ブアメードの血

33

 岡嵜零は思い出していた。

 ◇

 零はエルバード大学卒業後、日本に帰国。

日本でも医師資格を得るため、医師予備試験、医師国家試験を次々にパス。

癌の遺伝子治療研究を続けようと、エルバード大学から推薦を得て、帝都大学薬学部の客員研究員になった。


 零が岡嵜恒と出会ったのは、その時だった。

恒は大学院に進んだ研究生だった。

若者らしい熱意を持って研究に取り組んでいた。

零と歳が近く、互いの才能を認め合い、すぐに意気投合。

同じ研究に取り組むようになった。


 やがて、男としても惹かれていったが、恒には当時付き合っていた彼女がいた。

それが、入間累、のちの佐藤累だった。

累は恒と同様、同大学の大学院に進むも、別の研究室にいた。

そこには佐藤勝がいた。

四人でたまに遊んだりもした。


 恒は零と出会ってから一年経ち、大学を卒業となった。

共同論文が認められた二人は、遺伝子工学の分野では最先端を行く、帝都薬科大学に客員研究員として招かれた。

恒の心はいつも一緒にいる零に移り、やがて累から離れた。

累は一般的に見れば、十分な才女であったが、零の美貌と非凡な才能を知った恒の眼には凡庸に映った。


 二人は入籍し、さらに協力して研究に打ち込み、オリジナルの遺伝子編集技術の開発を目指した。

研究を進めるうち、数年前に発見されていたCRISPRという細菌の遺伝子の繰り返し配列に着目。

これは、外敵から身を守るためにその外敵の遺伝子を記憶する性質の結果ということがわかり、それを遺伝子編集に利用できないかと考えた。

そして、どんなウィルスでも、投与すれば細菌に外敵と見做させられる行程開発に成功。

次々に異なるウィルスの断片を投入し、意図する配列が偶然できれば、それをさらに変異させ改良していくという編集技術を確立した。

言わば、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、というものだが、それでも当時としては画期的なものだった。

現在の最先端の遺伝子編集技術、CRISPR/Cas9が発表される二十年も前のことだった。


 二人はその論文を嬉々として発表した。

二人の功績は表向き認められ、共に当時の助教授となった。


 しかし、一部の学会の人間は二人の論文を受け付けなかった。

どのように細菌がウィルスのDNAを取り込んで変異しているのか、当時はまだその全容が解明されておらず、未完成な技術で危険だと受け取られた。

さらに、遺伝子をウィルスにより変異させるという行為が、当時の旧態依然とした考えから倫理上、認められないとして、陰口を叩かれた。


 二人はこれに落胆、特に零はそれに嫌気がさして、暴挙に出た。

自分たちの技術を現実に活かそうと、自らの母体を臨床実験に使用。

自分たちで開発した技術で、テロメアという遺伝子の末端の部分を伸長するよう受精卵をゲノム編集、人工妊娠したのだ。


 テロメアは遺伝子のコピーが繰り返されるほど短くなっていき、遺伝子がコピーされる際に劣化が起こり易くなる。

これが老化の一因だ。

つまり、逆を言えば、テロメアが長いほど長寿になり得る。


<子供に少しでも長生きしてほしい>

二人の思いはある意味純真なもので、当然の我が子への愛の行為だった。

そうして生まれたのが、マリヤだった。

いわゆる、デザイナーベイビーの誕生。

それが倫理上、許される行為でないことは、二人にもわかっていた。

だから、まだ公にするつもりはなかった。


<いつか、見返してやる。

自分たちの確立した技術がいかに素晴らしいか、それが本当に認められるようになった時に、実は、と…>


 しかし、ある密告により、すぐにそれは知られることとなり、学会は二人を糾弾。

事態を重く見た大学は二人を懲戒免職、事実上、追放した。


 ある密告、それは勝の裏切りだった。


 勝は大学入学当時から恒と親友であった。

と同時に、恒と付き合う累に密かに恋心を抱いていた。

それが大学時代の六年間、続いた。

卒業後、累は大手製薬会社に就職、勝は恒と同様、研究員として残っていた。

そのうちに、恒から累と別れたことを聞かされた。

恒が累と別れたことは、片思いの勝には朗報であり、屈辱でもあった。

自分がずっと想っていた相手を、もっといい新しい女ができたといって簡単に乗り換えたように思えた。

恒と別れた傷心の累を慰め、それから付き合うようになった。

結局は結婚できたものの、勝には恒に対する引っかかりが残っていた。

恒には、何についても、一歩だけ先を行かれる。

なんとも言えない劣等感。

一志が生まれてから翌年に挙げた結婚披露宴の二次会で、酔っぱらった恒の口からマリヤの秘密を聞いた。

「僕もとうとう父親だ。いずれ子供は欲しかったしな。

僕らはな~んも間違っていない。

なのに、学会のお偉方はしかめっ面でお説教だ。

見返してやろうと思ってね。

考えてみてくれ。

僕も零も、愛する我が子に長生きしてほしい、それだけのことだ。

それで成功したんだよ。

僕らの理論も技術も正しかった。

今のところ、なんの異常も見られないし、それはともかく、かわいくて仕方ないよ。

ここだけの話、ぶっちゃけ、零よりかわいい、なんてな、はは。

しかし、お前も隅におけないな。

できちゃった婚なんて。

一志君は早産だって?…」


<お前はもう二人の父親だ…>

勝はその言葉を飲んだ。


 累は恒に振られ、恒を奪った零を恨んでいた。

勝と付き合い始めたのは、恒に嫉妬してほしいことでもあった。

 そんな時、恒との子を妊娠していることに気付いた。

既に中絶できる期間を越えていたため、堕胎できず。

勝にそれを打ち明けると、「自分の子として育てる」と言ってくれた。

累はその言葉に絆され、入籍。

表向き、勝との間の子として、一志を産んだ。


 恒が自分たちの遅かりし結婚式を挙げることをどこからか聞いて、

「出たい、祝わせてくれ」

と勝を通して言ってきた時は迷った。

まだ未練があった。

嫉妬してほしかった。


<私はあなたの子を黙って産んだのよ…

それに、別れた男を式に招くのは…>

そんな後ろめたさもあった。


「零は、君たちと付き合うのをおもしろく思っていないから、内緒だよ」

累は結局、その言葉に不承不承、勝の友人という形で、式の二次会にだけ招いた。


 しかし、恒は素直に祝うだけで、未練も嫉妬も見せなかたった。

しかも、勝から零とマリヤのことで浮かれているのを聞かされた。


<零との子供が産まれても、私との子供には気付かないの?

早産なんて嘘。

頭のいいあなたなら、臨月から逆算くらい簡単にできるでしょう。

まだ、あなたと付き合っていた時期ってくらい…>

僅かに残っていた恒への愛は消え、憎しみだけが残った。


 それから二年後、累は勝に密告を促した。

そして、零への恨みと恒へのに憎しみに任せ、あることないこと学会や大学に告げ口した。


 恒は親友と元恋人に裏切られ、大学を追い出された。

絶望し、心を病んだ。


 もう一度、人生をやり直したい。


その思いが、曲がった方向へ向いた。

<これは現実ではない、あるはずがない…>


 普通の人間ならここまで考えても、いずれ現実を見つめ直すところだろう。

だが、恒は違った。

この世界は本物ではない、仮想現実である…

天才の歯車は狂い始めた。


 ネットや文献、そして映画で、そういった情報を見つけては自分に都合よく解釈していった。

科学の世界にも同じ目を向けた。

二重スリット実験、量子もつれ、宇宙ホログラフィック原理、光速度不変の原理…

それを、この世界のエラーや限界だと考えるようになった。


 極めつけは、シミュレーション仮説や量子的実在論だった。

恒はその考えに傾倒し、この世界が仮想現実であると妄信した。


<意識は肉体的とは別に存在する。

肉体が意識を生むのではない、意識が先にある。

意識は肉体を通じてこの世界を垣間見ているのだ。

つまり、肉体的な死が意識の消滅には繋がらない。

肉体から切り離されるだけ。

本当の世界は死の向こう側にある…>

零にそれを打ち明けたら、案外と話に乗ってくれた。

それが、恒を傷つけたくない零の優しさだとも知らずに。

恒は意を決し、この世界から一旦離れないかと零を誘った。

が、「冗談でしょう」と断れた。

「生きてやり直しましょう」と説得された。


 やけになった恒はある日、酒に酔って酩酊し、三歳になったばかりのマリヤを車に乗せて暴走、事故を起こした。


 二人の死に、零は慟哭した。

我を忘れて泣き叫び、声は枯れた。

<ああ、マリヤ、マリヤ、マリヤ…

恒、恒、恒…>

声が出なくなってからも、うわ言のように二人の名前を繰り返した。


 断腸の思いとはよくいうが、その言葉ですら生温かった。

本当に内臓がずたずたにされたような痛み、五体が引き裂かれるような感覚にのた打ち回った。

死んだ方がましだと思えるほどの悲しさと悔しさ。

<こうなってしまったのも、あいつらのせい…

よくも、よくも、よくも…>

悲しみと同時に、佐藤夫妻への怒り、恨み、憎しみは頂点に達した。


 零にとって、大学追放はそこまでの痛手ではなかった。

<落ち着いたら、恒さえ良ければアメリカに戻ろう。

西海岸以外の場所なら…

この日本の風当たりは肌に合わない。

親の遺産と保険金で、当面、生活には困らないでしょうし…>

そんな風に考えていた。


 両親は、アメリカにいた頃、ほとんど同時に若くして亡くしていた。

父親が癌で亡くなり、それから数カ月もしないうちに母親が強盗に襲われ、射殺された。

両親と共に暮らした土地では、いたるところで思い出が蘇り、やるせなかった。

零が遺伝子治療の研究を始めたのは、父親の癌が切っ掛けだった。

それを神の試練と受け止め、前向きに生きようとしていた。


<それなのに、なんという悲劇か。

家族を同時に二人失くした人間は少なくないかもしれない。

しかし、それが、二度までも…

悲嘆に暮れ、それで身を切られる思いで帰国したのに、その結果がこれとは…

神よ、なぜこのような試練を何度も私にお与えになるのか…>


 毎日泣いて暮らし、そのうち神を罵しるようになった。

れまでほとんど飲むことのなかった酒に溺れ、傷めた声帯は元に戻ることはなかった。

そして、神への畏敬はなくなり、佐藤夫妻と同じく呪いさえするようになった。


<私にここまで試練を与えておいて…

何が神を試すなかれよ…絶対に許すまじ…>


 そんな中、恒の遺品の整理をしているうち、あるノートを見つけた。

『無限の時の住人』

ノートの表にタイトルとして、そう書いてあった。

中を見た。

「この世界は、本物ではなく、仮想現実である」


<あの話、本気で考えていたのね…私だけ残して逝くことはないじゃない…>

「この世界は、言わばゲームの中だ。

時は無限だ。

時が百三十億年前にビックバンで始まったと、どうして言える?

無限の時の中で、命は生まれ、無限に進化した。

無限の時の住人だ。

そして、科学も無限に進歩した。

ある時、退屈した住人の一部は、この世界でいうコンピュータのようなマシンで新しい世界を構築した。

その住人たちが無限の時で得たあらゆる知識を詰め込んで制作した、シミュレーションゲーム。

それが、この世界。

言わば、この世界を創造した無限の時の中の住人こそがゲームマスター、そう、この世界の神だ。

ゲームを楽しまない者はいない。

住人はどのくらいいるのかしらないが、一度はこのゲームを楽しみたくなる。

人の一生の長さなんて、無限の時に比べれば一瞬だ。

記憶は一旦消され、この世界の人間としての一生を体験する、究極の人生ゲーム…」

そんなことが、ずっと書いてあった。

時には、恒らしく科学的な考察も挟みながら。

そうして、最後にこう書いてあった。

「無限の時の世界に戻ったら、もっと最新のゲームや別世界がたくさん用意されているかもしれない。

でも、僕はこの世界に戻って来るよ。

まだ、このゲームをクリアできてないから。

不本意だが、一度リセットだ。

僕は再挑戦する。

零はこの考えを理解してそうで、してくれていなかった。

仕方ないけど、なんだか淋しいな」


 零は泣いた。

<理解できるわけ、ないじゃない…

あなたの考える通りだとしても、どうして、共に試練を乗り越え、生きることを選んでくれなかったの。

それはリセットではなく、ゲームオーバーでしょ?

二度とこの世界に戻っては来られない。

マリヤまで連れて行って…本当に子供ね、その子供っぽいところが好きだったんだけど…

仮にこの世界があなたの言う通りだとしても、私はこの世界を最後まで生きてみせる。

そうね、そう考えた方が、気が楽だわ。

しかも、自由に生きる。

誰にも何にも縛られない。

世間のいう倫理も、神も、くそ喰らえだわ>


 零は信仰を捨て、倫理観と罪悪感を失くした。

傷を抱えたまま、開き直り、世間的には立ち直ったように見えた。


<あの佐藤夫婦を、そして神の創ったこの世界をめちゃめちゃにしてやりたい…

それに、マリヤを生き返らせたい…

そのためには研究室がほしい…>


 普通の人間ならばできない欲望を現実化しようと零が悩んでいた頃、恒が死ぬ間際に大学に手紙を出していた、と名乗り出た人物が現れた。

帝都薬科大学の別の研究室の研究員で、零の在籍時に色目を使っていた有馬利真だった。

大学に多額の寄付や研究資金の提供をしていた大手製薬会社があり、利真の今は亡き父親が、その取締役だった。

利真はその親の七光りで大学に幅を利かせていた。

恒の手紙は、大学のごく一部のトップの人間しか知らなかったが、利真はコネからその情報を手に入れた。

恒の手紙には

「全て自分がやったこと、零はそれに従っただけ、悪くない」

という内容がしたためてあった。

利真は零に大学への復帰を持ちかけた。

零は大学への恨みもあったが、自分の研究室を作るまで、その足掛かりとして申し出を受け入れた。

利真は正義感というよりも、零への下心から、親の威光を笠に着て、零の復帰を擁護した。

大学側は、恒の事故死に引け目を感じており、零の才能を高く買ってもいたことから、猶予期間が終了したとして、零の大学へ復帰を認めた。


 利真はそれを機に、零に言い寄ってくるようになった。

二人は付き合い始め、やがて結婚した。

利真は零の美貌、零は利真の資産が、それぞれ目当てだった。

そこに愛はなかった。


 零は前にも増して研究に没頭した。

<マリヤを復活させる>

一先ず、それが、当面の目標だった。

まず、残されたマリヤの遺伝子を使い、クローン人間を人工妊娠。

周りには不妊治療と偽り、堂々とマリアを出産した。

さらに、マリヤに施したのと同様のテロメア部のゲノム編集を自分自身に行い、成功。

零は不老の身体を手に入れた。

<精子を提供していた利真は当然、マリアを自分の子供だと思っているだろう。

しかし、いつかばれてしまうかもしれない。

血液型は恒と同じなので大丈夫だが、いつか遺伝子を調べられたらお終い…>


 零は、覚醒剤の売人を通じて利真をそそのかし、一年かけてヤク漬けにした。

そのうち、利真は自ら覚醒剤を求め、他の売人からも手に入れるようになっていた。


 零は頃合いを見て警察に通報し、弁護士を通じて離婚を申し立てた。

遊び人であった利真は、覚醒剤をやっていても世間に不思議と取られなかった。

利真は、懲役刑を言い渡され、執行猶予となるも、閉鎖病棟に隔離された。

唯一、利真の自白から売人が見つかって、自分のしたことがばれるのではという心配があった。

零は売人を呼び出し、殺害した。

それが、初めての殺人であった。

利真との離婚はあっさりと認められ、多額の慰謝料をせしめることができた。


 そんな零を怪しんだマトリがいた。

利真は結局、どこから覚せい剤を入手したかを自白しなかったが、入手経路の目星をつけていた売人が行方不明なった。

それを切っ掛けに、捜査線上の一人に浮かんだのだ。

だが、何も証拠はなかった。

零は教授まで出世していた大学を辞めた。

両親の遺した別荘地に現在の邸宅と実験室を構えた。


 そんな中でも、零は虎視眈々と勝と累の動向を窺っていた。

<ただ殺すだけでは飽き足らない、私と同じ思いをさせてやる…>


 零は一志に目を付けた。

生きていればマリヤと同学年。

<あの二人は、息子と幸せそうに暮らしている。

それを奪ってやる…>


 一志は毎週、塾に通っていた。

送り迎えは累が運転する自家用車、一志はいつも助手席に座っていた。

ある日、零は佐藤家に忍び込み、その車にある仕掛けを施した。

それは、エンジンが起動するとエアコンの送風口から、催眠ガスが流れるものだった。

次の日、たまたま佐藤家を訪れた勝の弟夫妻が、静と共に一志を送ることなるとは知らずに。

思惑通り、事故は起こったが、一志は静と共に生き残った。

ただ零は、結果的ではあるが弟夫妻を失って打ちひしがれる勝に対し、一先ず溜飲を下げた。

そこまでは順調だった。

 マリアは十才になったある日、零に「入ってはいけない」ときつく言いつけられていた地下の研究室に忍び込んだ。

ビデオカメラをこっそり仕掛け、電子ロックキーのパスワードをあっさりと破って。

そこで、残されていた恒の研究資料などを見つけた。

そして、保冷庫に保管してあった一つのアンプルを誤って割ってしまった。

それは、古代の地層から採取されたウィルスを培養したものだった。

慌てて片付けようとしたマリアは、アンプルのガラス片で指を切った。


 それからしばらくして、マリアはコタール症候群にかかった。

「行きたい場所があるから、一緒に来て」

とマリアが言うので、零は付いて行った。

そこは、ごく一部の人間しか知らない恒とマリヤの墓所だった。

「マリアは一度、ここで眠っているの」

まるで、マリヤの意思がそこにあるかのように、自分は一度死んだ人間だと言い始めた。

自分はゾンビ、だと。

<ノートはマリアに見せていない。

周りの人間は、マリアは利真との子だと思っているはず。

誰も知らないはずなのに。

確かにマリヤにもう一度会いたくて、マリアを産んだ。

でも、私はそんなこと誰にも一言も言っていない。

いや…もしかして、誰かがマリアに恒とマリヤのことを漏らしたのかもしれない。

それなら有りえる。

ただ、生まれ変わりなんて言うかしら…名前が似ているから?>

マリアに訊いても、答えなかった。


 <わからない、わからない…>

零はあらゆる方法でマリアを治そうとした。

向精神薬、抗精神病薬、心理療法、スピリチュアルセラピー…

それでも、マリアの症状は一向に良くならかった。

深夜にテレビでやっていたゾンビ映画を録画して何度も見る、墓場へ行きたがる、死人のようなメイクをする、食事をとらない…

最後はとうとう友達に噛み付き、小学校にやれなくなった。

零はマリアを地下の実験室に軟禁した。

 零はまた神を恨んだ。

<両親もいない、恒もマリヤもいない、そして、マリアもおかしな病に犯されてしまった。

自分は医者なのに、自分の娘さえ治せない…>


 マリアの症状はさらに悪化し、前世の記憶ともいうべき、マリヤの記憶まで話し始めた。

「マリアはね、積木遊びが大好きだったの…

マリアとママ、遊園地に行った時、楽しかった」

他にも思い出をいくつも語り、最後の事故のことさえ覚えていた。

<ありえない、信じられない…>

零は恒のノートを読み返した。

<恒、あなたの言う通りなの?

マリヤをもう一度この世界に挑戦させているの?

本当にマリアはマリヤの生まれ変わりなの?

では、あなたは今どこにいるの?

このノートに書いてあることは本当なの?

それならそれで認めてもいい。

でも、もう、こんなくだらない世界なんて、たくさんだわ。

神なんて知らない。

ぶっ壊してやる。

恒、悪いけど、やっぱり、あなたのいう”人生ゲーム”というこの世界、めちゃめちゃにしてやる>


 零のたがは外れた。

人類に病を蔓延させ、死滅させそうと目論み、そのためのウィルスの研究もマリアの治療と平行して始めた。

<そうだ、神を試してはならないというなら、試してやる。

そうすれば本当に神がいるのかどうかわかるから…

それがこの世界を終わらせることに繋がるでしょう…>

と。

ちょうどその頃、二人の女性博士からCRISPR/Cas9という技術が発表された。

零はその技術を用い、凶悪なウィルスを開発しようとした。

ただ、それは入手可能なウィルスの遺伝子配列の組み合わせでしかない。

インフルエンザ、ボツリヌス菌、O157…入手可能なウィルスの遺伝子操作も試みたが、ことごとく失敗。

もっと致死性の高いエボラ出血熱のようなレベル4のウィルスは、いくら零でも手に入れることはできなかった。

<マリアの病気も治らない。

新しいウィルスをつくることもできない…

これでは八方塞がりね>


 行き詰り、リビングで転寝をしている時、夢を見た。

いつか恒と一緒に見たテレビ番組、ある生き物のドキュメンタリーだった。

ロイコクロリディウム、カタツムリの目を肥大化させて鳥に食べさせようとする寄生虫。

恒が言った。

「寄生虫がカタツムリを操っているというけど、カタツムリは目玉だけ食べられて、それを繰り返し、結局は長生きできている。

ねえ、ママ。それならカタツムリが寄生虫を操っているとも考えられないかい?

利用されていると見せかけて、利用しているんだよ。

前向きな生き方だ」

「マリヤが寝てる時までママって言うのやめてよ。

でも、おもしろいことを考える人ね。

まあそうね、お互いのメリットが合致した共生ってことではないかしら。

ダーウィンの進化論には異論があるけど、生き残りやすいものがより生き残るって当たり前のこと…」

「ああ、そうだね。

お互いに上手く相手を操作し合って、進化したのかもしれない。

僕らのお腹の中の善玉菌も共生関係だし。

僕はいつも思うんだよ、答えはいつも自分の内にある…って。

そうだろ、ママ、いや君の中にも、ほらここに!」

恒が両手で零のお腹をくすぐろうとした。

「うは、いや!ちょっと、やめて、やめてってば。うっうっうっ」

それだけの過去を振り返る夢だった。


 目が覚めると、リビングの本棚から一冊の絵本がどういう訳か落ちていた。

それは『北風と太陽』、マリヤの好きだった絵本だった。

<これは恒からのメッセージ?それとも啓示…>


 零は今までの治療法を捨てた。

ふと思い立ち、マリアの血液を採取。

そこに、あるウィルスを見つけた。

『遺伝子の進化過程における特異点』、恒の研究にあったウィルスだった。

そのウィルスはとても遺伝子が不安定な状態で、恒が見つけていたものに非常に似ていた。

零はマリアを問い詰め、マリアが実験室に忍び込んだ時に感染したものだと知った。

そのウィルスのせいで、マリアがコタール症候群となったのか。

零はマリアを被検体『アルファ』と名付けた。


 零は意を決し、マリアに逆療法を試みることにした。

駄目で元々。駄目ならまたやり直せばいい。

零はマリアに偽薬を与えた。

「これはゾンビになる薬、あなたは死人でしょう、死人なのに生きている、あなたはゾンビ…」

「やっと、わかってくれた、うれしいよ、ママ。

そうだよ、ボクはゾンビ」

マリアは穏やかに言った。

「でもね、マリア、ゾンビだからって噛む必要はないの。

そう、あなたはゾンビのままでいい。

ゾンビのように、力持ちで、痛みも感じない。

でも、私たちを怒ったり噛んだりしないで。

そしたら、あとは普通に暮らせるから」

「わかったママ。ありがとう、そうするよ」

マリアはみるみる症状を改善していった。

死人のメイクをするのは、ハロウィンの日だけになっていた。


 零は、マリアの罹患していたウィルスの変異に賭けたのだ。

マリアの治療中、零は何度もウィルスを確認した。

賭けは実を結び、ウィルスは徐々に変異し、マリアの遺伝子を書き換えていった。

理性を失わせず、人を追いかけたり、噛んだりしたいという衝動を起こさせないものになっていた。

「…一つ目は、カリウムやセロトニンといった疼痛物質を抑制する物質を生成させ、痛みを抑えます。

二つ目は、エンドルフィンという脳内麻薬を発生させ、気持ちよくなって、こちらも痛みを和らげます。

三つ目は、運動神経の制限、これは、リミッターを解除すると言った方がわかりやすいですかね、そんな風に書き換えます」

そう、マリアのウィルスはその特性だけ持つようになった。

零はそれをオメガマイナスと名付け、自らにも投与した。

力を発揮したい時だけ、三つのニューロンのスイッチが働く。

いつでも痛みを感じず、快感を得られ、肉体の自制力も解除することができる。

そんな、ドーピングよりも都合の良い身体を手に入れたのだ。


 ただ、何もかも上手くは行かない。

時間が経つと、効果が薄れ、鈍い痛みと倦怠感が全身を覆い、それがしばらく続くのだ。

いざという時にしか出せない力でもあった。

<宿主の意志によって、ウィルスはこうも変わるものなの?しかもこちらに都合よく…

それならば…>


 マリアの治療に成功した零は、退院していた利真を探し出し、もう一度やり直そうと誘った。

利真は家に向かう途中の車の中で、恨みつらみを言い放った。

離婚するつもりはなかった、弁護士を使ってまで離婚するとは何事か、と。

その中の一言に零にとって、意外なものがあった。

自分のことを覚醒剤中毒にしたのは、零だということに薄々気付いていた、ということだった。

<この男、感付いていたのか…>

零は無言で聞き流したが、内心戦慄していた。

利真曰く、「それを警察に言わなかったのは、マリアがかわいそうだから、母親までいなくなればマリアはもっと悲しむからだ」と。


 新しい研究施設に着いた利真は、マリアに会うと、とても喜んだ。

自分の子供ではないことも知らずに。

零は、ここが新しい家、と一通り案内して、コーヒーを勧めた。

睡眠薬入りだった。

利真を実験体にするためだった。

マリアは利真を地下室に監禁し、覚醒剤を打った。

一度、クスリに手を染めた者は、その魔の手からは逃れられない。

すぐに、利真はまたクスリを求めるようになった。


 そうして利真を再度、覚醒剤中毒にした零は、マリアから採取したウィルスを培養し、利真に注射した。

そして、こう言った。

「これはゾンビになる薬。

あなたは、麻薬で一度死んだ死人でしょう。

死人なのに生きている…」

一志に説明した時、途中から言い方が変わった”宿主”とは、実際は利真だった。

零は、ウィルスを人類を滅亡させるものへと、さらに変移させていった。

<これでいけるかもしれない…>


 利真はクスリ欲しさから、初めはゾンビになる演技をしていた。

そのつもりだった。

だが、やがて幻覚や幻聴が見えるようになり、理性は失われていった。

<零は、自分はゾンビだと言う。

ゾンビとは何をする?

人間を襲う。

我を忘れて、逃げる人間を追いかけて、噛み付いて殺す。

すごい力、痛みも感じない。

それにしてもさっきからなんだろう、なんか歯が痒いな。

何か噛みたい、噛み付きたい。

なんでもいいんだが、俺は女が好きだ、女だ、女を噛みたい、噛み付きたい。

そうか俺はゾンビになったんだ。

ゾンビっていうのは…>


「四つ目は、視界に入るものを追いかける衝動を引き起こします。

五つ目は、噛む、食べるという欲求を増幅します。

最後の六つ目は、理性を抑え、本能を呼び起こします…」


 それから、どれくらい時間が経ったのかわからない。

気付くと、利真はどこか夜の公園に解放されていた。

女子高生が利真を追い越して行った。

<女だ…零も女…俺をめちゃくちゃにしたのは女だ…

憎い…恨めしい…襲いたい…噛みたい…噛み付きたい…

そうだ、俺はゾンビだった、噛んでもいいんだ。

追いかけて、そして、噛み殺すべし!>

利真は走り出した。


 それから、ゾンビとしての目的を達成した後、警官に撃ち殺された。


 恒が事故死する直前から、佐藤勝はある論文を手がけていた。

『インフレーション進化論』、のちに、そう呼ばれるようになった論文だった。

 それは、茨城県の古い地層の中を恒と共に調査して発見したウィルスの分析をまとめようとするものだった。

二人はそれぞれウィルスを分析したが、それが遺伝子が極端に不安定で変異しやすい状態であるもののようだと、先に発見したのは恒の方だった。

 恒の死後、彼の名前は結果的に伏せて、勝は十年越しの研究成果を発表した。

『千載一隅の好機』

それは恒の受け売りであり、佐藤勝の名を世間に売る、まさに自分にとっても千載一隅の好機でもあった。


 「インフレーション進化論」の解説本が出版され、世間の耳目を集めるようになると、零にも知ることとなった。

その本の記述に『遺伝子の進化過程における特異点』の文字があるのを零は見逃さなかった。

<人のアイデアまで自分の手柄にして…私の家族の命だけでは物足りないのか>

事情を知らない零は烈火の如く怒り狂ったが、理性を失ってオメガマイナスが変異するのではと、どうにか自分を落ち着かせた。

<しかし、腹の虫が収まらない。

そう言えば、腹の虫とはよくいったもの。

胃腸のウィルスが宿主の性格にまで影響を及ぼすことがあるというけど…

落ち着いて…

勝と累に、今度こそ私と同じ思いを味あわせてやる…あくまで冷静に…>


 そうして、弱まっていた佐藤夫妻への復讐への思いは、新たに強まったのだった。


 零は再び、一人暮らしを始めていた一志の命を狙い始めた。

一志が恒の息子であることは、零も知らないことだった。

高校生になったばかりのマリアを一志と同じアパートに住まわせ、監視させた。


 マリアは罪を厭わない性格になっていた。

善悪の判断は付くが、罪悪感を持ち合わせず、罪をなすことに全く引け目を感じない。

それどころか、自分が楽しければ何をしても良いと考えるようになっていた。

「この世は仮想世界だ」

そんな恒の受け売りに加え、

「だから、何をやるにも自由」

と零に教えられ、育てられた。

佐藤夫妻への復讐を零から打ち明けられた時も、嬉々として話に乗った。

一志がいない時、部屋に堂々と侵入し、パソコンにウィルスソフトを仕込み、盗聴器も仕掛けた。

一志の借金は好都合であり、一連の拉致計画の一部に取り入れ実行した。

神が出現する可能性の示唆や、映研での上映も、マリアのアイデアだった。


 「ママのいう神様って、本当にいるのか、前からずっと疑問だったんだ。

ただ、この世をゾンビだらけにするだけじゃ、物足りないじゃない。

きっと、神様の啓示も見られるかもしれないなんて、楽しみ。

それに、一志君を実験体の一人にして映画にすれば、予備知識のない観客が被験者となって臨床実験にもなるし…

静ちゃんも見てくれたら、一緒に懲らしめられるかも。

いずれ、ヨウツベにもアップして、ご両親が見たら、どんな顔をするかしら」

まるで、おとぎ話を考える少女のようにマリアは想像を膨らませた。

「それは、おもしろいわね。計画は少し遅くなるけど、まあ、いいわ。

あなたの自由にやりなさい」

「静ちゃんの不安と恐怖、どっちが勝つかな?

映画のこと見たら、静ちゃんもゾンビになっちゃったりして。

そうだ、それに人類滅亡を企んで、ウィルスを撒いているのはご両親のせいにするってのはどう?」

「それはいいわね。

私はあの二人が息子のゾンビに変わる姿に、どんな顔をするか見てみたかっただけなのに。

ほんと、ナイスアイデア」

「今から、楽しみ!」

零から褒められ、マリアはますます、やる気を見せた。

老化遺伝子の編集のせいだろうか、マリアは歳を取るのが遅く、見た目は中学生にも見えるほどだった。

しかし、その童顔の下には、零に引けを取らぬほどの魔物に成長した心があった。
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