ビニール傘を差し出したら、結婚を申し込まれました。
珍しくと言われても名家のお嬢様などそう会ったことがないから、残念ながらその普通はわからない。
懐かしむように少し目を細めた市ヶ谷さんは、トンと音を立ててコーヒーカップをテーブルに置いた。
「だけど、純粋だったから……なのかな。結婚がもう三ヶ月後に迫ったってタイミングで、やっぱり貴方とは結婚出来ない、好きな人がいて諦められないんだって泣かれた」
「……なんと」
「しかも相手はずっと彼女に仕えていた使用人。ご両親は大激怒だったようだけど、今は二人して姿をくらませてるみたいだね。要するに駆け落ちってやつ」
淡々と、過去のこととして語っているようだけど、彼の目には怒りとも悲しみともとれるような複雑な色が浮かんでいるように思えた。もう少しで結婚というところだった婚約者を奪われたのだから、当然愉快な気持ちのはずがないか。
「順番に話すとは言ったけど、この話はどうでも良かったかな。ごめんね」
市ヶ谷さんは私の顔をのぞきこんで、すまなそうに言った。
ああ、私が退屈しているように見えたのか。そう気づいてゆるりと首を振った。
「いえ、興味深い話ですよ。親の反対を押し切ってまで愛する人と一緒になりたいというお嬢様の決意、素敵じゃないですか」
「そう?……『興味深い』って思ってるようにはみえないけど」
「男性の方も密かにお嬢様のことを想っていたのでしょうか。そんな物語のような話が現実にあったんですね。当て馬お疲れ様でした」
「う、うん……当て馬……下手に同情されるよりはいいけど」
元婚約者のお嬢様とそのお相手は、どこかで幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
──とはならないのが当て馬側のようだ。