ただきみと旅をしたいだけ
 


 ほっぺたを優しい風が撫でていく。おいで、こっちにおいで。まるでそう言っているようだ。「おおい、カナ、遅いぞう」 ぼんやりと足元の花を見つめている間に、少しばかり先を進んでいたレグルスが、こっちに向かって大きく腕を振っていた。

「待って、ごめん!」

 それだけ叫んで、背負ったリュックをバタバタさせて小高い丘を越えた。「わ……っ」 

 一面の花畑だった。まるでコスモスのような花たちが、真っ白だったりピンクだったり、細い茎を風の中でゆらゆらさせてまるで何かのおしゃべりをしているみたいだ。

 私がぼんやりしている間にも、レグルスは花畑の中に飛び込んだ。「何してんだ。こっちに来いよー!」 そういって、やっぱり私を振り返って、ぶんぶんと両手を振っている。それからけらけらと笑った。



 大きな街の中にも行った。相変わらず、レグルスはフードを被って耳を隠していたけれど、うっかりまた表に出ないかとひやひやしてたまらなかった。市場の中でもみくちゃになって待った待ったと叫んだら、小さな体のくせに、妙に頼りがいのある腕をこちらに出して、二人で手をつないだ。なぜだか奇妙につないだ左手が熱いのに、かわいい兄妹ね、なんてお店の人に言われたから、なぜだかひどく恥ずかしくなって、慌てて互いに手を離した。


 ただの泥地というにはかわいらしい表現なくらい恐ろしい沼の中を通り抜けた。うっかり足を踏み出せば、ずんずん終わりなく沈んでいくというから、試しとばかりに持っていた時計を浮かべてみると、一瞬のうちにずるりと沼の中に落っこちた。「あーーー!?」 だから慌てて手を伸ばしたら、「何やってんだばか!」 とレグルスに怒られた。

 自業自得だと言われて、半泣きになりながら、沼を越えた方法はと言うと、見かけはぞうみたいな、けれども見かけはずっと小さな動物に乗ってえっちらえっちらとゆっくり先に進んだのだ。彼らの足は蓮の葉のように広くて、大きくて、沼の中には沈まない。

「電池が、もうなくなってたから、いいんだけどぉ……」
「よくねえだろ。ばかだなー」

 呆れたような声がつらい。




 まるで泥の海のようだ。たぷたぷと波が揺れる音がする。オレンジ色の夕日がとろとろとこぼれて、溶けて、消えていく。真っ暗になったはずの空は、あんまりにも綺麗で、明るくて、きらきらしていた。お兄ちゃんからもらった星の形の髪ゴムは、今もちゃんと持っている。毎日朝には手ぐしでといた髪をくくった。




 レグルスと二人、草原の上に寝転がって、ぼんやりと見上げた。

 あんまりにも、綺麗な星空だった。だから、思わず言ってしまったのかもしれない。


「ねえレグルス。神殿までって、本当はどれくらい遠いの?」

 どれくらい先にあるのか。以前にきいたときは、そりゃもう遠い場所だ! と彼は白い歯を見せていた。だから、そうなんだ、と頷いて、ただただまっすぐ進んでいた。色んな道を通った。「あと、“何年ぐらい”かかるの?」 でも本当は気づいていた。私と神殿はつながっている。だから、うっすらだけど、その先の場所がわかる。進めば進むほど、近づいたこともわかる。けれども一向に近づかない。

 レグルスは何も言わなかった。寝転んで、星空を見上げたまま、ぎゅっと私の手のひらを握りしめた。そっか、そっかあ、とバカみたいに私は呟いた。そんな風に我慢した。なのに、「ごめんな」 ただの一言、彼が謝ったものだから、途端に息が辛くなった。目の前がどんどんぼやけて、何もしゃべることもできなくて、ひくつく喉を必死で抑えた。帰りたい。


 元の世界に帰りたい。


 少し涙が溢れると、頑張っていた我慢なんてすぐにどこかに消えてしまった。「あ」 大声で泣いた。「う、ああ、う、う、うわあ……!!」 子供みたいに泣いて、ボロボロと溢れる涙を片手で隠した。

 帰りたい。元の世界に戻りたい。家族に会いたい。

「ごめんな、俺が喚んじまったせいだよな」

 そうしなきゃ、まっすぐに神殿に行けてたはずだよな、と呟く彼の言葉に、本当は首を振りたかった。確かに私をあの村にひっぱったのはレグルスだけど、こっちの世界に来たのは彼のせいなんかじゃない。たくさん助けてくれた。感謝している。レグルスとの旅は楽しかった。見たことのないものを見ることができて、たくさん笑ったことは嘘じゃない。

 でも、そうわかっているのに、はっきりと言葉にすることもできなくて、ただ私は泣きわめいた。お母さん、お父さん、お兄ちゃん。家族の名前を呼んで、友達の名を叫んだ。

 一日一日が怖かった。
 あっちの世界に早く戻らないといけない。そう焦って、震えていた。そしたら今度は戻ることも怖くなった。怒られるかもしれない。大変なことになってるかも。そんな不安があるうちのは最初だけで、みんなが私を忘れてしまっているような気がして、夜を越える度に涙が溢れて止まらなかった。必死に唇を噛んで、眠ったふりを繰り返した。

 もしかすると、それだってレグルスは全部知っていたのかもしれない。ただただ、彼は私の手のひらを握りしめた。私だって、彼の手をぎゅっと握った。

 私が涙を流し尽くすまで、レグルスはじっと一緒にいてくれた。何にも言わなかった。だから私も安心して、ばかみたいに泣いてしまった。やっとこさ落ち着いた頃にはずるずるの鼻水をすすっていた。恥ずかしさなんて、すっかりどこかに消えてしまった。

 頭の上では、きらきらと星が輝いている。まるでレグルスと最初に会ったときの空みたいだ。


「そういえば、あの日はお祭りだったんだっけ……」

 台無しにした、とリラという女の子に思いっきりほっぺたを叩かれたことを思い出した。「お? おう」 とりあえず私の口調が静かになったと思ったのか、レグルスは相変わらず寝転んで空を見上げたまま返事をした。年に一度の、流れた星にお願いごとをするお祭りだ。その日、レグルスはただ一人きりで、木の上にのぼってお願いごとをした。

『家族が、欲しいなと』

 長い耳の先まで真っ赤にして、教えてくれたのはレグルスのお願いごとだ。

「ねえ、なんで家族が欲しいってお願いしたの?」

 ずっと一緒にいたのに、もしかすると聞いてはいけないことのような気がして、問いかけるのは初めてだった。レグルスが息を飲み込んだ音がしたから、しまった、と思ったのは一瞬だ。「俺はあの村で生まれたわけじゃないんだ」 ぽつりと溢れた彼の言葉に瞬いた。

「今よりも、もっとガキの頃、竜に村を滅ぼされた。死んじまったらお終いだ。そう言って、母さんたちは逃してくれたけれど、エルフなら喜んでこの身を差し出さなくちゃいけないはずだって知ったのは、今の村に来てからだよ」

 やっぱりお前が言うとおりに、ちょっと変わってたのかもな、と言った言葉は、以前私が尋ねたことだ。そんなつもりではなかった。なのに、もしかするとレグルスの心の一部を、少しばかりえぐってしまっていたのかもしれなかった。慌てて彼の手のひらを握ったまま声を出そうとしたのに、レグルスはそのまま続けた。

「人間の中にもちょっとばかり混じったこともあるよ。街の外だけど、長い間近くに住んでいたんだ。変化の魔法が少しばかりまともになったのは、あの頃のおかげだな」
「……あれでまともになってたの?」
「うるせえな」

 うっかり突っ込んでしまうと、レグルスは口元を尖らせて、ぷいと顔を向こうにした。今よりもずっと下手だったなんて、さぞ苦労したに違いない。「他のエルフの村がどこにあるかなんて知るわけなかったから、あそこに行き着いたのは偶然だったよ。多分、30年くらい前かな」 それでも、私が生きてきた年数よりもずっと長いけれど。ただ、レグルスは長い間、旅をしていたんだろう。

 子供みたいな姿で、いや、エルフとしてみれば子供であるのだと、彼はいつもそう言っていた。だから本当に子供だった。(人間は、嫌いじゃない……) 街の中で、レグルスはそう笑っていたけれど、きっと私が想像できないくらいに悲しいことや、辛いことがあったに違いない。それこそ、変化の魔法が下手くそであったならなおさらだ。

 なのにやっとこさエルフの村にたどり着いたくせに、レグルスはやっぱり一人きりで暮らしていた。そんな彼は、私と出会ったあの日、一体どんな気持ちで、楽しげなエルフ達から距離をおいて、星空に願ったんだろう。


「お前について来たのはさ、そりゃ、責任を感じたっていうのは嘘じゃないけど、見てられなかったんだ。一人きりの子供なんて、辛いだけだろう」


 ――――なんでって、お前、俺が見捨てたら一人っきりになるだろう

 なんで一緒について来てくれるのか。そう問いかけたとき、レグルスはあっけらかんとした顔をして、私にそういった。なんて大事なことを、簡単に言ってくれるひとなんだろう。びっくりして、嬉しくて涙が出てとまらなかった。

「ごめんな」

 擦りだしたようなレグルスの小さな声は、それ以上続かなかった。そんな彼を見て、私は何を思ったのか、自分でも驚くくらい簡単に不思議な言葉を告げていた。「ねえレグルス、私達、家族になろう」 言ったあと、あれっと片手で口元を押さえたら、レグルスだって私と同じような顔をしていた。これは妙なことを言った。そうわかっていたのに、どんどん言葉が続いてくる。困ったことに止まらない。

「レグルス、家族になろう。もちろん血なんてつながってないし、年も違うし、生まれた世界も違うけど。でもきっと、変じゃない。きっとそれは、変じゃない」

 最後は少しばかり声が震えてしまった。一人きりは怖かった。だから、二人きりになりたかった。頷いてほしかった。嫌だなんていわないでほしかった。お願いだから、ねえお願い。レグルスお願い。「……そうだな」 聞こえた声に、やっぱり泣きそうになってしまった。そのはずだったのに、勝手に口元がほころんで、ごろりと寝転がった草の感触までもがくすぐったくて、けらけらと笑ってしまった。

 レグルスだって、お腹を抱えて笑っていた。げらげらと二人で声を合わせる度に、お星さまがきらきらと輝いているようで不思議だった。その日はなかなか寝付くにも難しくて、手のひらを握ったまま、レグルスとたくさんの話をした。

 喚び人は、昔はもっとたくさんいたこと。100年に一度だけではなくて、いつでも、どこでもたくさんいた。
 じゃあ、その喚び人って一体何をしていたの。そう聞くと、みんな大神殿に喚ばれたらしいから、俺もよく知らない、とレグルスは言っていて、きっと丁重に扱われるに違いない、とたくさんの想像をしてみた。ふわふわのベッドをくれて、美味しいお菓子だって、お腹いっぱいにくれるに決まっている。

 そうかもな、と彼が笑えば、きっとそう、と返答した。でも、それでも私は帰るけどね、と言って、そりゃもちろん、とレグルスが頷く。

「レグルスは、二人目のお兄ちゃんでいいのかな。おじいちゃんだとかわいそうだし」
「かわいそうに思ってくれてありがとうよ」
「でも向こうのお兄ちゃんとは全然違うね。お兄ちゃんはせっかちだし。短気だし」
「兄貴だろ、もうちょっと褒めてやれよ」
「あとは足は速かったかな」
「性格じゃねえのかよ」

 そこはレグルスと一緒だね、と告げると、レグルスは少しばかり難しい顔をした。

「なあ、カナ。俺、本当は」

 少しばかり、レグルスは息を飲み込んだ。「……レグルス?」 奇妙な間だった。それからレグルスは、はは、といつも通りに笑った。「家族が欲しいって思ってやってきたら、カナみてえなチンクシャが来てすげえびっくりした」 思いっきりほっぺを伸ばしてやった。ふがふが言っている。

 一つ、小さな星がこぼれ落ちた。






 ――――それから、幾つかの季節が過ぎた。
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