拾われたパティシエールは愛に飢えた御曹司の無自覚な溺愛にお手上げです。
胸は苦しいし、桜小路さんが私のことを見下ろしているせいで、顔が翳っていて、どんな表情をしているかも窺い知ることはできない。
お陰で、羞恥よりも恐怖心のほうが遙かに上回っている。
再びギュッと瞼を強く閉ざした刹那、桜小路さんの顔が首元に埋められる気配がして。
「そんなに怯えなくても、今すぐ襲ったりしないから安心しろ」
無意識に肩を竦めて縮こまった私の耳に、桜小路さんのお決まりの台詞が流れ込んでくるのだった。
それと同時に、そうっと優しく額から頭にかけて髪を優しく撫でるような感触が伝わってくる。
ゆっくりと目を見開いた先には、相変わらず桜小路さんの超どアップのイケメンフェイスがあって、私のことを優しい眼差しで見下ろしていた。
ただそれだけのことなのに、あんまり見慣れていないせいかなんなのか、未だ組み敷かれていて状況は大して変わらないのに、不思議と恐怖心が薄れていくような気がするのはどうしてだろうか。
ふと浮かんだ疑問を考える猶予もなく、たちまち私の顔から全身にかけてが熱を帯びて、滾るように熱くなっていく。
胸の鼓動は、最早止まってしまうんじゃないかと案じてしまうほど、激しく暴れ回っている。
そこへ桜小路さんは、追い打ちでもかけるようにして、
「お前は免疫どころか、誰かを好きになったことさえないようだな」
的確にズバズバッと図星をついてきたのだった。
ーーそうですよ。その通りですよ。悪かったですね。何もかも未経験で。
当然、バカにされたとしか思えなかった私が憤慨して鼻息荒く、
「そ、それくらい、ありますよ……」
負けじと声を放つも、嘘をついた罪悪感から、その声はだんだん尻すぼみになっていく。
実際、好きな人どころか異性の友達さえ居たことがなかった。
唯一、身近に居た異性といえば、五つ上の従兄(伯母の一人息子)の恭平《きょうへい》兄ちゃんくらいだ。
年も離れていたこともあり、小さい頃からよく面倒を見て貰っていたし、色々相談にものってくれていたため、昔から何かと頼りにしていた。
私にとって従兄と言うよりは本当のお兄ちゃんのような存在だった。
異性として意識したことなんて、ただの一度もない。
ちなみに、恭平兄ちゃんはパティスリー藤倉の看板娘ならぬ看板パティシエだ。
勿論、パティシエとしての腕も良いが、見かけも所謂イケメンで、以前から女性客に絶大な人気があった。
話は戻って……。
私の放った言葉なんて、どうせでまかせだと聞き流してくれるだろう。
そう思っていた私の目論見は、すぐに打ち砕かれることになる。
「へぇ、あるのか。それはいつのことだ?」
そんな嘘が通用するか、全部お見通しだぞ。悔しかったら何か言ってみろ。
とでもいうような気持ちが、見え見えな桜小路さんの問いかけに、ムッとしてしまった私は、
「ち、小さい頃ですけど、従兄の恭平兄ちゃんです」
つい見栄を張って、真っ赤な嘘を放ってしまうのだった。
途端に、さっきまで余裕をかましてたはずの桜小路さんの顔が、みるみる鬼のような形相へと豹変し、
「もしかして、パティスリー藤倉の、あの、若いパティシエのことを言ってるのか?」
次いで、怒気を孕んだような凄みのあるひっくい声音が轟いた。
その口ぶりからして、どうやら心当たりがあるようだけれど、どうしてこんなに怒っているんだろうか。
……今日店に寄ったと言っていたし、もしかして、恭平兄ちゃんと何かあったのかな?
理由はよく分からないけれど、どうやら私の放ってしまった言葉が失言だったことだけは間違いないらしい。