拾われたパティシエールは愛に飢えた御曹司の無自覚な溺愛にお手上げです。
「問題がないようでしたら、こちらの書類にサインで結構ですので……といいましても無理でしょうから、拇印だけ頂戴してもよろしいですか?」
「はい」
全ての説明を聞き終えた私は、何の躊躇も疑いもなく、菱沼さんの手助けにより数枚の書類に拇印をしっかりと押したのだった。
私が菱沼さんから説明を受けていた間、桜小路さんと水槽の亀がどうしていたかといえば……
やけに豪華な病室だと思っていたら、さすがは桜小路グループの御曹司。
桜小路さんのポケットマネーで、要人などが使用するというVIP専用の個室を手配してもらっていたらしい。
そんなVIPな個室のベッドの傍に設《しつら》えられているこれまた上質そうな応接セットで優雅にくつろぎつつ、ずっと飽きもせずに、テーブルに置いた水槽の中のカメ吉のことを眺めていた桜小路さん。
初見が初見だったために今の今までちゃんと見るような余裕なんてなかったけれど。
見るからに上質そうなおそらくオーダーメイドであろうダークグレーのスリーピーススーツといい。
マスク越しでもだだ漏れのイケメンフェイスに、おそらくジム通いで鍛えたのだろうスーツ越しでも分かる精悍な体付きをした体躯といい。
さすがは日本最大の財閥系企業の御曹司。
少々口と態度は悪いようだけれど、それを除けば、どれをとっても超一流で、たとえるなら歩く上流階級って感じだ。
生まれてこの方、平々凡々の一般庶民だった私は、御曹司と呼ばれる人と関わり合いになったことなど一度もなかったけれど……。
これから私の雇い主となる桜小路さんは、どうやら何事もマイペースで、ちょっと変わった人なのかもしれない。
この時の私は、就活からも住まいの心配からも開放されたせいか、暢気にそんなことを思っていたのだった。