もしも世界が終わるなら
「予約している佐藤千夏です」

「千夏? 嫌だわ。偽名なんていやらしい」

 私が千生だと決めつけて話す上に、そこまで言われる筋合いはない。それなのにどうしても環さんには萎縮してしまう。

 大人になって成長したはずなのに、ここではなにも変わらない自分が嫌になる。

「宗一郎さんに会いに来たっていうわけ?」

「いえ。父には……」

 言いかけて消えかけた声は、拾い上げられ暴かれる。

「いい加減。娘面はやめてくれないかしら」

 やっぱり来なければよかった。後悔があとからあとから押し寄せる。

 不意に別の人の気配を感じ、環さんは私から視線を外し、旅館の仲居さんの顔のそれとなる。

 現れたのは若旦那。藤木宗一郎。母と離婚した人だ。

「椎名さん。お客様?」

 物腰の柔らかい声に、環さんは別人のようなにこやかな表情で答える。

「ええ。宗一郎さん。千生ちゃんですよ」

「千生?」

 振り返らなくても紺色の着物が目に浮かぶ。ずっと父だと信じて疑わなかった人。もう二度と会わないのだと思っていた。

「千夏なんて名前で予約したみたいなんですよ」

「どうしてそんな」

 悪あがきだ。わかってはいる。ここに来ると決めたときから、自分の過去を知る覚悟は決めてきたというのに。
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