夏空、蝶々結び。
そうだった。
取りかかる前は、私だって同じことを毒づいていた。
「何だったか……あ、カナちゃんだっけ? 」
わざとらしくその名を呼び、意識を午前中に戻させる。
――もともと、誰の仕事?
「仕事押しつけられて無理した挙げ句、それすら忘れて悦に入るとか。ほんと、馬鹿」
容赦ない事実の羅列が、これまでの作業を無意味にしていく。
何度も見直して保存したファイルも、それを添付した報告メールも。
全部消し去りたいくらい、見たくなかった。
「だって、あの状況で断るなんて……」
あの場でごねて、どうなるの?
一応、こっちは先輩だし、第一あんな会話されて断るなんて無理――……。
「男のせい? 」
馬鹿にしていたゴンの声が、急激に冷えた。
「あのさ。はっきり言うけど、誰だって可愛い子の方がいいよ。ツンツン、ギスギスされるより、にこにこされる方がやりやすいし。居心地だっていい」
酷い言い草だ。
それでもそれが現実なのは、私にだって分かる。
でも、何も知らない、出会ったばかりの勝手な幽霊になんか言われたくなかった。
「だから? 可愛い子ぶったり、媚びたりしろってこと? そんなのできる歳でも、許される立場でもないけど」
正直になるなら、きっと妬ましさは消えない。
私がもし、入社して間もない新人だったなら。
もし、もっと可愛げがあったなら。
そう思ったことは、一度や二度じゃない。
「ゴンの言う通りだって分かるよ。一人で勝手に引き受けて、勝手にイライラしといて、勝手に自己満足したりして馬鹿かもしれないけど……! 」
悩んで、上手くいかなくて。
それをどうやって、納得してきたかも知らないくせに。
「……だとして、あんたに関係あるの? 」
そんなの、言われる筋合いはない。
間抜けかもしれなくても、少なくともさっきまでの私は、気分よく退社するところだったのだ。
「――……ねぇよ」
低く、けれどもはっきりと断言され、僅かに怯む。
そうは言いながらも彼が怒っていることだけは確かで、これまでのようなからかい口調は消えていた。
「……だったら、放っといて……!! 」
バンッと机を叩きつけ、その勢いのままドアの方へ走り出した。
――怖い。
ゴンに会って初めて、私は恐怖を抱いていた。
地縛霊とか、非科学的で未知なるものへの怖さではない。
だとするなら、一体私は何に怯えているんだろう。