拾われたパティシエールは愛に飢えた御曹司の無自覚な溺愛にお手上げです。
もやる気持ちを置き去りにして
『婚約者として、菜々子のことはこの俺が絶対に守る』
あの夜、桜小路さんに言われた言葉が今もこの耳に、心に、しっかりと刻み込まれている。
あの後、桜小路さんに食べさせてもらった、私の大好物のりんごのコンポートの、心に染み入るような、あの優しい甘さと一緒にーー。
それはまるで呪いの呪文のように、ことあるごとに鮮やかに蘇ってくる。
あの時、確かにキュンと胸がときめいたし。
恋愛ごとに疎い私でも分かるくらいにハッキリと聞こえた気だってした。
やっぱり桜小路さんの言うように、私は桜小路さんのことを好きになりかけているのかもしれない。
否、もしかしたらもう好きになってるのかもしれない。
といっても、こんなこと初めてでよく分からないっていうのが本音だけど。
仮にそうだとして、それを認めたからって、桜小路さんは私のことを人質としてしか思っていないんだから、この想いが報われることはない。
ーーそれを分かっていて、認められっこない。
これまで通り、人質として、専属のパティシエールとして、自分の役目を果たしていくだけだ。
ただ厄介なのは、あの夜を境に、どういうわけか、ふたりきりになると、桜小路さんの言動までもが、少し柔らかくなって、本物の婚約者に向けるようなものになっていることだった。
桜小路さん曰く、ご当主や継母の目を欺くための雰囲気作りのため、であり。
自分のことを好きになりかけている私のことをもっともっと好きにさせて、自覚させるため、らしいのだが……。
諸々の事情により、自分の気持ちを認めるわけにはいかない私にとっては、迷惑極まりないことでしかなかった。
その上、無自覚なのかなんなのか、前に言ってたように、使用人に対する独占欲からか、時折不意打ちのように、嫉妬を思わせるような言動で、私のことを惑わせ、もやらせるのだから、質が悪い。
胸の内でことあるごとに、そうやって毒づいてはいるものの、私の作ったスイーツを食べている桜小路さんの、あの蕩けるように幸せそうな表情を目の当たりにしてしまうと、どうでも良くなってしまうのだから、困りものだ。
ーーやっぱりイケメン最強。悔しいけど、敵う気がしない。
こうしてあの夜を境に、寝起きの悪い桜小路さんの無愛想かつ不機嫌極まりない言動が朝限定となってから、もやりにもやっている私のことなんて置き去りにして、早いものでもうすぐ一ヶ月を迎えようとしている。
その間、菱沼さんは、相変わらず毒舌で、私のことを『チビ』呼ばわりだし。
愛梨さんは愛梨さんで。
『早く可愛い孫の顔が見たいわぁ』
『創に似てもメチャクチャ可愛いだろうし。菜々子ちゃんみたいに元気で明るいと、家の中がパーッと明るくなっていいわねぇ』
『もう今からでもいいのよ。頑張ってね、菜々子ちゃん』
私が人質だということも、これが偽装結婚だということも、すっかり忘れて、毎日すっかり浮かれモードで。
そのたびに、私は『ハァー』とそれはそれは盛大な溜息を垂れ流していたのだった。