きみは幽し【完】
「周、」
“花ちゃん、”
周の角膜に浮かぶ珊瑚礁だけは、やっぱり、今も、生きていてほしい。
恋を知っていたら、私はその部分から愛おしんだだろう。
恋でもない、愛でもない。そんな不確かなものではない。
大切、とは絶対だ。
きみには分からないでしょう。
本音を打ち明けて泣いたあの日の海での1頁に、
全てを置いていこうとしたのは周だけだった。
ずっとそばにいる、その8文字分の寿命で充分だと思いたかった。
ブーケの紐を解く。
花がほろり、とまとまりをなくしていった。それを抱えて、立ち上がる。
夜の深度が深まっていく中で、過去の記憶が海に帰ろうとしていた。
抱えていた花を空に向かって放つ。
重力とは強力。なにもかも星にはならない。
この夜は無情だ。花びらが舞って、海へ落ちてゆく。
一度も、周のことを好きだと嘘をつかなかったことだけが、
私の全てのような気がしていた。
一番大切だったから、一番誠実でいたかった。
もう、思い出せない。今、ようやく嘘をつくことを許されたような気がしている。花ちゃん、と呼ぶときの声。ふす、と笑うときの首をすくめる仕草。思い出せ、ない。
私たちは、本当に、大人になってしまったのだ。