アンブレラ
掃除が終わり、いつもより早足で廊下に出た。

そして俺は、そのタイミングの悪さを一瞬で呪った。舌打ちしたかもしれない。

亜梨紗がいた。

亜梨紗と別れてから、彼女と会わないように気をつけていた。

亜梨紗も心外だったのか、俺を見て、少しの間、呆けていた。

「久しぶり。真一」
「久しぶり」
「なんか…すごく会ってなかった気がする」

亜梨紗を避けていた、とは言えない。

「少し痩せた?元気?」
「元気だよ。白崎は元気?」
「うん、元気」

もう「亜梨紗」とは呼ばなかった。
亜梨紗もそのことに気づいたのか苦笑いした。

亜梨紗は何も変わっていなかった。
よく響く声も、髪の長さも。
また綺麗になったように見えるのは久しぶりに会ったためだろうか。

俺と別れても、亜梨紗には微塵もダメージはなかったんだな。

「俺、待ち合わせがあるから」
「誰と?」
「誰でもいいだろ」
「あーあ、相変わらず無愛想。そんなんじゃモテないよー」

亜梨紗が言うから。
不幸せのかけらもなく、ころころと笑って、楽しそうだから。

「彼女、できた」
「え?」
「彼女ができたよ」

ささやかな対抗心だった。

俺だって前を向いていると、亜梨紗のことなど忘れたと、彼女に思わせたかった。

亜梨紗は心から驚いたように目を丸くしていた。
そういう感情を隠しもしないことに、余裕を感じた。

「そうなんだ…もう、おとなしい顔してやるなぁ。相手は誰?あたしが知ってる人?」
「教えない」
「もう、秘密ばっかり」

亜梨紗はすぐにいつものペースに戻った。
動揺や戸惑い、ましてや嫉妬など皆無だった。

俺が大切なことを間違えた気分だ。
もう、ここにはいたくなかった。

ぎこちなく歩き出し、亜梨紗の横を通り過ぎた。
その時、かすかに亜梨紗の香りがした。
きっと使っているシャンプーの香りなのだろう。

初めて知った女の子の匂いだった。
まだ、懐かしいとは思えなかった。

「真一」

亜梨紗の声に、俺は振り向いた。

「あのね、いいタイミングだから言うね。あたしもいい感じになってる人がいるの。近いうちに付き合うと思う」
「……」
「真一が幸せそうで良かった」

亜梨紗は微笑した。
俺は目を逸らした。

外面がいいくせに俺にはわがまま放題の女だった。
だけど、時々、本当に時々、不意を突いて、その優しさは俺を包み込んだ。

亜梨紗のそういうこところが好きだった。
だから今はその優しさから逃げたかった。

「ありがとう。白崎も良かったな」

久しぶりに亜梨紗に会った。
まだ、早かった。
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