不倫


 沢田のメッセージはすぐに秋子の元に届けられた。マイクで、羽生さんはいらっしゃいますか、と呼び出された時は、実家に預けた子どもに何かあっての緊急連絡かと思ったが、旧姓で呼び出されるはずはない。メッセージのかかれた小さな紙片を開いた時、安心と同時に楽しいいたずらに出会ったように笑みがこぼれた。このホテルに部屋をとったと書いてある。パーティーが終わる頃にロビーで落ち合う約束をしていたにもかかわらず、わざわざメッセージをよこすなど、沢田らしい冒険的なやり方だ。
 秋子の名前を呼んだのは、見たこともないうんと上の卒業生だが、この文章に目が行っただろうか。四角い紙片は四隅を合わせずにずらして畳んであったので、広げずとも宛名が読み取れるようになっている。まさか開いて見たりはしなかっただろうが、秋子は彼の表情を盗み見ずにはいられなかった。だが彼は、友人らしき男性との会話に打ち興じていた。秋子は少しほっとした。
 もうすぐ12時半だ。10時半から始まったパーティーだが、もう既に帰ってしまった人も居る。知っている人が1人も居ず、ましてやうんと上の卒業生などと話しをしても自己紹介ぐらいで、来賓として招かれた教授も授業を受けたことはあるが、内容などすっかり忘れてしまったし向こうもこっちを覚えてなどいない。近くに居た2、3人の女性と、自己紹介だの学生時代のエピソードだのを深入りすることなく、表面だけなぞって話し、会場のざわめきの中に埋もれていた。バイキング式の立食パーティーなので、車中で食べた弁当の為にほぼ満腹で箸をつけなくとも誰も気に留めない。ウィスキーのグラスを手にただ時間をやり過ごしていた。抜け出すチャンスを伺っていた。
「羽生さんて結婚してお子さんもいらっしゃるのに、全然そんなふうに見えないわね。大学生だと言っても通用するわよ」
 小柄で顔付きの端正な秋子に傍に居た女性が言った。初対面の人には必ずと言って良い程そう言われる。無理して若作りなどしていない。ワードローブが大学時代とまるで変わりないので、服装の面からもそうなのだろうが、秋子は得な資質を備えている。義姉の結婚式の際、留袖を着た秋子に、周囲が十代に見えると言ったので、その後義姉は秋子を目の敵にしている。
 一際高くマイクを通して今回の同窓会の幹事である男性の声がした。そろそろタイムアップなので万歳をしてお開きにしましょう、と言う。皆が外に出てしまうと、1人だけエレベーターで上に行くのは人目を引くので、万歳が始まる前にこっそり会場を出た。誰も居ない受付に胸に付けてあったネームプレートを返した。「三浦」とは書かず、「羽生」と書いた。秋子の心の中には、常に「三浦秋子」は自分ではないという思いがあり、古くからの友人知人に電話をする時には必ず「羽生です」と言うし、個人的な手紙の差出人欄には「羽生秋子」と書いた。夫はそれが気に入らない。自分でも「三浦」を名乗らなくてはいけないのだと当然分かってはいる。それが結婚の基本なのだとも、常識なのだとも思う。だが秋子は「羽生」の姓を放そうとしない。
 秋子がエレベーターの前で待っていると後ろから呼び止められた。先程から話しをしていた女性たちだ。
「お急ぎでなかったら、この後下でお茶しませんか?」
 そう言う彼女の後ろから万歳の声が聞こえた。
「お誘いありがとうございます。でも私こちらに住む友人と会う約束があるんです」
「まぁ、そうですか。もうお約束のお時間ですか?」
「ええ、ロビーで待ち合せしてるんです」
「そうでしたか。残念です。これを機会にお友達になりたかったのに」
「申し訳ありません」
 会場の扉が大きく開かれ、中に居た100人以上の人々がぞろぞろと外へ流れて来た。もう上には行けない。流れと共にエレベーターで一階まで下りてしまった。人をやり過ごす為にフロントへ向かった。黙って立っている訳に行かず、沢田の部屋へ電話を取りついでもらった。
「もしもし、フロントでございます。奥様がいらっしゃってますのでお取りつぎ致します。少々お待ち下さい」
 秋子は、自分の名前を告げたわけでもないのに「奥様」と判断したフロントマンの顔をちらりと見、臆せず受話器を受け取った。
「もしもし、私です」
「終わったのか」
「うん」
「随分早いな」
「そうかしら」
「もう来られるのか」
「うん。もう何も無いから」
「じゃ、来れば」
「はい、行きます」
 受話器をフロントマンに返し、極普通に部屋はどこにあるのか尋ね、礼を言って再びエレベーターに戻った。ロビーにはまだ2、30人残ってはいたが、秋子を見ても誰も気に留める様子は無かった。忘れ物を取りにでも行く様な顔をして、エレベーターに乗った。1階のざわめきは2階3階と上がって行くにつれ薄れ、10階まで来ると全く何の音も無く、先ほど沢田が感じたと同じ不気味さを秋子も感じていた。
 秋子が1002号室に電話をかけた時、沢田はバスルームに居た。わざわざバスルームを出なくても良いように、バスルームにもベッドルームと同じ電話があるのはとても便利だと思いながら受話器を耳にすると、奥様がいらしてますと言う。一瞬婚約者が来た?と思ったが、彼女に今回の外出のことを話していない。行方を告げずに出かけるのは珍しいことではないのだ。いつ、どこへ、何をしに行くかなど弁解する義務は沢田には無いし、知る権利を彼女に与えてもいない。
 果たして電話の向こうの声は秋子であった。
 シャワーを切り上げ、バスタオルで体を拭っていると秋子が来た。糊の効いた浴衣を体に巻き付けながら沢田はドアを開けた。
「もう終わったのか」
 電話で言ったのと同じことを沢田はもう一度言った。
「そうなの。シャワーを浴びてたの?」
「そういうこと」
「途中だったのかしら」
「まあね」
「じゃあ続きをどうぞ」
「もう良い。肝心な所は済んだんだ」
「イヤな人」
 秋子はバッグや同窓会で配られた資料などをドレッサーテーブルの上に置き、白い綿のジャケットを脱いだ。
「この部屋少し寒いわ」
「やっぱり?空調を寒めにしてあるから」
「何故?」
 沢田はベッドサイドテーブルを指さした。そこには解けかかった氷の入った袋の上の何本かの飲み物と、袋の下でグショグショになっているバスタオルがあった。
「なるほどね。納得」
 秋子の露わになった肩に沢田が軽くキスをした。
「一緒に浴びる?」
「いやよ」
 子どもを産んですっかり変わってしまった体の線を見せたくないという理由で、秋子は沢田の前に裸を曝さなくなってしまった。沢田にしてみれば、予てから見知っていたその体が、他の男の手で、そして子どもを産むという大仕事の後にどのように変わったかに興味があり、まじまじとみつめてやりたいところなのだが、秋子は体を離した後もシーツを巻き付けてしまう。今も、青いベアトップが軽く彼女の胸を包んでいるだけなのだから、力任せにずり下ろせば良いのだが、それをさせるスキが無い。腰にぴったりと張りついた黒いタイトスカートも妙にそそるだけで、手も足も出ない。秋子が沢田のものであるなら容赦しないのだが、結婚して大人の分別を弁えながらこうして自分と会っている秋子に、沢田は紳士的にならざるを得なかった。
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