ブアメードの血
28
八塚克哉はがっかりしていた。
今いるのは、有馬が住むアパート。
捜査車両で矢佐間と共に駆け付け、彼女の部屋の前まで来たところだ。
◇
今から一時間半前、警視庁に戻った時のこと。
八塚は聞き込み内容を整理した報告書を作成、矢佐間がそれを査読していた。
「この有馬って、確か、例の事件のホシと同じ苗字じゃないかい?ありふれた名前ではあるけど」
有馬の名前を見つけた矢佐間が訊いた。
「そう言われれば…」
八塚は、自分の机の上のパソコンで、矢佐間の言う事件のデータを呼び出した。
例の事件というのは、覚醒剤中毒者が女子高生を殺害したものだ。
自分たちが現在追っている件と結び付けて考えている事件である。
犯人は深夜に塾帰りの女子高生を路上で襲い、"噛む"という行為だけで殺害。
通報で駆け付けた警官が見たものは、顔のほとんどが噛みちぎられた無残な姿だった。
犯人はその警官も襲おうとして、最後は発砲され、死亡。
動機は不明のままだが、覚醒剤中毒であったため、幻覚などによって引き起こされた行動として片付けられていた。
「…そうですね、被疑者の名前は、やはり有馬です、有馬利真。
家族構成…はと、えー、離婚した妻と、一人娘がいた…
元妻は…零、娘は…マリア、同じ名前です!」
そうして、思わぬ所から繋がりを発見した二人は、有馬のアパートへと急行したのだった。
◇
「——聞き込みした際に聞いていた住所で合ってましたが、やはり、いないようですね。
家の電話番号にも嘘はありません。
確認のため、さっき電話したら中で鳴っていました。
管理人に訊いたところ、有馬は黒い高級車を所有しているようですが、それが駐車場にありません。
どこかに出かけているのでしょう」
有馬の部屋の前で待機していた矢佐間に、管理人室から戻って来た八塚がそう言った。
「携帯の番号は訊いてないのか」
「すみません、そっちの方は教えてくれなかったんで」
「そうなると、ますます怪しいね。
で、この大きさだと、やはり彼女は一人暮らし?」
「そのようです。管理人もこれまで他に出入りする人を見たことはないと」
「そうかあ。
まあ、母親が噛んでるかどうかまだわからないけど、どっちにしろ、有馬の家族の周りで似たような噛み付き事件が起こるのは偶然とは思えないんだよね。
調べる必要があるな」
「まあ、そうですが、とりあえずここ、どうします?」
八塚がマリアの部屋のドアノブを指差す。
「うーん、ガサ入れしたいところだけど、ガサ状なしはこのご時世、さすがにまずいからね…
それに実は今日、嫁さんの誕生日なんだよ。
この辺であがらせてもらいましょう」
「え?それは早く帰ってあげなきゃ。
今日のところは引き上げるしかなさそうですし、明日の朝、出直しましょうか」
そうして、二人が捜査車両に戻った時、八塚個人のスマートフォンのバイブが響いた。
池田からだ。
「もしもし、お疲れ、どうした」
「八塚、まだ働いているのか、今、どこだ?職場か?」
「なんだよ、まだ外だよ、ってちょうど、あがろうとしてたところだけどな」
「あの、急なんだが、今から会えないか?」
「え、うーん、疲れてるからなあ、電話じゃ駄目なのか?」
「ああ、そうか、仕方ないな。
それが俺、今ちょっとした、いや、本格的かもしれん事件に関わってしまったみたいでな、込み入った話なんだが」
「ああ、ちょっと待って。
矢佐間さん、すみません、車、運転してもらってもいいですか。
ちょっと、友達から、あ、池田って、さっき話しした探偵からなんですが、事件の情報持ってきたんですよ。
長電話になりそうなんで、ほんと、すみません」
「ふん、そういうことなら、構わないよ」
矢佐間は少し不満そうではあるが、八塚からキーを受け取った。
「それで?」
八塚は助手席に乗り込みながら、訊いた。
「取りあえず、今スマホ使えるか?」
「それなら、初めから俺のスマホじゃなく、仕事用の携帯にかけてくれよ。
ったく、ちょっと待って。
矢佐間さん何度もすみません。
スマホ、貸してもらえます?」
仕事用の携帯電話の支給はあるが、この時代、個人のスマートフォンの使用は黙認されていた。
「注文の多い部下だね、ほんと」
運転席に乗り込んだばかりの矢佐間はそう言いつつも、ジャケットの内ポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、手際良くパスワードを入力してロックを解除し、八塚に渡した。
「ありがとうございます。
…よし、大丈夫だ。
で、何をすればいいんだ?」
八塚は自分のスマートフォンを左側の顔と肩で挟み、矢佐間のスマートフォンを打てるように準備した。
「まず、ヨウツベを開いて…
ああ、そうだな、外国人をゾンビにしてみた、って検索してみてくれ」
「ゾンビ?なんだそりゃ?
事件と関係あるのか?」
矢佐間は八塚の言葉に反応し、興味を持ったのか、出しかけた車を停めて聞いている。
「大ありなんだよ。
とにかく、いいから、見てくれよ」
「ったく。…ゾンビにしてみた、と」
「いくつか候補が出ると思うが、フランス人編パート1ってあるのを選んでくれ」
「また変なタイトルだな…ああ、あった、これかな、フランス人編っと。
はい再生した、で、これなんなんだ?」
八塚は矢佐間にもスマートフォンの画面が見えるように持ち直した。
矢佐間は眼鏡を直して覗き込む。
画面には、真っ黒い部屋の中で、頭に黒い袋を被せられ、椅子に拘束された男らしき姿が映っていた。
「それはな、ふざけたタイトルだが、どうも本当にそのフランス人を誘拐して、そうやって拷問したものらしい」
「何!?マジか!」
「その説明欄にジョージ・クリスってあるんだが、ネットで検索してみると、一年くらい前に失踪したとニュースになっている。
これは本物の犯罪の可能性が高い」
「失踪中のフランス人、ジョージクリスだな?
それで、どうして、そう思う?
これが本物の犯罪という確証は?
そもそもなんでこの動画に辿り着いた?
お前、行方不明者の佐藤って奴を探してたんじゃないのか?」
八塚は矢佐間に電話の内容を説明するように、矢継ぎ早に質問した。
それから、矢佐間にも池田の話が聞こえるよう、自分のスマートフォンをスピーカーモードにする。
「ああ、よく知ってるなって、帝都薬科大学の映研から聞いたのか。
それなら話は早いが、その佐藤君ってのも、同じように誘拐されて動画に撮られてたんだよ。
その動画は、ヨウツベには見当たらないんだが、一か月ほど前に映研の方に送られてきていた」
「じゃあ、なぜ映研からすぐに警察に連絡してこなかった?
さっき行った時はそんなこと一つも言わなかったが、なんか疚しいことでもあるのか?」
「お前、さっきから、その刑事口調で責めるように言うのやめろよ」
「すまんな、癖だ、癖」
「順を追って説明するから、とにかく聞いてくれ。
先に映研に送られてきた動画は、差出人が映研のOBとなっていた。
で、学園祭で映研が毎年やってる上映会に使ってくれって、ポストに入れてあったそうだ。
映研の子たちは、それを真に受けて実際に上映した。
それが、この前の土日だ」
「なんだそれは?
だから、なぜ警察に知らせずに、そんなものを上映したんだ」
「いいから聞けって。
映研はそれまで、『恐怖の館』っていう幽霊もののホラー映画を制作していた。
それは、映画に出ていた幽霊がラストに上映会場へ飛び込んできて、来場者を驚かすっていう、まあ言わばドッキリものだったそうだ。
動画を送ってきた奴は、それを知っていたらしく、今度はゾンビが会場に飛び込んで来る設定にしろって、指示があった。
つまり、映研の子たちは、まさかその動画が本物の誘拐映像とは思ってもみなかった訳だよ。
これまでの流れを知っているんだからな、本当に先輩が送ってくれたと信じ込んでしまった」
池田は坂辻から頼まれたことは言わずに、フォローした。
「うーん、そういうことか。
しかし、よく、わからんな。
犯人はなぜそんな手の込んだことをしてまで、映画にさせたんだ?
そもそも、他の外国人の映像をなぜ今になってヨウツベなんかに…」
運転席で動画を見ながら聞き耳を立てている矢佐間が、八塚の疑問にうんうんと頷いた。
八塚はそれを見て、まんざらでもなさそうな顔をした。
「それは、俺にもわからん。
ただ、その映研に送られた動画に映って拷問を受けている人間が、今、俺が探している佐藤君のようなんだ。
で、佐藤君はその映研のOBであり、前の恐怖の館って映画の脚本を書いてもいる」
「ちょっと待てよ。
そいつも、犯人の一人…
いや、それなら、そもそもイタズラか何かじゃないのか?」
矢佐間はまたその言葉に頷き、煙草を取り出した。
「俺も最初はそう考えたが、それはまずない。
佐藤君は去年の五月に行方不明になっている。
表向きは借金による夜逃げってとこだが、そんな余裕のない人間がこんなことするとは、考えにくい。
しかも、よく調べてみると、夜逃げというのも、そう見えるように誰かが小細工した形跡があってな。
それに犯人ってか、その動画で拷問している人物は既に誰かわかっている」
「何!?なぜそれを早く言わない?」
八塚の言葉に同調して、矢佐間も目を見張る。
「順を追って話さんとわからんだろ?
じゃあ、そいつの名前から言うぞ。
名前は、岡嵜零って科学者で、元帝都大学客員研究員…あっ言っとくけど、女だぞ、女」
「あ?女ね。で、おかさきれいってどういう字だ?」
八塚はなぜ池田が、女と念を押すのか不思議に思いながら、訊いた。
「岡山の岡、"さき"は、上に山を書く嵜、で、零は漢数字の零、あのーあれだ、雨の下に命令の令って書く奴。
なんかアメリカ帰りの超エリートだとかで、遺伝子工学の世界では有名人だったそうだ」
「岡嵜零…零…」
矢佐間がゆっくり呟いて、まだ火を付けてなかった煙草をしまう。
「本当にそいつが犯人に間違いないのか?
どうして、そいつが犯人とわかった?」
八塚がそう訊いている間に、矢佐間は動画を閉じて、どこかに電話をかけ始めた。
「それが、まあいろいろあって、結局、依頼人が両親に動画を見せたら、すぐにわかったんだよ。
簡単に言うと、両親はその犯人と知り合いで、両親は逆恨みを買っていたそうだ。
経緯は端折るが、岡嵜の夫と子供が死んだのは、佐藤夫妻のせいだと思っているらしい。
だから、その息子を誘拐して拷問にかけた、と…」
「ああ?さっぱりわからないな。
なぜ、それが他の外国人も誘拐することに繋がるんだ?
それが本当だとしても、見るかどうかわからない映研なんかに送って上映するより、直接両親に動画を送りつけてればいい話だ。
あれ?でも、それじゃあ、そもそも自分が犯人とばれるに決まってる訳だし…」
八塚は、隣の矢佐間が電話で話していることも気になって、頭が整理できない。
「そこも俺にもさっぱりわからないことだよ。
特に、関係のなさそうな外国人まで誘拐しているとなると。
しかし、そっちで調べてみてもらえる話だろう?
見ての通り、顔はわからないから絶対とは言えんが、イタズラとしても、実際に失踪しているフランス人の名前を使ってるんだ。
たちが悪過ぎる。
なんらかのお咎めを食らわせんといかんだろう」
「まあ、そうだな。
とりあえず、サイバー犯罪対策課に回してみるよ。
俺は今、別のヤマを追っているところだ」
「殺人事件に繋がる可能性があるとしてもか?」
「死体が出なきゃ、事件にならんのは知っているだろう」
「誘拐としても、お前の課だろう」
「まだ、決まったわけじゃない」
「おい、わかっているのか?
一志君は実際にいなくなっているし、外国人の件まで本当なら大事件だ」
「俺に決められる話でもないだろう?
事件性は認めるが、誘拐かどうかは確証がないと、こっちも上に言えない…」
「いや、確証はあるね」
電話を終えた矢佐間が突然、大きな声で口を挟んできた。
「え、それはどういうことですか」
八塚が矢佐間の言葉に驚いて言った。
「え、誰だよ」
「俺の上司の矢佐間警部だ、スピーカーにして一緒に聴いている」
「ああ、どうも、探偵の池田と申します」
「矢佐間です。
池田さん、突然、割り込んで失礼します。
今、四年前の噛み付き事件の一担当者だった徳田警部補に電話したところでね」
「四年前の噛み付き事件?
昨日のニュースの件じゃなくて?」
「そうですが何か?」
「それなら、今言った映研の動画の中で、岡嵜がその事件のことらしい話をしていました」
「へえ、そうなんですか。
ここだけの話、我々は今回の噛み付き事件と四年前のそれとは、関連ありと見て調べています。
今の話で、それを確信しました。
徳田警部補は当時、被疑者の裏どりとして、それまでの素行が事件に結びつかないか聞き込みに当たっていたんですよ。
それで、零、という離婚相手にも当たろうとしたけど、当初見つからなかった」
「あっ!」
と八塚は言い、
「れい?」
と池田はその名前に反応した。
「そう、零。
で、今、徳田警部に尋ねたのは、彼女の旧姓。
答えは、岡嵜、でした。
池田さんから出た名前と一緒だね」
「マジか」
二人は同時に驚く。
「徳田は当初、被疑者の苗字、有馬で探したけど、見つからないので、戸籍を調べた」
「ありま?」
池田はその名前にも引っかかった。
「それで、零は有馬と再婚していて、数年後に離婚、それからは、元旦那の方の旧姓、岡嵜姓を名乗っているとわかった。
結局、連絡はついたそうだが、今は何も話すことはないと、取り付く島はなかったと。
まあ、立証事態は揺るぎないものだったし、別れてから数年も経っていたし。
元妻の証言はあくまで補完、無くても当然立件は可能。
で、事件はそのまま被疑者死亡で送検された」
矢佐間は少しオーバーに首をすくめた。
「あの、ちょっといいですか?有馬って名前、今出ましたけど、四年前の事件の方の犯人ですよね?」
「そうですが」
「その、さっき見せたヨウツベの動画、タイトルを見てもらえばわかるんですが、パート1となっています。
ということは、パート2があってもおかしくないのに、まだアップされていないのか、見当たらないんですよ。
そしたら、タレ込みっていうか、その情報をくれるって女子大生がいましてね、今から会うんですが…
その子の名前も有馬、これは偶然…」
「有馬マリアか!?」
八塚が大きな声を上げる。
矢佐間も驚きの表情を浮かべている。
「え?なぜ…その名前を…って、あ、そうか、今日聞き込みしたんだったな。
まさかその犯人の有馬の娘?」
「俺たちもそれに気付いてな。
今いるのが、話を聞こうとして来た彼女のアパートの駐車場だ。
留守だったから明日にしようって言ってたら、お前から電話がかかって」
「いやー、待て待て、ということは…だ。
有馬マリアは岡嵜零の娘ってことでもあるよな!?」
「そういうことだな」
「子供は死んだって…そうか、再婚した相手の子か…じゃあ、彼女も共犯?」
「その可能性は高い、ってか間違いないだろ」
「なんで彼女の方は有馬姓のままなんだ?」
「知るかよ、そんなことは。
子供だったら、名前が変わると面倒くさいとか…」
「んー、まあ、そんなところかもしれないが…
あ、そうだ、おい、今いるアパートってどこだ?」
「ん?港区の△△町だけど?」
「やっぱり。もしかして、ハイツ君田か」
「え?なんでわかるんだ?」
「ビンゴ。
行方不明の佐藤君が住んでいたアパートと一緒だ」
「え、まじか…こりゃ誘拐の実行犯は岡嵜じゃなくて、有馬ってことも…」
「女が男を誘拐、であれば、二人がかりと考えた方が自然でしょうね」
矢佐間が眼鏡を直しながら言った。
「それで、池田さん、その有馬と今から会うということですが、どこかで待ち合わせしてるんですか?
自分らも同行させていただきたい」
「えっと、多摩川台公園の東屋の下です。
実は、さっき会えないかと八塚に言ったのは、その場所で、って思ってたんです。
ぜひ、来てください。あっ、そうだ。
有馬は自分と話をしてから、警察に相談した方がいい、と言っていました。
パート2の情報を含めて、まとめて話した方が、効率がいいからって…
共犯とわかってから、その話を思い返すと、かなり怪しいですね。
もしかしたら、自白の可能性…?
あの口調からはそんなことは微塵も感じられなかったけど…」
「ああ、そうですね、相談してくれたのは賢明な判断です」
「で、矢佐間さん、ついでにもう一つ相談なんですが…」
「なんでしょう?」
「警察がいるとわかると、彼女に逃げられるかもしれないし、動画のパート2のことも聞けた方がいいと思うんで、一通り私が話を聞くのをどこか隠れて待っててもらってから、その後、任意同行なりなんなりで引っ張ってもらうってのはどうでしょうか?」
「うーん、それがいいかもしれませんね。
ただ、八時半ということであれば、もう、時間がないようです。
すぐに向かいましょう。
あとの話は現場に着いてからでも」
「了解です。
ただ、私はバイクで向かいますが、ブルートゥースフォンが使えるシステムヘルメットなんで、運転しながらでも話をしましょう」
「わかりました。では一旦切ります」
矢佐間は車を出した。
「矢佐間さん、いいんですか。
今日、奥さんの誕生日じゃあ…」
「そんなことより、すぐに課に電話して、事情の説明をして。
それから、岡嵜零と有馬マリアの照会、あとその二人の家宅捜索の礼状も!」
矢佐間は、矢継ぎ早に指示を出しながら、赤色灯とサイレンのスイッチを入れ、スピードを上げる。
「サイレン鳴らしてちゃあ、有馬に気付かれますよ。途中で切りますよね」
八塚は窓の上のアシストグリップをしっかり握りながら訊いた。
「当然」
矢佐間の運転は荒かった。
今いるのは、有馬が住むアパート。
捜査車両で矢佐間と共に駆け付け、彼女の部屋の前まで来たところだ。
◇
今から一時間半前、警視庁に戻った時のこと。
八塚は聞き込み内容を整理した報告書を作成、矢佐間がそれを査読していた。
「この有馬って、確か、例の事件のホシと同じ苗字じゃないかい?ありふれた名前ではあるけど」
有馬の名前を見つけた矢佐間が訊いた。
「そう言われれば…」
八塚は、自分の机の上のパソコンで、矢佐間の言う事件のデータを呼び出した。
例の事件というのは、覚醒剤中毒者が女子高生を殺害したものだ。
自分たちが現在追っている件と結び付けて考えている事件である。
犯人は深夜に塾帰りの女子高生を路上で襲い、"噛む"という行為だけで殺害。
通報で駆け付けた警官が見たものは、顔のほとんどが噛みちぎられた無残な姿だった。
犯人はその警官も襲おうとして、最後は発砲され、死亡。
動機は不明のままだが、覚醒剤中毒であったため、幻覚などによって引き起こされた行動として片付けられていた。
「…そうですね、被疑者の名前は、やはり有馬です、有馬利真。
家族構成…はと、えー、離婚した妻と、一人娘がいた…
元妻は…零、娘は…マリア、同じ名前です!」
そうして、思わぬ所から繋がりを発見した二人は、有馬のアパートへと急行したのだった。
◇
「——聞き込みした際に聞いていた住所で合ってましたが、やはり、いないようですね。
家の電話番号にも嘘はありません。
確認のため、さっき電話したら中で鳴っていました。
管理人に訊いたところ、有馬は黒い高級車を所有しているようですが、それが駐車場にありません。
どこかに出かけているのでしょう」
有馬の部屋の前で待機していた矢佐間に、管理人室から戻って来た八塚がそう言った。
「携帯の番号は訊いてないのか」
「すみません、そっちの方は教えてくれなかったんで」
「そうなると、ますます怪しいね。
で、この大きさだと、やはり彼女は一人暮らし?」
「そのようです。管理人もこれまで他に出入りする人を見たことはないと」
「そうかあ。
まあ、母親が噛んでるかどうかまだわからないけど、どっちにしろ、有馬の家族の周りで似たような噛み付き事件が起こるのは偶然とは思えないんだよね。
調べる必要があるな」
「まあ、そうですが、とりあえずここ、どうします?」
八塚がマリアの部屋のドアノブを指差す。
「うーん、ガサ入れしたいところだけど、ガサ状なしはこのご時世、さすがにまずいからね…
それに実は今日、嫁さんの誕生日なんだよ。
この辺であがらせてもらいましょう」
「え?それは早く帰ってあげなきゃ。
今日のところは引き上げるしかなさそうですし、明日の朝、出直しましょうか」
そうして、二人が捜査車両に戻った時、八塚個人のスマートフォンのバイブが響いた。
池田からだ。
「もしもし、お疲れ、どうした」
「八塚、まだ働いているのか、今、どこだ?職場か?」
「なんだよ、まだ外だよ、ってちょうど、あがろうとしてたところだけどな」
「あの、急なんだが、今から会えないか?」
「え、うーん、疲れてるからなあ、電話じゃ駄目なのか?」
「ああ、そうか、仕方ないな。
それが俺、今ちょっとした、いや、本格的かもしれん事件に関わってしまったみたいでな、込み入った話なんだが」
「ああ、ちょっと待って。
矢佐間さん、すみません、車、運転してもらってもいいですか。
ちょっと、友達から、あ、池田って、さっき話しした探偵からなんですが、事件の情報持ってきたんですよ。
長電話になりそうなんで、ほんと、すみません」
「ふん、そういうことなら、構わないよ」
矢佐間は少し不満そうではあるが、八塚からキーを受け取った。
「それで?」
八塚は助手席に乗り込みながら、訊いた。
「取りあえず、今スマホ使えるか?」
「それなら、初めから俺のスマホじゃなく、仕事用の携帯にかけてくれよ。
ったく、ちょっと待って。
矢佐間さん何度もすみません。
スマホ、貸してもらえます?」
仕事用の携帯電話の支給はあるが、この時代、個人のスマートフォンの使用は黙認されていた。
「注文の多い部下だね、ほんと」
運転席に乗り込んだばかりの矢佐間はそう言いつつも、ジャケットの内ポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、手際良くパスワードを入力してロックを解除し、八塚に渡した。
「ありがとうございます。
…よし、大丈夫だ。
で、何をすればいいんだ?」
八塚は自分のスマートフォンを左側の顔と肩で挟み、矢佐間のスマートフォンを打てるように準備した。
「まず、ヨウツベを開いて…
ああ、そうだな、外国人をゾンビにしてみた、って検索してみてくれ」
「ゾンビ?なんだそりゃ?
事件と関係あるのか?」
矢佐間は八塚の言葉に反応し、興味を持ったのか、出しかけた車を停めて聞いている。
「大ありなんだよ。
とにかく、いいから、見てくれよ」
「ったく。…ゾンビにしてみた、と」
「いくつか候補が出ると思うが、フランス人編パート1ってあるのを選んでくれ」
「また変なタイトルだな…ああ、あった、これかな、フランス人編っと。
はい再生した、で、これなんなんだ?」
八塚は矢佐間にもスマートフォンの画面が見えるように持ち直した。
矢佐間は眼鏡を直して覗き込む。
画面には、真っ黒い部屋の中で、頭に黒い袋を被せられ、椅子に拘束された男らしき姿が映っていた。
「それはな、ふざけたタイトルだが、どうも本当にそのフランス人を誘拐して、そうやって拷問したものらしい」
「何!?マジか!」
「その説明欄にジョージ・クリスってあるんだが、ネットで検索してみると、一年くらい前に失踪したとニュースになっている。
これは本物の犯罪の可能性が高い」
「失踪中のフランス人、ジョージクリスだな?
それで、どうして、そう思う?
これが本物の犯罪という確証は?
そもそもなんでこの動画に辿り着いた?
お前、行方不明者の佐藤って奴を探してたんじゃないのか?」
八塚は矢佐間に電話の内容を説明するように、矢継ぎ早に質問した。
それから、矢佐間にも池田の話が聞こえるよう、自分のスマートフォンをスピーカーモードにする。
「ああ、よく知ってるなって、帝都薬科大学の映研から聞いたのか。
それなら話は早いが、その佐藤君ってのも、同じように誘拐されて動画に撮られてたんだよ。
その動画は、ヨウツベには見当たらないんだが、一か月ほど前に映研の方に送られてきていた」
「じゃあ、なぜ映研からすぐに警察に連絡してこなかった?
さっき行った時はそんなこと一つも言わなかったが、なんか疚しいことでもあるのか?」
「お前、さっきから、その刑事口調で責めるように言うのやめろよ」
「すまんな、癖だ、癖」
「順を追って説明するから、とにかく聞いてくれ。
先に映研に送られてきた動画は、差出人が映研のOBとなっていた。
で、学園祭で映研が毎年やってる上映会に使ってくれって、ポストに入れてあったそうだ。
映研の子たちは、それを真に受けて実際に上映した。
それが、この前の土日だ」
「なんだそれは?
だから、なぜ警察に知らせずに、そんなものを上映したんだ」
「いいから聞けって。
映研はそれまで、『恐怖の館』っていう幽霊もののホラー映画を制作していた。
それは、映画に出ていた幽霊がラストに上映会場へ飛び込んできて、来場者を驚かすっていう、まあ言わばドッキリものだったそうだ。
動画を送ってきた奴は、それを知っていたらしく、今度はゾンビが会場に飛び込んで来る設定にしろって、指示があった。
つまり、映研の子たちは、まさかその動画が本物の誘拐映像とは思ってもみなかった訳だよ。
これまでの流れを知っているんだからな、本当に先輩が送ってくれたと信じ込んでしまった」
池田は坂辻から頼まれたことは言わずに、フォローした。
「うーん、そういうことか。
しかし、よく、わからんな。
犯人はなぜそんな手の込んだことをしてまで、映画にさせたんだ?
そもそも、他の外国人の映像をなぜ今になってヨウツベなんかに…」
運転席で動画を見ながら聞き耳を立てている矢佐間が、八塚の疑問にうんうんと頷いた。
八塚はそれを見て、まんざらでもなさそうな顔をした。
「それは、俺にもわからん。
ただ、その映研に送られた動画に映って拷問を受けている人間が、今、俺が探している佐藤君のようなんだ。
で、佐藤君はその映研のOBであり、前の恐怖の館って映画の脚本を書いてもいる」
「ちょっと待てよ。
そいつも、犯人の一人…
いや、それなら、そもそもイタズラか何かじゃないのか?」
矢佐間はまたその言葉に頷き、煙草を取り出した。
「俺も最初はそう考えたが、それはまずない。
佐藤君は去年の五月に行方不明になっている。
表向きは借金による夜逃げってとこだが、そんな余裕のない人間がこんなことするとは、考えにくい。
しかも、よく調べてみると、夜逃げというのも、そう見えるように誰かが小細工した形跡があってな。
それに犯人ってか、その動画で拷問している人物は既に誰かわかっている」
「何!?なぜそれを早く言わない?」
八塚の言葉に同調して、矢佐間も目を見張る。
「順を追って話さんとわからんだろ?
じゃあ、そいつの名前から言うぞ。
名前は、岡嵜零って科学者で、元帝都大学客員研究員…あっ言っとくけど、女だぞ、女」
「あ?女ね。で、おかさきれいってどういう字だ?」
八塚はなぜ池田が、女と念を押すのか不思議に思いながら、訊いた。
「岡山の岡、"さき"は、上に山を書く嵜、で、零は漢数字の零、あのーあれだ、雨の下に命令の令って書く奴。
なんかアメリカ帰りの超エリートだとかで、遺伝子工学の世界では有名人だったそうだ」
「岡嵜零…零…」
矢佐間がゆっくり呟いて、まだ火を付けてなかった煙草をしまう。
「本当にそいつが犯人に間違いないのか?
どうして、そいつが犯人とわかった?」
八塚がそう訊いている間に、矢佐間は動画を閉じて、どこかに電話をかけ始めた。
「それが、まあいろいろあって、結局、依頼人が両親に動画を見せたら、すぐにわかったんだよ。
簡単に言うと、両親はその犯人と知り合いで、両親は逆恨みを買っていたそうだ。
経緯は端折るが、岡嵜の夫と子供が死んだのは、佐藤夫妻のせいだと思っているらしい。
だから、その息子を誘拐して拷問にかけた、と…」
「ああ?さっぱりわからないな。
なぜ、それが他の外国人も誘拐することに繋がるんだ?
それが本当だとしても、見るかどうかわからない映研なんかに送って上映するより、直接両親に動画を送りつけてればいい話だ。
あれ?でも、それじゃあ、そもそも自分が犯人とばれるに決まってる訳だし…」
八塚は、隣の矢佐間が電話で話していることも気になって、頭が整理できない。
「そこも俺にもさっぱりわからないことだよ。
特に、関係のなさそうな外国人まで誘拐しているとなると。
しかし、そっちで調べてみてもらえる話だろう?
見ての通り、顔はわからないから絶対とは言えんが、イタズラとしても、実際に失踪しているフランス人の名前を使ってるんだ。
たちが悪過ぎる。
なんらかのお咎めを食らわせんといかんだろう」
「まあ、そうだな。
とりあえず、サイバー犯罪対策課に回してみるよ。
俺は今、別のヤマを追っているところだ」
「殺人事件に繋がる可能性があるとしてもか?」
「死体が出なきゃ、事件にならんのは知っているだろう」
「誘拐としても、お前の課だろう」
「まだ、決まったわけじゃない」
「おい、わかっているのか?
一志君は実際にいなくなっているし、外国人の件まで本当なら大事件だ」
「俺に決められる話でもないだろう?
事件性は認めるが、誘拐かどうかは確証がないと、こっちも上に言えない…」
「いや、確証はあるね」
電話を終えた矢佐間が突然、大きな声で口を挟んできた。
「え、それはどういうことですか」
八塚が矢佐間の言葉に驚いて言った。
「え、誰だよ」
「俺の上司の矢佐間警部だ、スピーカーにして一緒に聴いている」
「ああ、どうも、探偵の池田と申します」
「矢佐間です。
池田さん、突然、割り込んで失礼します。
今、四年前の噛み付き事件の一担当者だった徳田警部補に電話したところでね」
「四年前の噛み付き事件?
昨日のニュースの件じゃなくて?」
「そうですが何か?」
「それなら、今言った映研の動画の中で、岡嵜がその事件のことらしい話をしていました」
「へえ、そうなんですか。
ここだけの話、我々は今回の噛み付き事件と四年前のそれとは、関連ありと見て調べています。
今の話で、それを確信しました。
徳田警部補は当時、被疑者の裏どりとして、それまでの素行が事件に結びつかないか聞き込みに当たっていたんですよ。
それで、零、という離婚相手にも当たろうとしたけど、当初見つからなかった」
「あっ!」
と八塚は言い、
「れい?」
と池田はその名前に反応した。
「そう、零。
で、今、徳田警部に尋ねたのは、彼女の旧姓。
答えは、岡嵜、でした。
池田さんから出た名前と一緒だね」
「マジか」
二人は同時に驚く。
「徳田は当初、被疑者の苗字、有馬で探したけど、見つからないので、戸籍を調べた」
「ありま?」
池田はその名前にも引っかかった。
「それで、零は有馬と再婚していて、数年後に離婚、それからは、元旦那の方の旧姓、岡嵜姓を名乗っているとわかった。
結局、連絡はついたそうだが、今は何も話すことはないと、取り付く島はなかったと。
まあ、立証事態は揺るぎないものだったし、別れてから数年も経っていたし。
元妻の証言はあくまで補完、無くても当然立件は可能。
で、事件はそのまま被疑者死亡で送検された」
矢佐間は少しオーバーに首をすくめた。
「あの、ちょっといいですか?有馬って名前、今出ましたけど、四年前の事件の方の犯人ですよね?」
「そうですが」
「その、さっき見せたヨウツベの動画、タイトルを見てもらえばわかるんですが、パート1となっています。
ということは、パート2があってもおかしくないのに、まだアップされていないのか、見当たらないんですよ。
そしたら、タレ込みっていうか、その情報をくれるって女子大生がいましてね、今から会うんですが…
その子の名前も有馬、これは偶然…」
「有馬マリアか!?」
八塚が大きな声を上げる。
矢佐間も驚きの表情を浮かべている。
「え?なぜ…その名前を…って、あ、そうか、今日聞き込みしたんだったな。
まさかその犯人の有馬の娘?」
「俺たちもそれに気付いてな。
今いるのが、話を聞こうとして来た彼女のアパートの駐車場だ。
留守だったから明日にしようって言ってたら、お前から電話がかかって」
「いやー、待て待て、ということは…だ。
有馬マリアは岡嵜零の娘ってことでもあるよな!?」
「そういうことだな」
「子供は死んだって…そうか、再婚した相手の子か…じゃあ、彼女も共犯?」
「その可能性は高い、ってか間違いないだろ」
「なんで彼女の方は有馬姓のままなんだ?」
「知るかよ、そんなことは。
子供だったら、名前が変わると面倒くさいとか…」
「んー、まあ、そんなところかもしれないが…
あ、そうだ、おい、今いるアパートってどこだ?」
「ん?港区の△△町だけど?」
「やっぱり。もしかして、ハイツ君田か」
「え?なんでわかるんだ?」
「ビンゴ。
行方不明の佐藤君が住んでいたアパートと一緒だ」
「え、まじか…こりゃ誘拐の実行犯は岡嵜じゃなくて、有馬ってことも…」
「女が男を誘拐、であれば、二人がかりと考えた方が自然でしょうね」
矢佐間が眼鏡を直しながら言った。
「それで、池田さん、その有馬と今から会うということですが、どこかで待ち合わせしてるんですか?
自分らも同行させていただきたい」
「えっと、多摩川台公園の東屋の下です。
実は、さっき会えないかと八塚に言ったのは、その場所で、って思ってたんです。
ぜひ、来てください。あっ、そうだ。
有馬は自分と話をしてから、警察に相談した方がいい、と言っていました。
パート2の情報を含めて、まとめて話した方が、効率がいいからって…
共犯とわかってから、その話を思い返すと、かなり怪しいですね。
もしかしたら、自白の可能性…?
あの口調からはそんなことは微塵も感じられなかったけど…」
「ああ、そうですね、相談してくれたのは賢明な判断です」
「で、矢佐間さん、ついでにもう一つ相談なんですが…」
「なんでしょう?」
「警察がいるとわかると、彼女に逃げられるかもしれないし、動画のパート2のことも聞けた方がいいと思うんで、一通り私が話を聞くのをどこか隠れて待っててもらってから、その後、任意同行なりなんなりで引っ張ってもらうってのはどうでしょうか?」
「うーん、それがいいかもしれませんね。
ただ、八時半ということであれば、もう、時間がないようです。
すぐに向かいましょう。
あとの話は現場に着いてからでも」
「了解です。
ただ、私はバイクで向かいますが、ブルートゥースフォンが使えるシステムヘルメットなんで、運転しながらでも話をしましょう」
「わかりました。では一旦切ります」
矢佐間は車を出した。
「矢佐間さん、いいんですか。
今日、奥さんの誕生日じゃあ…」
「そんなことより、すぐに課に電話して、事情の説明をして。
それから、岡嵜零と有馬マリアの照会、あとその二人の家宅捜索の礼状も!」
矢佐間は、矢継ぎ早に指示を出しながら、赤色灯とサイレンのスイッチを入れ、スピードを上げる。
「サイレン鳴らしてちゃあ、有馬に気付かれますよ。途中で切りますよね」
八塚は窓の上のアシストグリップをしっかり握りながら訊いた。
「当然」
矢佐間の運転は荒かった。