ブアメードの血
40
八塚克哉はほっとしていた。
自分の主張が、課のトップである片本という警視にあっさりと認められたのだ。
これまでの噛み付き事件はウィルスが原因と思われること。
それを作った犯人は岡嵜零と有馬マリアであると思われること。
坂辻がそのウィルスにより凶暴化しているため、アパートに武装した警官をよこしてほしいこと。
この三点を整理して伝えると、片本は全てに
「そうか。わかった」
と答えた。
拍子抜けするほど意見が通ったと思っていた八塚に、片本が出し抜けに言い始めた。
「いいか。これから言うことをよく聞け。
極秘事項だ。
実は、常松の症状が細菌に感染したものだという情報は、既に今朝方掴んでいた。
レベル4に匹敵するほどのものだそうだ。
感染研が言ってきたことだから、間違いないだろう」
「あ、あの、かんせんけんってなんですか?」
「国立感染症研究所のことだよ。
政府も動いているが、ことがことだけにまだ国民に公表することを控えているのが現状だ。
私は部下にこのことを伝えないと安全が確保できない、と上にかけあったが、どこからか漏れて国民がパニックになることを恐れ、君たちに伝えることができなかった。
仕方なく、今日は拳銃等の所持を通達したんだが…
それでも、このざまだ。
矢佐間君、夜久君、沖…今日、三人も失った。
本当に、本当にすまないと思っている」
八塚は言葉を失った。
思っていたよりはるかに深刻で、異常な事態だった。
<そう言われれば、そうだ。
ゾンビ映画は有名な奴をいくつか見たことがあるが、どれも世界は荒廃していった。
ビオハザード、ワールドZウォー…昔見た何かは最後に街にミサイルを撃ち込むオチだったっけ…>
実際に、そんなことが起こるかもしれない。
本当のことを教えてもらえなかった悔しさもあるが、それ以上に空恐ろしさも覚えた。
「ことは喫緊で、非常事態だ。私はもう一度、上に掛け合ってみるよ。
下手をすれば、世界的なパニックにつながってしまうからな。
犯人も絞れたことだし、警察の威信をかけて捜査しなくてはならん。
八塚、すまないが、もう少しだけ内密にしておく必要がある。堪えてくれ。
まだ、国民をパニックにする訳にはいかんのだ。
終息の見込みが経ってからでないと、混乱の収拾がつかず、捜査もままならなくなる可能性が高い」
「はい…わかりました。
とにかく、急いで現場に人をよこしてください。
相手は凶暴なんで」
そう言うと、返事を待たず、八塚は電話を切った。
国民に速やかに緊急事態の布告をすべきだ。
そう言いたかったが、その言葉を飲んだ。
<日本に戒厳令はない。
俺に今できることは、この部屋の中の坂辻を外に出さないようにするだけだ。
だが、どうすりゃいい?
今はこうやって見張っているだけだが、坂辻は腹が膨れりゃ、外に出ようとするかもしれない。
常松のことを考えれば、坂辻も恐ろしい力を持っているはずだ。
実際、四人が殺された。
俺一人じゃ、敵わないかもしれない。
何か、このドアが開かないようにつっかえでもしないと…>
八塚は辺りを見回したが、廊下には何一つ使えそうなものはない。
消火器が少し離れた壁のへこんだところに見えるが、廊下の幅には全然足りない高さだ。
そこへ、先ほど下で声をかけてきた剥げ頭の男が現れた。
「あんた、大丈夫か?」
男は恐る恐る様子を窺いながら近づいてくる。
「駄目だ!すぐに戻って!
いや、そうだ。ここの管理人さんはどちらに行かれたか知りませんか?」
八塚は両手を広げて、引き返すように誘導しながら尋ねた。
「え?吉さんなら一番上の階に住んでるが…あ、そういや、さっき下で見かけたかな」
「案内してください。さあ、早く!」
八塚と男は急いで下へ降りると、さっきより増えた野次馬の中から、同年代の女と話をしている管理人を見つけ出した。
「おい、吉さん、警察の人が、用があるってよ」
そう、声をかけられたのは、ここに到着した時に見かけた七十前後に見える白髪の女だった。
「ちょっと、一体どうなってんだい。
さっきは鍵を開けてくれって頼まれて開けたら、すぐに用無し、部屋から出て行けって、なんだい、まったく。
誰もこの事態を説明してくれないだもん。やになっちゃう…」
「それはすみません、ただ、あの、ちょっと急いでおりまして、すぐに坂辻さんの部屋の合鍵を貸していただけませんか。
ことは一刻を争いますので」
「え?またかい?鍵なら持ったまんまだから…」
管理人は羽織ったジャンバーのポケットに手を突っ込んだ。
「ほら、ここにあるけど…」
「ありがとございます!お借りします!」
八塚は鍵を受け取ると、急いで坂辻の部屋の前へと戻った。
部屋の前まで来ると、息を切らしながら鍵穴に鍵を挿す。
<待てよ。俺が離れた隙に坂辻が出て行ってることはないよな?>
八塚は躊躇いながらも、恐る恐るドアを開けて、低い位置から中を覗き込んだ。
視線の先に誰か立っていた。
低い視界を徐々に上に移すと、女性警官を食べ終わって、こちらを向いて立ち尽くす坂辻だとわかった。
口の周りを真っ赤に染め、その上の血走った目と思わず視線が合った。
坂辻は表情を一変させた。
眉間に皺を寄せ、歯茎を剥き出しにして、こちらに迫って来る。
バタン!ガチャリ!
八塚はドアを閉めて鍵を閉める動作を一秒足らずで行った。
すぐに鍵を抜いて、身構えた。
その直後。
ドン!!
ドアの内側から大きな音が響いた。
ドアに坂辻がぶつかってきたのだろう。
ドン!ドン!ドンドンドンドンッ!
今度は、両の拳で叩いているのか、音の質が変わり、続けざまに打音が響く。
八塚は震えた。
今まで、犯人を怖いと思ったことはなかった。
腹立たしいとは思っても、怖れたことは一度も。
しかし、今、本当に恐ろしかった。
野獣に襲われるような、原始的な怯え。
ガチャ、ガチャガチャ!
今度はドアノブを捻る音が聞こえてきた。
「ううぅ」
八塚は慌てて震える手で銃を取り出し、息を整えながらドアに向けてゆっくりと構えた。
ドンドンドンッ!ガチャガチャ!
「ぎいいいいい!」
時折、男と思えないほど甲高い怒声が聞こえる。
大学で聞き込みした時に聞いた、知的な印象のあった声は、今は微塵も感じられない。
ドアノブに手をかけるまでの知性は残っているものの、鍵を開けることには頭が回らないようだ。
八塚はしばらく銃をドアに向けていたが、やがて降ろすと、その場にへたり込んだ。
「なんてこった…俺には、どうしようもない…」
ドンドン!ドン!ドンドンドン!ガチャ…
打音が鳴り響く中、八塚は途方に暮れ、天を仰いだ。
自分の主張が、課のトップである片本という警視にあっさりと認められたのだ。
これまでの噛み付き事件はウィルスが原因と思われること。
それを作った犯人は岡嵜零と有馬マリアであると思われること。
坂辻がそのウィルスにより凶暴化しているため、アパートに武装した警官をよこしてほしいこと。
この三点を整理して伝えると、片本は全てに
「そうか。わかった」
と答えた。
拍子抜けするほど意見が通ったと思っていた八塚に、片本が出し抜けに言い始めた。
「いいか。これから言うことをよく聞け。
極秘事項だ。
実は、常松の症状が細菌に感染したものだという情報は、既に今朝方掴んでいた。
レベル4に匹敵するほどのものだそうだ。
感染研が言ってきたことだから、間違いないだろう」
「あ、あの、かんせんけんってなんですか?」
「国立感染症研究所のことだよ。
政府も動いているが、ことがことだけにまだ国民に公表することを控えているのが現状だ。
私は部下にこのことを伝えないと安全が確保できない、と上にかけあったが、どこからか漏れて国民がパニックになることを恐れ、君たちに伝えることができなかった。
仕方なく、今日は拳銃等の所持を通達したんだが…
それでも、このざまだ。
矢佐間君、夜久君、沖…今日、三人も失った。
本当に、本当にすまないと思っている」
八塚は言葉を失った。
思っていたよりはるかに深刻で、異常な事態だった。
<そう言われれば、そうだ。
ゾンビ映画は有名な奴をいくつか見たことがあるが、どれも世界は荒廃していった。
ビオハザード、ワールドZウォー…昔見た何かは最後に街にミサイルを撃ち込むオチだったっけ…>
実際に、そんなことが起こるかもしれない。
本当のことを教えてもらえなかった悔しさもあるが、それ以上に空恐ろしさも覚えた。
「ことは喫緊で、非常事態だ。私はもう一度、上に掛け合ってみるよ。
下手をすれば、世界的なパニックにつながってしまうからな。
犯人も絞れたことだし、警察の威信をかけて捜査しなくてはならん。
八塚、すまないが、もう少しだけ内密にしておく必要がある。堪えてくれ。
まだ、国民をパニックにする訳にはいかんのだ。
終息の見込みが経ってからでないと、混乱の収拾がつかず、捜査もままならなくなる可能性が高い」
「はい…わかりました。
とにかく、急いで現場に人をよこしてください。
相手は凶暴なんで」
そう言うと、返事を待たず、八塚は電話を切った。
国民に速やかに緊急事態の布告をすべきだ。
そう言いたかったが、その言葉を飲んだ。
<日本に戒厳令はない。
俺に今できることは、この部屋の中の坂辻を外に出さないようにするだけだ。
だが、どうすりゃいい?
今はこうやって見張っているだけだが、坂辻は腹が膨れりゃ、外に出ようとするかもしれない。
常松のことを考えれば、坂辻も恐ろしい力を持っているはずだ。
実際、四人が殺された。
俺一人じゃ、敵わないかもしれない。
何か、このドアが開かないようにつっかえでもしないと…>
八塚は辺りを見回したが、廊下には何一つ使えそうなものはない。
消火器が少し離れた壁のへこんだところに見えるが、廊下の幅には全然足りない高さだ。
そこへ、先ほど下で声をかけてきた剥げ頭の男が現れた。
「あんた、大丈夫か?」
男は恐る恐る様子を窺いながら近づいてくる。
「駄目だ!すぐに戻って!
いや、そうだ。ここの管理人さんはどちらに行かれたか知りませんか?」
八塚は両手を広げて、引き返すように誘導しながら尋ねた。
「え?吉さんなら一番上の階に住んでるが…あ、そういや、さっき下で見かけたかな」
「案内してください。さあ、早く!」
八塚と男は急いで下へ降りると、さっきより増えた野次馬の中から、同年代の女と話をしている管理人を見つけ出した。
「おい、吉さん、警察の人が、用があるってよ」
そう、声をかけられたのは、ここに到着した時に見かけた七十前後に見える白髪の女だった。
「ちょっと、一体どうなってんだい。
さっきは鍵を開けてくれって頼まれて開けたら、すぐに用無し、部屋から出て行けって、なんだい、まったく。
誰もこの事態を説明してくれないだもん。やになっちゃう…」
「それはすみません、ただ、あの、ちょっと急いでおりまして、すぐに坂辻さんの部屋の合鍵を貸していただけませんか。
ことは一刻を争いますので」
「え?またかい?鍵なら持ったまんまだから…」
管理人は羽織ったジャンバーのポケットに手を突っ込んだ。
「ほら、ここにあるけど…」
「ありがとございます!お借りします!」
八塚は鍵を受け取ると、急いで坂辻の部屋の前へと戻った。
部屋の前まで来ると、息を切らしながら鍵穴に鍵を挿す。
<待てよ。俺が離れた隙に坂辻が出て行ってることはないよな?>
八塚は躊躇いながらも、恐る恐るドアを開けて、低い位置から中を覗き込んだ。
視線の先に誰か立っていた。
低い視界を徐々に上に移すと、女性警官を食べ終わって、こちらを向いて立ち尽くす坂辻だとわかった。
口の周りを真っ赤に染め、その上の血走った目と思わず視線が合った。
坂辻は表情を一変させた。
眉間に皺を寄せ、歯茎を剥き出しにして、こちらに迫って来る。
バタン!ガチャリ!
八塚はドアを閉めて鍵を閉める動作を一秒足らずで行った。
すぐに鍵を抜いて、身構えた。
その直後。
ドン!!
ドアの内側から大きな音が響いた。
ドアに坂辻がぶつかってきたのだろう。
ドン!ドン!ドンドンドンドンッ!
今度は、両の拳で叩いているのか、音の質が変わり、続けざまに打音が響く。
八塚は震えた。
今まで、犯人を怖いと思ったことはなかった。
腹立たしいとは思っても、怖れたことは一度も。
しかし、今、本当に恐ろしかった。
野獣に襲われるような、原始的な怯え。
ガチャ、ガチャガチャ!
今度はドアノブを捻る音が聞こえてきた。
「ううぅ」
八塚は慌てて震える手で銃を取り出し、息を整えながらドアに向けてゆっくりと構えた。
ドンドンドンッ!ガチャガチャ!
「ぎいいいいい!」
時折、男と思えないほど甲高い怒声が聞こえる。
大学で聞き込みした時に聞いた、知的な印象のあった声は、今は微塵も感じられない。
ドアノブに手をかけるまでの知性は残っているものの、鍵を開けることには頭が回らないようだ。
八塚はしばらく銃をドアに向けていたが、やがて降ろすと、その場にへたり込んだ。
「なんてこった…俺には、どうしようもない…」
ドンドン!ドン!ドンドンドン!ガチャ…
打音が鳴り響く中、八塚は途方に暮れ、天を仰いだ。