢な東京弁に驚いて顔を赤くした女の子は、
「え・・・」
と言った。沢田に釣銭を渡す手が僅かに緊張した。純朴な田舎の少女をからかうつもりはないが、沢田は急に悪い事をしたような気になった。だが、旅の恥はかき捨てだ、いや、なに、恥と言うほどの事などしていない、東京の人はやることがキザだと思わせておけば良い。
「君がかわいいからこの本をあげるよ」
今流行りの軽い推理小説だ。もう読んでしまったかもしれない。女性に人気のある作家だから。
「はい」
と、小さくその子は応え、沢田の手から本を受け取り、
「どうも」
と言った。東京弁とは違う響きがある。秋子も田舎に帰ればその土地の言葉で話すのだろうか、と沢田は思った。
店を出、もう一度辺りを見渡した。駅ビルに書店の名前をみつけたので、沢田はそこへ向かって歩いた。やはり本はあった方が良い。彼は活字が好きだ。新聞も読むし専門書も読む。絶えず彼の手には本が有る。週刊誌や雑誌を「本」だと言う秋子の夫とは読書量が雲泥の差である。当然知識の量や質にも差があろう。
フロアの半分を占める広い書店内ゆっくり巡り、沢田は月刊の洋雑誌と、芥川賞を受賞した女流作家の文庫本とを買った。賞の格が下がったと手ひどく中傷された作家だ。沢田は賞の質にはこだわらない。時代がどういう文章を必要としているかを自分なりに見究めるため、決して食わず嫌いはせず、しかし批判的な見方は忘れずにいた。
女店員が文庫本に店名入りのカバーをかけようとするのを断って、雑誌だけ紙袋に入れてもらった。
書店を出、もう一度連絡橋の上に立ってみた。秋子と過ごすための部屋を探さなくてはいけない。沢田も秋子も仙台は初めてであった。知らない土地だ。どこに何があるのか見当もつかない。大きな商店街があるにはあるだろうが、ホテルを探すためだけにブラブラと歩き回るのも気がすすまない。知らない土地の知らないホテルは、知った顔に出会う筈の無い安心と、周りの状況が掴めない不安とで、どうにも探しづらい。
沢田はうろうろするのをやめ、東口の例のホテルに戻った。迷ってもしょうがないのでこのホテルに部屋をとることにした。万一出席者の中に見知った顔があったとしても、秋子ならうまくかわして部屋まで辿り着けるだろう。
フロントで部屋はあるかと尋ねると、ツインならございますと返答があった。ベッドの数だの大きさだのがどうであれすることは同じさ、とおもいながら鍵を受け取った。秋子たちの集っている4階を通り過ぎる時、音楽や話し声が混じり合って少しうるさかったが、上昇するにつれ静かになり、部屋のある10階まで来ると何の音も無く少し不気味でさえあった。
狭くてほの暗い廊下をかぎがたに曲がった左手に部屋があった。鍵を開け中に入った。ドアを閉めるとカチリと音がして、オートロックが働いた。左手すぐにバスルームのドアがあり、右手には小さなクローゼットがあった。更に中に進むと左手にシングルベッドが2つ、奥の壁を頭にして並んでいた。右手にはドレッサー、正面は窓。テレビは窓側のベッドの足元に見やすい向きになって置かれていた。
ベッドに乗らなければ窓が開けられないので、右足の靴だけを脱ぎ、カーテンを開けてみた。窓の外は景色が悪い、隣りのビルが間近で中に居る人の顔が分かる。カーテンを閉めベッドから下り、ドレッサーの左横に立つスタンドを灯けた。ドレッサーテーブルに本と鍵を置き、ポケットというポケットに入っている物を全て出した。小銭が思ったより多く、雑誌の紙袋の上に散らばった。窓側のベッドに腰を下ろし、ベッドサイドテーブルの上にあるスタンドも灯
け、電話に手を伸ばした。フロントの番号を回す。
「フロントでございます」
「D大学の同窓会に出席している人にメッセージをお願いしたいのですが」
「はい、かしこまりました。先方様のお名前をどうぞ」
「羽生・・・」
と言いかけて沢田は一瞬考えた。羽生というのは秋子の旧姓だが今は三浦だ。三浦に言い直そうかと思ったやめにした。俺が知っているのは羽生秋子であり三浦秋子ではないのだ、と何故か苛立ちを覚えた。
「羽生秋子さん」
「メッセージの内容をどうぞ」
「このホテルの1002号室に部屋をとりましたと」
「はい、かしこまりました。お時間の指定はおありでしょうか」
「無いです。なるべく早く伝えて下さい」
「はい、かしこまりました」
フロントマンは、相手の名前と伝文を復唱し、沢田様からということで宜しいでしょうかと付け加えた。沢田は、宜しく、と答え電話を切った。
ベッドサイドテーブルにはアラーム付きの時計がはめ込まれている。見ると針は12時2分を指していた。ふと思い立ち、沢田は鍵と財布を持ち、小銭をジーパンのポケットに押し込んで部屋を出た。ロビーを横切り外を出ると、沢田は隣りの建物へ向かった。1階が酒屋になっている。そこでアメリカ製の缶ビール4本とボジョレのワインを1本、それからロックアイスを1袋、そしてつまみにウォルナッツの殻付きを1袋買った。小銭を減らしたかったので、掌から細かく小銭を拾って店員に手渡した。めでたく100円玉3枚だけになった。
部屋に戻りバスルームからバスタオルを持って来てベッドサイドテーブルの上に置いた。その上にロックアイスを袋のまま乗せて、缶ビールをワインを寝かせた。空調を涼しくすれば大丈夫だろう。この手のホテルには冷蔵庫が無いが、沢田は慣れている。
服を脱ぎ、窓側のベッドの上にバサリと放った。そっちのベッドは使わない。
仙台駅の東口を出てすぐの所に、同窓会が催されるホテルがある。ホテルの前の立て看板には、「D大学東北支部同窓会」と書かれている。沢田は九州出身なので、これには元より出席する必要が無い。秋子が出席している間、どこかで時間を潰さなくてはいけない。秋子をホテルのロビーで見送ってから外へ出、さて、と辺りを見渡すが、東口には大して楽しめるような建物が無い。そこで駅の構内を抜け、西口に出てみた。連絡橋が三方に伸び、デパートやら大きなビルが建ち並び、下には大きな道路が縦横に走っている。車の量は多い。かなり混んでいる。沢田は橋を降りずにそのまま入れる喫茶店をみつけ、窓際の席に座った。
土曜日の午前中のためか客は少ない。大学生らしき男女が何組か腰を落ち着けているだけだ。沢田はホットコーヒーを注文し、ジーパンのポケットから文庫本を抜き取った。半分近く読み進んでいたものを持って来ておいた。元々短い小説なのでじきに読み終わってしまうのだが、時間を潰さなくてはいけないのだと気付き、わざとゆっくり読んだ。あとがきまで読んだ。斜め読みの得意な沢田にしてはかなり緩めのスピードだ。いつもはあとがきなど読まない。読み終えて、俺はやはりあとがきは読まない方が良い、と後悔した。
本を閉じ、コーヒーを飲み干した。30分しか経っていない。なんとなく手持ち無沙汰なのでポロシャツの胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。朝から数えて2本目であった。煙草を吸い終えてしまうと、いよいよ何もすることが無くなってしまった。コーヒーのおかわりをする気も無いし、もう1本煙草を吸おうとも思わない。沢田は立ち上がり、取り敢えず外に出てみることにした。レジで金を払う時、アルバイトらしき女の子に、さっき読み終えたばかりの本を差し出した。
「これ、君にあげるよ」
流暢な東京弁に驚いて顔を赤くした女の子は、
「え・・・」
と言った。沢田に釣銭を渡す手が僅かに緊張した。純朴な田舎の少女をからかうつもりはないが、沢田は急に悪い事をしたような気になった。だが、旅の恥はかき捨てだ、いや、なに、恥と言うほどの事などしていない、東京の人はやることがキザだと思わせておけば良い。
「君がかわいいからこの本をあげるよ」
今流行りの軽い推理小説だ。もう読んでしまったかもしれない。女性に人気のある作家だから。
「はい」
と、小さくその子は応え、沢田の手から本を受け取り、
「どうも」
と言った。東京弁とは違う響きがある。秋子も田舎に帰ればその土地の言葉で話すのだろうか、と沢田は思った。
店を出、もう一度辺りを見渡した。駅ビルに書店の名前をみつけたので、沢田はそこへ向かって歩いた。やはり本はあった方が良い。彼は活字が好きだ。新聞も読むし専門書も読む。絶えず彼の手には本が有る。週刊誌や雑誌を「本」だと言う秋子の夫とは読書量が雲泥の差である。当然知識の量や質にも差があろう。
フロアの半分を占める広い書店内ゆっくり巡り、沢田は月刊の洋雑誌と、芥川賞を受賞した女流作家の文庫本とを買った。賞の格が下がったと手ひどく中傷された作家だ。沢田は賞の質にはこだわらない。時代がどういう文章を必要としているかを自分なりに見究めるため、決して食わず嫌いはせず、しかし批判的な見方は忘れずにいた。
女店員が文庫本に店名入りのカバーをかけようとするのを断って、雑誌だけ紙袋に入れてもらった。
書店を出、もう一度連絡橋の上に立ってみた。秋子と過ごすための部屋を探さなくてはいけない。沢田も秋子も仙台は初めてであった。知らない土地だ。どこに何があるのか見当もつかない。大きな商店街があるにはあるだろうが、ホテルを探すためだけにブラブラと歩き回るのも気がすすまない。知らない土地の知らないホテルは、知った顔に出会う筈の無い安心と、周りの状況が掴めない不安とで、どうにも探しづらい。
沢田はうろうろするのをやめ、東口の例のホテルに戻った。迷ってもしょうがないのでこのホテルに部屋をとることにした。万一出席者の中に見知った顔があったとしても、秋子ならうまくかわして部屋まで辿り着けるだろう。
フロントで部屋はあるかと尋ねると、ツインならございますと返答があった。ベッドの数だの大きさだのがどうであれすることは同じさ、とおもいながら鍵を受け取った。秋子たちの集っている4階を通り過ぎる時、音楽や話し声が混じり合って少しうるさかったが、上昇するにつれ静かになり、部屋のある10階まで来ると何の音も無く少し不気味でさえあった。
狭くてほの暗い廊下をかぎがたに曲がった左手に部屋があった。鍵を開け中に入った。ドアを閉めるとカチリと音がして、オートロックが働いた。左手すぐにバスルームのドアがあり、右手には小さなクローゼットがあった。更に中に進むと左手にシングルベッドが2つ、奥の壁を頭にして並んでいた。右手にはドレッサー、正面は窓。テレビは窓側のベッドの足元に見やすい向きになって置かれていた。
ベッドに乗らなければ窓が開けられないので、右足の靴だけを脱ぎ、カーテンを開けてみた。窓の外は景色が悪い、隣りのビルが間近で中に居る人の顔が分かる。カーテンを閉めベッドから下り、ドレッサーの左横に立つスタンドを灯けた。ドレッサーテーブルに本と鍵を置き、ポケットというポケットに入っている物を全て出した。小銭が思ったより多く、雑誌の紙袋の上に散らばった。窓側のベッドに腰を下ろし、ベッドサイドテーブルの上にあるスタンドも灯
け、電話に手を伸ばした。フロントの番号を回す。
「フロントでございます」
「D大学の同窓会に出席している人にメッセージをお願いしたいのですが」
「はい、かしこまりました。先方様のお名前をどうぞ」
「羽生・・・」
と言いかけて沢田は一瞬考えた。羽生というのは秋子の旧姓だが今は三浦だ。三浦に言い直そうかと思ったやめにした。俺が知っているのは羽生秋子であり三浦秋子ではないのだ、と何故か苛立ちを覚えた。
「羽生秋子さん」
「メッセージの内容をどうぞ」
「このホテルの1002号室に部屋をとりましたと」
「はい、かしこまりました。お時間の指定はおありでしょうか」
「無いです。なるべく早く伝えて下さい」
「はい、かしこまりました」
フロントマンは、相手の名前と伝文を復唱し、沢田様からということで宜しいでしょうかと付け加えた。沢田は、宜しく、と答え電話を切った。
ベッドサイドテーブルにはアラーム付きの時計がはめ込まれている。見ると針は12時2分を指していた。ふと思い立ち、沢田は鍵と財布を持ち、小銭をジーパンのポケットに押し込んで部屋を出た。ロビーを横切り外を出ると、沢田は隣りの建物へ向かった。1階が酒屋になっている。そこでアメリカ製の缶ビール4本とボジョレのワインを1本、それからロックアイスを1袋、そしてつまみにウォルナッツの殻付きを1袋買った。小銭を減らしたかったので、掌から細かく小銭を拾って店員に手渡した。めでたく100円玉3枚だけになった。
部屋に戻りバスルームからバスタオルを持って来てベッドサイドテーブルの上に置いた。その上にロックアイスを袋のまま乗せて、缶ビールをワインを寝かせた。空調を涼しくすれば大丈夫だろう。この手のホテルには冷蔵庫が無いが、沢田は慣れている。
服を脱ぎ、窓側のベッドの上にバサリと放った。そっちのベッドは使わない。