ブアメードの血
21
池田敬はうんざりしていた。
大学を出た後、しっかりと静の温もりを背中に感じ、大型スクーターで事務所に向った。
別れた彼女のヘルメットをまだ持っていて大正解だった。
池田は浮かれ、しみじみ思いながら、事務所に戻ったまでは良かった。
今は、預かったブルーレイディスクを自分のパソコンに入れ、静"たち"と一緒に動画を見始めたところだ。
"たち"というのは、もう一人、探偵の中津だった。
黒いパンツスーツに、丸首の白いインナー、後ろで結った髪。
事務所では、池田の一年先輩にあたる。
ただ、その後、池田が所長になったのが気に喰わないのか、何かとつっかかってくる存在だ。
さきほども帰ってくるなり案の定、静が持って入ったジェットヘルメットを見て
「それは、彼女さんのでは?」
と訊いてきた。
「しっ、それ言うなよ。いいじゃないか、別に」
別れたとはいえ、彼女のことを静に聞かれたくない池田は小声ながらも、表情をきつくした。
「他の女の匂いって、わかりますよ。
彼女さんに怒られるのではないでしょうか」
「こ、声がでかいんだよ。
…彼女とは…別れた」
静に前の彼女のことがばれた池田は、こうなったら逆に今はいないことのアピールも兼ねて自白した。
「別れた?別れた女のものをまだ持っていたんですか」
「女のものって、これは俺が買ったんだ。人の勝手だろう。
それに、君たちには、別れた、というのが、言い辛くてね。
ヘルメットを持ってなければないで、目ざとい君たちにすぐ、ばれる。
それに今回のように、役に立ったし」
「意外と見栄っ張りなんですね」
「…」
そんな会話の後に、頼んでもいないのに、中津は池田と静の後ろに腕組みをして立ち、監視するように覗きこんでいる。
池田の目線の先にいる事務員の木塚は、その様子に好奇の眼差しを向けていた。
「これは…女?!ですか?」
池田が戸惑ったのは、拷問すると言った人物が女だったからだ。
手術帽とマスクの隙間から覗く目元、胸の膨らみは、女性のそれだった。
「…のようですね。
それが何か?」
中津はそれほど驚かずに言った。
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
静はきょとんとしている。
「なるほど、所長は相変わらず、ステレオタイプですね。
医者と聞いて、男と思ったと。
私みたいに女の探偵も居れば、女性のパイロット、刑事に消防士も居るのが世の中です」
中津がつれなく言った。
「い、いや、確認だよ、確認」
<ああ、図星だよ。確かに俺の偏見かもしれないが、その言い方、なんとかならんかね>
浮かれた気分を消し飛ばされた池田は、そんな思いが顔に出たものの、口には出さなかった。
動画をさらに見続ける。
<声と見た目のギャップが激しいな。
歳は三十前後に見えるが、女にしては声がかなり低く、かすれ具合は六十以上と言ってもおかしくない。
調べてみないと断定はできないが、アテレコでもないようだし、ボイスチェンジのエフェクトもかかっていないか…>
「わざとこんな声を出して、素性を明かさないようにしているんですかね?」
頭を掻いて考える池田に静が訊いた。
「ああ、なるほど、そういう考え方もできますね。
しかし、こいつが本当にお兄さんを誘拐したとして、なぜ、一年半近く経って、こんな映像を映研に送り付けたのか…
自分の正体がばれるリスクがあると言うのに」
池田は肩肘を付き、鼻の下に人差し指の付根辺りをやってさらに考える。
「きゃあーー!!…ぁぁっ!…」
という悲鳴と共に、画面に恐ろしい女の顔が突然現れた。
「うわあああ!」
池田は驚嘆して、椅子から転げ落ちそうになった。
「あはは!っはは…あ、すみません。
ここだけは演出のようです…」
池田の様子を見て笑った静が、慌てて説明した。
中津の方は右手の人差し指の付け根を鼻に当て、笑いを堪えているようだ。
「そういうことは早めに言っておいていただかないと…」
池田は恥ずかしさで顔を赤らめながら、そそくさと椅子に座り直した。
<何だよ、この動画、驚かしやがって。
ただ、今の部分以外は、確かに妙なリアリティがあるな。
静ちゃんが演技じゃないというのも頷ける。
もし、この動画が本当に一志君を誘拐したものとすれば、この医者とか科学者とか名乗っている女は何者なんだ?
ウィルスや薬のことにやけに詳しそうだが…
そうだ、静ちゃんのお父さんは遺伝子工学者…同じ分野かどうかしらんが、訊いてみたら…
ああ、そうか、静ちゃんはご両親と今、上手くいっていないのか…>
そう池田が考えていると、
「あ!思い出しました!ここです」
と静が大きな声を上げた。
池田は一時停止ボタンをクリックして、動画を止める。
その場面は、一志が医者の正体を尋ねたシーンだった。
「兄が今言った、なんとか先生って、聞こえなかったですよね。
おかしいと思いません?」
「確かに、セリフが消されていた…」
中津が呟いた。
「だから、セリフじゃありません!これは演技じゃないんで」
静の言葉に中津は、ふん、と顎を上げる。
「あ、そうだね、これが仮にセリフなら、適当な名前を言えば良かったのに、なんで消したんだろう」
池田は動画を少し戻して、もう一度、問題のセリフを再生する。
「リアルさを出すためとか?」
中津がまた口を挟んだ。
「映像だけで十分リアルさは伝わってきますし、これは本当の意味でリアルですし…そうだ!
この部分はきっと、犯人にとっては知られちゃ困ることなんですよ」
静が思いついたように推理する。
「知られちゃ困る?何かの手がかりになりそうですかね?」
池田が静の横顔に訊いた。
「そう言われれば…手がかりになるかも!
兄は、流れからいうと、この言葉で犯人の正体を探ってますよね。
だから、自分が実際に行ったことがある病院の先生の名前を出したはずで…
しかも、犯人はその病院の先生を知っている素振りです。
ということは…逆にその先生を当たれば、犯人の正体に辿り着けるかもしれません」
静は画面を見つめたまま、うれしそうに眼を輝かせる。
「中々の名推理ですね」
「誰でも、それくらいは思い付くのでは」
池田の褒め言葉に中津がまた、感じ悪く言葉をかぶせてきた。
「それに本当にお兄さんが誘拐された映像という前提で見るおつもりですか?」
「まあな。少しでも可能性があることは潰しておかないと。
それに今できることはこの映像を解析することだけだ」
池田はそう言って椅子に座り直し、さらに顔を画面に近付ける。
「私は間違いなくこれが兄だと確信しています。
それより、この声に似たお医者さんを探していただけませんか?」
静は真剣な面持ちで頼んだ。
「そうですね…お兄さんは声だけを頼りに犯人を推測した…
ということは、静さんの言うように犯人が声色を変えていたとしても、少なくとも、そんな声の医者がいるということですよね」
「そういうことになるでしょうか」
静が池田に視線を移す。
「それなら、この消されている医者の名前に心当たりはありますか?」
「え、そうですね…うーん、実家にいる時はかかりつけってほどではないですけど、よく診てもらってた病院がありますが、そこの先生はこんな声ではないですし…
ああ、そう言えば、兄のアパートの近くに、勝元内科とかいう病院があったと思います。
そこの先生が女医さんかどうかまでは知りませんけど、何度か風邪とかで診てもらったんじゃないかと…
たぶんですけど、それくらいしか記憶はありません」
池田はすぐに、目の前のパソコン画面をブラウザに切り替え、検索欄に文字を打ち込む。
「…勝元内科、勝元内科…と、これかな。ただ、勝元…智親、か。男だから違うかな…
ま、近くの病院から、女医で絞って探してみましょう」
池田は更にキーボードをたたく。
「この、小池っていう皮膚科、お兄さんのアパートからは少し離れていますが、医院長が女性です」
「皮膚科ですか。
兄は少しアトピーがありましたので、行っていてもおかしくありませんが」
「それだ。じゃあ、行きましょう」
「え、今からですか。
まだ、動画は終わっていないですし…」
「動画は帰ってからでも見れます。
今五時半過ぎてますから、もう少しで閉店です。
急がないと」
「閉院ですね」
中津が無愛想に訂正した。
「じゃあ、行ってみますか」
「善は急げ、です」
「所長の場合、急がば回れ、で、お願いします。
私も同行しますので、車で行きましょう。
依頼人をバイクに乗せるのは、危険ですし」
「言っただろう。この件は俺一人でやるって。
君はもう、あがればいい。
そろそろ時間だ」
「残業代はいただかなくて、結構です。
私は、この件に興味が出てきただけなんで。
それにアポが必要なのでは?」
「はいはい。
じゃあ、この、小池皮膚科クリニックってとこ、すぐアポとってよ」
「それは、所長がお願いします。
私はあくまでサービス残業ですので、余計な仕事はいたしません」
「ったく、勝手な」
池田は、画面から電話番号を見つけ、事務所のコードレスフォンをとって電話をかけた。
電話相手に、最初は勢いよく説明していた池田だが、電話の相手が変わったとたん、急に大人しくなる。
「…はい、はい、すみません。
どうやら、こちらの早とちりだったようで…はい、失礼しますー、どうもー」
受話器をゆっくりと置く。
「どうやら、ここは違うらしい。
小池先生本人に出てもらったが、声が丸っきり違う」
その後は、仕方なくと中津も加わり、一志のアパートを中心に何件か病院を当たったが、かすれた声の持ち主はいなかった。
「はあ、兄はどこの病院に行ってたんでしょう。
それとも、私の推理が間違ってるのかな」
静は自分のスマートフォンで、まだ病院を探しながら、ため息を付く。
「うーん、今電話したどれかの先生が、風邪か何かでかすれた声の時に、お兄さんが病院に行ったんですかね」
池田は、落胆を隠せず、声も小さくなっている。
「所長お得意のテクニックとやらで、消された音声をどうにか復元できないんですか」
中津がまた嫌味っぽく訊いた。
「無理無理。なんでも、ちょちょいのちょいとは、いかないよ。
元々、ないデータだからな。
ん、待てよ、これはマスターじゃなくて、編集して複製されたものだ。
ちょっと、坂辻部長に元の映像はどうだったか訊いてみよう」
当然の疑問に、二人も賛同し、池田は坂辻に電話をした。
坂辻が言うには、元の映像の時点でその部分には音声が入っておらず、実際にある病院名とわかったので、削ったのではと推測していた、とのこと。
「…使えない所長もこう言っておりますし、もう六時を過ぎて、ほとんどの病院が閉院する時間です。
こうなったら、一旦、お引き取りいただいて、家で過去の診療記録を探してみてください。
お兄さんが入っている保険協会から診療費のお知らせとして毎年来ているはずですから。
それを見れば、お兄さんが行かれた病院が絞れます」
中津が静に提案した。
「そうだな、どの道、この時間じゃあ、明日以降でないとアポがとれないかもしれない。
残念ですが、そうしていただけますか」
「残念なのは、佐藤さんをバイクの後ろに乗せられないことではないんでしょうか?」
中津が冷たく言った。
「なんてことを言うんだ、静さんの前で!
そんなことは一言も言ってないだろう、そもそも君は車で行こうと…」
池田が核心を突かれ、顔を真っ赤にして抗議する。
「図星だと、顔に書いてあります」
「やれやれ、全く。
また始まりましたか」
閉口する木塚と、あっけにとられる静を横目に、池田と中津の掛け合いはしばらく続いた。
「…そうですね、恋は盲目とは言い過ぎました。ただの下心だと…」
中津がそう言ったとたん、池田の顔色が変わり、眉間に皺を寄せて何か考え始める。
悪態をついていた中津は、池田の様子に言いかけた口を閉じた。
「…盲目…あの、そもそも、お兄さんが医者を間違えたのは、私が間違えたように、この医者を男だと思ったからでは?」
「え?」
静が急に質問を向けられ、きょとんとして、次の池田の言葉を待つ。
「だから、私たちはこの医者が見えるから、女性とわかりますよ。
でも、お兄さんは黒い袋を被って前が見えなかった。
だとしたら、声で相手を判断するしかない。
で、その声は…たまにいますよね、この程度の甲高い声の男の人、かすれているから余計に男か女かわかりづらい。
そして、医者、科学者、拷問という犯罪を起こす人間…私が間違ったのと同じ、相手を男と錯覚しても無理はないかと」
「何度も自分が間違ったことを弁解するのは余計ですが…それはあるかもしれませんね」
中津が感心する思いを隠して言った。
「そう…そうですよ!
この犯人も、兄の言葉が意外とも取れる感じで答えてますし!」
「だとすると、最初の…勝元とかいう内科だっけ、きっと、そこだ!」
「結局、これも所長の勘違いですよね。
一志さんが間違った医者も女医だと思ったのが、遠回りの原因…」
池田はまだ嫌味を言う中津を無視して、すぐにマウスを操作し、先ほど調べた画面を出した。
ここの閉院は六時半まで、まだ時間がある。
電話をした池田の顔は一気に明るくなった。
その表情を見て、ここで間違いないと、静と中津も確信する。
ビンゴ!とでも言いたげに、池田は親指を立てた。
大学を出た後、しっかりと静の温もりを背中に感じ、大型スクーターで事務所に向った。
別れた彼女のヘルメットをまだ持っていて大正解だった。
池田は浮かれ、しみじみ思いながら、事務所に戻ったまでは良かった。
今は、預かったブルーレイディスクを自分のパソコンに入れ、静"たち"と一緒に動画を見始めたところだ。
"たち"というのは、もう一人、探偵の中津だった。
黒いパンツスーツに、丸首の白いインナー、後ろで結った髪。
事務所では、池田の一年先輩にあたる。
ただ、その後、池田が所長になったのが気に喰わないのか、何かとつっかかってくる存在だ。
さきほども帰ってくるなり案の定、静が持って入ったジェットヘルメットを見て
「それは、彼女さんのでは?」
と訊いてきた。
「しっ、それ言うなよ。いいじゃないか、別に」
別れたとはいえ、彼女のことを静に聞かれたくない池田は小声ながらも、表情をきつくした。
「他の女の匂いって、わかりますよ。
彼女さんに怒られるのではないでしょうか」
「こ、声がでかいんだよ。
…彼女とは…別れた」
静に前の彼女のことがばれた池田は、こうなったら逆に今はいないことのアピールも兼ねて自白した。
「別れた?別れた女のものをまだ持っていたんですか」
「女のものって、これは俺が買ったんだ。人の勝手だろう。
それに、君たちには、別れた、というのが、言い辛くてね。
ヘルメットを持ってなければないで、目ざとい君たちにすぐ、ばれる。
それに今回のように、役に立ったし」
「意外と見栄っ張りなんですね」
「…」
そんな会話の後に、頼んでもいないのに、中津は池田と静の後ろに腕組みをして立ち、監視するように覗きこんでいる。
池田の目線の先にいる事務員の木塚は、その様子に好奇の眼差しを向けていた。
「これは…女?!ですか?」
池田が戸惑ったのは、拷問すると言った人物が女だったからだ。
手術帽とマスクの隙間から覗く目元、胸の膨らみは、女性のそれだった。
「…のようですね。
それが何か?」
中津はそれほど驚かずに言った。
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
静はきょとんとしている。
「なるほど、所長は相変わらず、ステレオタイプですね。
医者と聞いて、男と思ったと。
私みたいに女の探偵も居れば、女性のパイロット、刑事に消防士も居るのが世の中です」
中津がつれなく言った。
「い、いや、確認だよ、確認」
<ああ、図星だよ。確かに俺の偏見かもしれないが、その言い方、なんとかならんかね>
浮かれた気分を消し飛ばされた池田は、そんな思いが顔に出たものの、口には出さなかった。
動画をさらに見続ける。
<声と見た目のギャップが激しいな。
歳は三十前後に見えるが、女にしては声がかなり低く、かすれ具合は六十以上と言ってもおかしくない。
調べてみないと断定はできないが、アテレコでもないようだし、ボイスチェンジのエフェクトもかかっていないか…>
「わざとこんな声を出して、素性を明かさないようにしているんですかね?」
頭を掻いて考える池田に静が訊いた。
「ああ、なるほど、そういう考え方もできますね。
しかし、こいつが本当にお兄さんを誘拐したとして、なぜ、一年半近く経って、こんな映像を映研に送り付けたのか…
自分の正体がばれるリスクがあると言うのに」
池田は肩肘を付き、鼻の下に人差し指の付根辺りをやってさらに考える。
「きゃあーー!!…ぁぁっ!…」
という悲鳴と共に、画面に恐ろしい女の顔が突然現れた。
「うわあああ!」
池田は驚嘆して、椅子から転げ落ちそうになった。
「あはは!っはは…あ、すみません。
ここだけは演出のようです…」
池田の様子を見て笑った静が、慌てて説明した。
中津の方は右手の人差し指の付け根を鼻に当て、笑いを堪えているようだ。
「そういうことは早めに言っておいていただかないと…」
池田は恥ずかしさで顔を赤らめながら、そそくさと椅子に座り直した。
<何だよ、この動画、驚かしやがって。
ただ、今の部分以外は、確かに妙なリアリティがあるな。
静ちゃんが演技じゃないというのも頷ける。
もし、この動画が本当に一志君を誘拐したものとすれば、この医者とか科学者とか名乗っている女は何者なんだ?
ウィルスや薬のことにやけに詳しそうだが…
そうだ、静ちゃんのお父さんは遺伝子工学者…同じ分野かどうかしらんが、訊いてみたら…
ああ、そうか、静ちゃんはご両親と今、上手くいっていないのか…>
そう池田が考えていると、
「あ!思い出しました!ここです」
と静が大きな声を上げた。
池田は一時停止ボタンをクリックして、動画を止める。
その場面は、一志が医者の正体を尋ねたシーンだった。
「兄が今言った、なんとか先生って、聞こえなかったですよね。
おかしいと思いません?」
「確かに、セリフが消されていた…」
中津が呟いた。
「だから、セリフじゃありません!これは演技じゃないんで」
静の言葉に中津は、ふん、と顎を上げる。
「あ、そうだね、これが仮にセリフなら、適当な名前を言えば良かったのに、なんで消したんだろう」
池田は動画を少し戻して、もう一度、問題のセリフを再生する。
「リアルさを出すためとか?」
中津がまた口を挟んだ。
「映像だけで十分リアルさは伝わってきますし、これは本当の意味でリアルですし…そうだ!
この部分はきっと、犯人にとっては知られちゃ困ることなんですよ」
静が思いついたように推理する。
「知られちゃ困る?何かの手がかりになりそうですかね?」
池田が静の横顔に訊いた。
「そう言われれば…手がかりになるかも!
兄は、流れからいうと、この言葉で犯人の正体を探ってますよね。
だから、自分が実際に行ったことがある病院の先生の名前を出したはずで…
しかも、犯人はその病院の先生を知っている素振りです。
ということは…逆にその先生を当たれば、犯人の正体に辿り着けるかもしれません」
静は画面を見つめたまま、うれしそうに眼を輝かせる。
「中々の名推理ですね」
「誰でも、それくらいは思い付くのでは」
池田の褒め言葉に中津がまた、感じ悪く言葉をかぶせてきた。
「それに本当にお兄さんが誘拐された映像という前提で見るおつもりですか?」
「まあな。少しでも可能性があることは潰しておかないと。
それに今できることはこの映像を解析することだけだ」
池田はそう言って椅子に座り直し、さらに顔を画面に近付ける。
「私は間違いなくこれが兄だと確信しています。
それより、この声に似たお医者さんを探していただけませんか?」
静は真剣な面持ちで頼んだ。
「そうですね…お兄さんは声だけを頼りに犯人を推測した…
ということは、静さんの言うように犯人が声色を変えていたとしても、少なくとも、そんな声の医者がいるということですよね」
「そういうことになるでしょうか」
静が池田に視線を移す。
「それなら、この消されている医者の名前に心当たりはありますか?」
「え、そうですね…うーん、実家にいる時はかかりつけってほどではないですけど、よく診てもらってた病院がありますが、そこの先生はこんな声ではないですし…
ああ、そう言えば、兄のアパートの近くに、勝元内科とかいう病院があったと思います。
そこの先生が女医さんかどうかまでは知りませんけど、何度か風邪とかで診てもらったんじゃないかと…
たぶんですけど、それくらいしか記憶はありません」
池田はすぐに、目の前のパソコン画面をブラウザに切り替え、検索欄に文字を打ち込む。
「…勝元内科、勝元内科…と、これかな。ただ、勝元…智親、か。男だから違うかな…
ま、近くの病院から、女医で絞って探してみましょう」
池田は更にキーボードをたたく。
「この、小池っていう皮膚科、お兄さんのアパートからは少し離れていますが、医院長が女性です」
「皮膚科ですか。
兄は少しアトピーがありましたので、行っていてもおかしくありませんが」
「それだ。じゃあ、行きましょう」
「え、今からですか。
まだ、動画は終わっていないですし…」
「動画は帰ってからでも見れます。
今五時半過ぎてますから、もう少しで閉店です。
急がないと」
「閉院ですね」
中津が無愛想に訂正した。
「じゃあ、行ってみますか」
「善は急げ、です」
「所長の場合、急がば回れ、で、お願いします。
私も同行しますので、車で行きましょう。
依頼人をバイクに乗せるのは、危険ですし」
「言っただろう。この件は俺一人でやるって。
君はもう、あがればいい。
そろそろ時間だ」
「残業代はいただかなくて、結構です。
私は、この件に興味が出てきただけなんで。
それにアポが必要なのでは?」
「はいはい。
じゃあ、この、小池皮膚科クリニックってとこ、すぐアポとってよ」
「それは、所長がお願いします。
私はあくまでサービス残業ですので、余計な仕事はいたしません」
「ったく、勝手な」
池田は、画面から電話番号を見つけ、事務所のコードレスフォンをとって電話をかけた。
電話相手に、最初は勢いよく説明していた池田だが、電話の相手が変わったとたん、急に大人しくなる。
「…はい、はい、すみません。
どうやら、こちらの早とちりだったようで…はい、失礼しますー、どうもー」
受話器をゆっくりと置く。
「どうやら、ここは違うらしい。
小池先生本人に出てもらったが、声が丸っきり違う」
その後は、仕方なくと中津も加わり、一志のアパートを中心に何件か病院を当たったが、かすれた声の持ち主はいなかった。
「はあ、兄はどこの病院に行ってたんでしょう。
それとも、私の推理が間違ってるのかな」
静は自分のスマートフォンで、まだ病院を探しながら、ため息を付く。
「うーん、今電話したどれかの先生が、風邪か何かでかすれた声の時に、お兄さんが病院に行ったんですかね」
池田は、落胆を隠せず、声も小さくなっている。
「所長お得意のテクニックとやらで、消された音声をどうにか復元できないんですか」
中津がまた嫌味っぽく訊いた。
「無理無理。なんでも、ちょちょいのちょいとは、いかないよ。
元々、ないデータだからな。
ん、待てよ、これはマスターじゃなくて、編集して複製されたものだ。
ちょっと、坂辻部長に元の映像はどうだったか訊いてみよう」
当然の疑問に、二人も賛同し、池田は坂辻に電話をした。
坂辻が言うには、元の映像の時点でその部分には音声が入っておらず、実際にある病院名とわかったので、削ったのではと推測していた、とのこと。
「…使えない所長もこう言っておりますし、もう六時を過ぎて、ほとんどの病院が閉院する時間です。
こうなったら、一旦、お引き取りいただいて、家で過去の診療記録を探してみてください。
お兄さんが入っている保険協会から診療費のお知らせとして毎年来ているはずですから。
それを見れば、お兄さんが行かれた病院が絞れます」
中津が静に提案した。
「そうだな、どの道、この時間じゃあ、明日以降でないとアポがとれないかもしれない。
残念ですが、そうしていただけますか」
「残念なのは、佐藤さんをバイクの後ろに乗せられないことではないんでしょうか?」
中津が冷たく言った。
「なんてことを言うんだ、静さんの前で!
そんなことは一言も言ってないだろう、そもそも君は車で行こうと…」
池田が核心を突かれ、顔を真っ赤にして抗議する。
「図星だと、顔に書いてあります」
「やれやれ、全く。
また始まりましたか」
閉口する木塚と、あっけにとられる静を横目に、池田と中津の掛け合いはしばらく続いた。
「…そうですね、恋は盲目とは言い過ぎました。ただの下心だと…」
中津がそう言ったとたん、池田の顔色が変わり、眉間に皺を寄せて何か考え始める。
悪態をついていた中津は、池田の様子に言いかけた口を閉じた。
「…盲目…あの、そもそも、お兄さんが医者を間違えたのは、私が間違えたように、この医者を男だと思ったからでは?」
「え?」
静が急に質問を向けられ、きょとんとして、次の池田の言葉を待つ。
「だから、私たちはこの医者が見えるから、女性とわかりますよ。
でも、お兄さんは黒い袋を被って前が見えなかった。
だとしたら、声で相手を判断するしかない。
で、その声は…たまにいますよね、この程度の甲高い声の男の人、かすれているから余計に男か女かわかりづらい。
そして、医者、科学者、拷問という犯罪を起こす人間…私が間違ったのと同じ、相手を男と錯覚しても無理はないかと」
「何度も自分が間違ったことを弁解するのは余計ですが…それはあるかもしれませんね」
中津が感心する思いを隠して言った。
「そう…そうですよ!
この犯人も、兄の言葉が意外とも取れる感じで答えてますし!」
「だとすると、最初の…勝元とかいう内科だっけ、きっと、そこだ!」
「結局、これも所長の勘違いですよね。
一志さんが間違った医者も女医だと思ったのが、遠回りの原因…」
池田はまだ嫌味を言う中津を無視して、すぐにマウスを操作し、先ほど調べた画面を出した。
ここの閉院は六時半まで、まだ時間がある。
電話をした池田の顔は一気に明るくなった。
その表情を見て、ここで間違いないと、静と中津も確信する。
ビンゴ!とでも言いたげに、池田は親指を立てた。