ブアメードの血
46
八塚克哉は落ち着かないでいた。
先ほどから、後ろの三人の女子大生が気になっている。
名前を訊くと、車の左側から、AEDを持って来た女が江角、手を噛まれた眼鏡の女が賀茂、付き添いの長身の女が阪水、とそれぞれ名乗った。
賀茂の右腕をきつく縛ってはいるが、さっきの木本とかいう男のように、いつ発症するともわからない。
そうしたら、両隣にいる二人に危害が及んでしまう。
とっさに病院に運ぼうとした結果で、致し方ない行動なのだが…
車は渋滞にはまり、遅々として進まない。
サイレンの音に少しずつ周りの車は避けてくれてはいるのだが、これでは時間の問題だ。
「なんでこんな時間にこんなに混んでいるんだ…ったく、119にも一課にも繋がらないし…」
そういって八塚は舌打ちしたが、どうにもならない。
「ところで、あの、与川さんだっけ?
彼女がおかしくなる前に、何か動画を見ていたってことだけど、詳しく訊かせてもらえるかな」
八塚はサイレンに負けない大きな声で訊いた。
「あ、理恵が、えっと、尾本君に心肺蘇生してた娘ですけど、彼女がフォローしてたトイッテーの人が広めてる動画で、今すごい拡散されてるとかで」
阪水が声を張った。
「ああ、そこはアメフト部の彼らに訊いたよ」
「私も同じ人フォローしている。
コスプレしてる人気の女子だったから。
私も動画ちょっと見たかったけど、合コン中だったから、やめといたの…」
そう言ったのは賀茂だった。
「智香、大丈夫?無理しないでね」
阪水が心配そうに言った。
「大丈夫、だいぶ痛みが引いてきたから…」
賀茂はそう言って、左手で鞄からスマートフォンを取り出し、操作し始めた。
「ほんと、無理しないでいいからね。
それで、その、コスプレの女子って、もしかして有馬って娘のことかな?」
「あ、そうです。本名名乗ってないのに、よく知ってますね。
私は友だちから、同じ大学の一年生の娘だって教えてもらってたから知ってましたけど。
たぶん帝薬大の中じゃあ、一番フォロワー多いんじゃないかと思います。えっと、これです」
渋滞で車が動けなくなったのを見計らって、賀茂がスマートフォンを席の間から差し出してきた。
八塚は前を気にしながら、スマートフォンを受け取る。
<スマホ運転だな、見つかったらえらいことだ…>
八塚は前とスマートフォンを交互に見ながら、操作した。
丸いアイコンにアニメのキャラクターと思われるメイクをした顔がある。
印象は大分違うが、有馬なのだろう。
名前は『†Maria†@beyond★バズり中★』となっている。
『大変だよ!
外国人の人が誘拐されてゾンビにされちゃう!
ほんとに行方不明の人で、フェイクじゃないみたい!
助けてあげて!』
そういった内容がいくつも続き、動画のスクリーンショットと共にそれぞれヨウツベの動画へのリンクが張ってある。
その一つに日本人編があった。
八塚はそれをタップし、再生してみる。
「さて、あと一時間ほどです。いよいよですね…」
池田や戸井捜査官に教えてもらって見た動画の最新版の様だ。
八塚はボリュームを最大限に上げた。
前の車の動きとスマートフォンを交互に見ながら、音声だけは聞き逃さないように。
再生回数は、既に四百万回を超えている。
「…私は水道水を使ってウィルスをばらまくことにしましたぁ」
<まさか…佐藤一志が誘拐されたのは確か去年の五月…
さらにその前からウィルスがばら撒かれてたっていうのか…ということは…>
「うっ」
八塚は思わず、胸を押さえた。
これまで飲んできた水のことを思い出し、吐き気がする。
「あの、これって本当のことなんですか?」
「水道水にウィルスが入ってたってこと?」
「うわ、やばっ」
後ろの三人が騒ぎ始めた。
「まあ、落ち着いて。
フェイク動画の可能性もあるし、まだなんとも…」
八塚は自分に言い聞かせるように、三人を諭そうとした。
「私たちどうなっちゃうの?
水道水を使わない人なんていないじゃない。
それに私は、噛まれちゃったし…
今は、それほど痛くなくなってきてるけど、これって…」
<…!?>
涙声で言う賀茂の言葉に、八塚は動揺した。
<なんでさっき言った時に気付かなかった?
賀茂は先ほども、だいぶ痛みが引いてきた、と言っていた。
普通は逆だ。
アドレナリンが引いて、落ち着くほどに痛みが増すものなのに。
やはり、やばいなこれは…>
と、夜久と沖、二人のことが脳裏をよぎった。
<二人も同じような状況だったはずだ…
病院に連れて行こうとした女子大生はあの斎場にいて、ケガをしてたんで、病院に送る途中だった。
きっと車の中で発症し、そして、夜久さんの腕を噛んで…>
八塚はルームミラーで後ろを見た。
三人には、シートベルトをさせている。
<幸か不幸か、賀茂は真ん中…
これを上手く使う手はないか…考えろ…>
八塚がそう思った時、渋滞で前の車がまた動かなくなった。
八塚は決断した。
ハンドルを思い切り左に切り、前の車との僅かな隙間で歩道すれすれに停まる。
次にスマートフォンをタップして、動画も止めると、賀茂に返す。
「あの、渋滞がひどいようだから、ちょっと降りて前を見てきます」
八塚はサイレンを止め、エンジンを切り、カギを抜く、という一連の動作を素早く済ますと、外に出た。
そして、歩道から車の中の三人の目線が切れるくらいのところまで前に行くと、踵を返す。
車の左側に向い、後ろのドアを勢いよく開ける。
「大変だ!前の方で事故が起こっている!
江角さん、そのAED持ってきて!
阪水さんも手伝って!」
「え?なんで?私たちも?」
「いいから、早く!」
八塚の気勢に、呼ばれた二人は慌ててシートベルトを外し、外に出た。
「賀茂さん、すぐ戻るから待ってて」
阪水が降りた後、八塚が声を掛けた。
「え?病院はどうなるんですか…
さっきから、熱っぽくて…」
賀茂は右手を押さえながら、不安そうに言った。
「大丈夫、なんとかするから…」
八塚はそう言って、ドアを閉めると、キーレスキーのボタンを押し、車に鍵をかけた。
そして、外に出たものの、どうしていいかわからない二人を手招きして呼び寄せる。
「ちょっといいかい。
あの…残念だが…賀茂さんはもう駄目かもしれない…」
「ええ!?」
「それってどういう…」
江角が不安そうに訊いた。
「落ち着いて。
さっき車に乗る前に俺が通行人に呼びかけたの聞いてたと思うんだけど、この人が暴れ回ってしまう病気は、噛まれたり、引っかかれたりしても感染るようなんだ」
八塚はジェスチャーも交えて説明する。
「やっぱり…私、智香も佳代みたいになっちゃうんじゃないかと、内心びくついてたんだよね…」
阪水は振り返って、車の中の賀茂の様子を見る。
「賀茂さんは、傷が痛くなくなってきてるって言ってただろ?
こう言うのもなんだが、噛み千切られた手が、ものの十分そこらで痛くなくなると思うかい?」
「そう言われれば…」
「縛っちゃいるが、血が全く流れないなんてことはない。
いずれ、発症する確率が高い…」
タッタッタッ
突然、一人のサラリーマン風の男が三人の間を駆け抜けて行った。
「キャー…」
男が今来た方角の向うから、小さいが確かに叫び声が聞こえた。
声のした方を窺うと、また喧騒が聞こえる。
「これはやばいな…逃げよう」
「でも、智香が…」
江角はまだ友達を諦めきれないようだ。
「悪いが、置いて行くしかないだろう」
「そんな!友達を置いて行けません…」
「くそ、どうなっても知らんぞ!」
八塚はキーレスキーのボタンをまた押して、ドアを開けた。
智香はスマートフォンの画面をじっと見つめている。
<まだ、大丈夫のようだが…>
池田は少し迷った。
「賀茂さん、車がこれ以上動かない。
悪いが歩いて行けるかい?」
「智香、大丈夫?行こ…」
八塚に続いて、江角も声を掛けた。
「…四つ目は、視界に入るものを追いかける衝動を引き起こします。
五つ目は、噛む、食べるという欲求を増幅します…」
スマートフォンには先ほどの動画の続きが流れているようだ。
「噛む…」
賀茂が呟いた。
「もう、その動画を見ている暇はない。
急いでここを離れないと」
八塚は片膝をシートに付いて乗り込み、賀茂のシートベルトを外そうとした。
「噛む…噛む噛む噛む…」
賀茂の表情が明らかにおかしい。
八塚の声が聞こえてないのか、スマートフォンの画面をじっと見つめたままだ。
八塚はゆっくりと後退した。
「悪いが、やっぱりこれはもう、あきらめるしかない…」
「智香、しっかりして!」
江角が言うが、賀茂から応当はない。
「閉めるぞ」
バタン!
八塚はドアを勢いよく閉めると、またキーレスキーで鍵をかける。
「どうやら、賀茂さんは発症直前のようだ。
こんな状況ではどうしようもない。
助けられなくて本当にすまないが、ここに置いて行くしかないだろう」
「そんな、どうして…」
「智香、ごめん…」
二人も、賀茂の様子がおかしいことで諦め、それに従った。
「俺は警視庁に戻る。君たちはどうする?」
八塚は二人に言った。
「え?私、家に帰りたいです」
「私も…」
「わかった。けど、自分の足で帰るしかないな。
電車は閉鎖空間、使っちゃ駄目だ。
バスやタクシーもこの渋滞で動きがとれないと思うから、徒歩しかないな。
あ、あと、おかしな動きをしてる奴には近付くな」
「えー、そんな…」
「噛む!噛む!かああああむうううう!」
急に車の中から、怒声が聞こえてきた。
振り返って見ると、髪をふり乱した賀茂が窓の近くまで顔を近付け、暴れている。
三人は思わず、後ずさりした。
「危機一髪だったな。
大丈夫、たぶん、出られないよ。
この病気を発症したら、シートベルトを外したり、鍵を開けたりすることにまで、気が回らないみたいだから」
二人は見るに耐えられないのか、目を背ける。
「いずれにせよ、うかうかしてられない、早くここから離れよう」
「あの、私も付いて行っていいですか?」
「え?なら私も」
恐れをなしたのであろう、阪水と江角が立て続けに言った。
「それはいいけど…あ、そうだ。
ちょっと待ってて」
八塚は、車の後ろに回ると、トランクのロックをキーを直接差し込んで開ける。
キーレスキーのボタンだと、全てが開錠してしまうためだ。
中の賀茂はそれに気付いて後ろを向くが、どうすることもできす、喚き散らしているだけだ。
八塚はポリカーボネート製の盾と警棒の二セットを次々に取り出すと、すぐにまた鍵を閉めた。
<使うことはないと思ってたが…>
「これ、持っておくかい?」
と、手にしたものを二人に示す。
「美加佐は、ほら、ソフトボールやってたじゃん?
持ってたら」
江角が押しつけるような仕草で言った。
「そりゃ高校の時までやってたけど、バットと違うし…」
そう言いながらも、阪水はしぶしぶ一セットを受け取った。
「無理に使わなくていい。
あくまで、自己防衛手段だ。
逃げるのを優先して。
そうだ、君はこれだけでも持つかい?」
「え、私は大丈夫です。
そんなのださくて持ってたくないし」
江角は残りの楯を渡されそうになったが、そう言って受け取らない。
AEDを探している間に起きたことを知らないせいで、まだ事態を呑み込めていないようだ。
<女子はこんな時でも見た目を気にするのかなあ、まあしゃあないか>
「よし、じゃあ、行こう」
八塚は二人を連れて警視庁に向かい歩き始めた。
構えているせいか、街の騒がしさがいつもと違って聞こえてくる。
<そうだ…もう一回、課に連絡してみるか…>
八塚は警棒を脇に挟むと携帯電話を取り出し、一課に電話するが、応当がない。
<それなら…>
八塚は上司の持つ個人の携帯番号に電話した。
すると、今度は応当があった。
「あ、八塚です。お疲れ様です。
あの、ちょっと、いろいろあって報告を…
え?サイバー犯罪対策課の連中が…?」
電話の内容に八塚は青ざめた。
「そんな…あ、はい。わかりました。
じゃ、あとで。はい、切ります、切ります」
「どうかしたんですか?」
歩を停め、ただならぬ様子の八塚に阪水が声を掛けた。
「あんまり、詳しくは言えないが、警視庁もいろいろあって、忙しいようなんだ」
八塚はなんとか誤魔化そうとしたが、表情には焦りが色濃く出ていた。
サイバー犯罪対策課を皮切りに、ウィルスの症状を発症した者が続出し、今、それを鎮静化することに全庁を挙げて対応しているという。
<一体全体、何が起こってるんだ…
どうしてこうも急に次々にみんなゾンビになっていく?>
八塚は考えた。
<まさか…?あの動画か。
あの動画を見た者がゾンビになるのか…
あの襟野って娘もそうだ。
あの動画を見た後、発症したという。
中には帝薬大の映研の動画を先に見ていた者もいた。
そして、発症した木本、先ほどの賀茂もその動画を見ていた…
だが、葬儀場のスタッフの常松は…動画は見ていないはずだ。
ああ、でも、あの女子大生に肩を噛まれ、傷を負っていた。
ただ、彼は翌日になってやっと発症している、これは…>
「あの、刑事さん…あの!どうしたんですが…」
考え込む八塚に阪水が声を掛けた。
「ああ、ごめん、ちょっと考え事をしてて、もう少し、待ってて」
八塚は考えをさらに進めようと、阪水をやんわりと制した。
「ねえ、瑞枝、ちょっとこの盾だけでも持ってくれない?
やっぱり両方は重いから」
待つのに落ち着かない阪水が発したその言葉に、八塚ははっとした。
<両方は重い…?両方は…>
「――そうか、それだ!」
自分の閃きを、思わず声に出した。
<両方だ。つまり、あの動画を見たら発症する。
発症した者から感染しても発症する。
どちらも経験した者は発症が早くなる、そういうことだ。
ああ、これなら、合点できる。
そう考えると、恐らく、動画を見た時間や理解度も関係してくるのでは…>
「ねえ、君たち、さっきの動画、どのくらい見た?」
八塚は唐突に、かつゆっくりと質問を切り出した。
先ほどから、後ろの三人の女子大生が気になっている。
名前を訊くと、車の左側から、AEDを持って来た女が江角、手を噛まれた眼鏡の女が賀茂、付き添いの長身の女が阪水、とそれぞれ名乗った。
賀茂の右腕をきつく縛ってはいるが、さっきの木本とかいう男のように、いつ発症するともわからない。
そうしたら、両隣にいる二人に危害が及んでしまう。
とっさに病院に運ぼうとした結果で、致し方ない行動なのだが…
車は渋滞にはまり、遅々として進まない。
サイレンの音に少しずつ周りの車は避けてくれてはいるのだが、これでは時間の問題だ。
「なんでこんな時間にこんなに混んでいるんだ…ったく、119にも一課にも繋がらないし…」
そういって八塚は舌打ちしたが、どうにもならない。
「ところで、あの、与川さんだっけ?
彼女がおかしくなる前に、何か動画を見ていたってことだけど、詳しく訊かせてもらえるかな」
八塚はサイレンに負けない大きな声で訊いた。
「あ、理恵が、えっと、尾本君に心肺蘇生してた娘ですけど、彼女がフォローしてたトイッテーの人が広めてる動画で、今すごい拡散されてるとかで」
阪水が声を張った。
「ああ、そこはアメフト部の彼らに訊いたよ」
「私も同じ人フォローしている。
コスプレしてる人気の女子だったから。
私も動画ちょっと見たかったけど、合コン中だったから、やめといたの…」
そう言ったのは賀茂だった。
「智香、大丈夫?無理しないでね」
阪水が心配そうに言った。
「大丈夫、だいぶ痛みが引いてきたから…」
賀茂はそう言って、左手で鞄からスマートフォンを取り出し、操作し始めた。
「ほんと、無理しないでいいからね。
それで、その、コスプレの女子って、もしかして有馬って娘のことかな?」
「あ、そうです。本名名乗ってないのに、よく知ってますね。
私は友だちから、同じ大学の一年生の娘だって教えてもらってたから知ってましたけど。
たぶん帝薬大の中じゃあ、一番フォロワー多いんじゃないかと思います。えっと、これです」
渋滞で車が動けなくなったのを見計らって、賀茂がスマートフォンを席の間から差し出してきた。
八塚は前を気にしながら、スマートフォンを受け取る。
<スマホ運転だな、見つかったらえらいことだ…>
八塚は前とスマートフォンを交互に見ながら、操作した。
丸いアイコンにアニメのキャラクターと思われるメイクをした顔がある。
印象は大分違うが、有馬なのだろう。
名前は『†Maria†@beyond★バズり中★』となっている。
『大変だよ!
外国人の人が誘拐されてゾンビにされちゃう!
ほんとに行方不明の人で、フェイクじゃないみたい!
助けてあげて!』
そういった内容がいくつも続き、動画のスクリーンショットと共にそれぞれヨウツベの動画へのリンクが張ってある。
その一つに日本人編があった。
八塚はそれをタップし、再生してみる。
「さて、あと一時間ほどです。いよいよですね…」
池田や戸井捜査官に教えてもらって見た動画の最新版の様だ。
八塚はボリュームを最大限に上げた。
前の車の動きとスマートフォンを交互に見ながら、音声だけは聞き逃さないように。
再生回数は、既に四百万回を超えている。
「…私は水道水を使ってウィルスをばらまくことにしましたぁ」
<まさか…佐藤一志が誘拐されたのは確か去年の五月…
さらにその前からウィルスがばら撒かれてたっていうのか…ということは…>
「うっ」
八塚は思わず、胸を押さえた。
これまで飲んできた水のことを思い出し、吐き気がする。
「あの、これって本当のことなんですか?」
「水道水にウィルスが入ってたってこと?」
「うわ、やばっ」
後ろの三人が騒ぎ始めた。
「まあ、落ち着いて。
フェイク動画の可能性もあるし、まだなんとも…」
八塚は自分に言い聞かせるように、三人を諭そうとした。
「私たちどうなっちゃうの?
水道水を使わない人なんていないじゃない。
それに私は、噛まれちゃったし…
今は、それほど痛くなくなってきてるけど、これって…」
<…!?>
涙声で言う賀茂の言葉に、八塚は動揺した。
<なんでさっき言った時に気付かなかった?
賀茂は先ほども、だいぶ痛みが引いてきた、と言っていた。
普通は逆だ。
アドレナリンが引いて、落ち着くほどに痛みが増すものなのに。
やはり、やばいなこれは…>
と、夜久と沖、二人のことが脳裏をよぎった。
<二人も同じような状況だったはずだ…
病院に連れて行こうとした女子大生はあの斎場にいて、ケガをしてたんで、病院に送る途中だった。
きっと車の中で発症し、そして、夜久さんの腕を噛んで…>
八塚はルームミラーで後ろを見た。
三人には、シートベルトをさせている。
<幸か不幸か、賀茂は真ん中…
これを上手く使う手はないか…考えろ…>
八塚がそう思った時、渋滞で前の車がまた動かなくなった。
八塚は決断した。
ハンドルを思い切り左に切り、前の車との僅かな隙間で歩道すれすれに停まる。
次にスマートフォンをタップして、動画も止めると、賀茂に返す。
「あの、渋滞がひどいようだから、ちょっと降りて前を見てきます」
八塚はサイレンを止め、エンジンを切り、カギを抜く、という一連の動作を素早く済ますと、外に出た。
そして、歩道から車の中の三人の目線が切れるくらいのところまで前に行くと、踵を返す。
車の左側に向い、後ろのドアを勢いよく開ける。
「大変だ!前の方で事故が起こっている!
江角さん、そのAED持ってきて!
阪水さんも手伝って!」
「え?なんで?私たちも?」
「いいから、早く!」
八塚の気勢に、呼ばれた二人は慌ててシートベルトを外し、外に出た。
「賀茂さん、すぐ戻るから待ってて」
阪水が降りた後、八塚が声を掛けた。
「え?病院はどうなるんですか…
さっきから、熱っぽくて…」
賀茂は右手を押さえながら、不安そうに言った。
「大丈夫、なんとかするから…」
八塚はそう言って、ドアを閉めると、キーレスキーのボタンを押し、車に鍵をかけた。
そして、外に出たものの、どうしていいかわからない二人を手招きして呼び寄せる。
「ちょっといいかい。
あの…残念だが…賀茂さんはもう駄目かもしれない…」
「ええ!?」
「それってどういう…」
江角が不安そうに訊いた。
「落ち着いて。
さっき車に乗る前に俺が通行人に呼びかけたの聞いてたと思うんだけど、この人が暴れ回ってしまう病気は、噛まれたり、引っかかれたりしても感染るようなんだ」
八塚はジェスチャーも交えて説明する。
「やっぱり…私、智香も佳代みたいになっちゃうんじゃないかと、内心びくついてたんだよね…」
阪水は振り返って、車の中の賀茂の様子を見る。
「賀茂さんは、傷が痛くなくなってきてるって言ってただろ?
こう言うのもなんだが、噛み千切られた手が、ものの十分そこらで痛くなくなると思うかい?」
「そう言われれば…」
「縛っちゃいるが、血が全く流れないなんてことはない。
いずれ、発症する確率が高い…」
タッタッタッ
突然、一人のサラリーマン風の男が三人の間を駆け抜けて行った。
「キャー…」
男が今来た方角の向うから、小さいが確かに叫び声が聞こえた。
声のした方を窺うと、また喧騒が聞こえる。
「これはやばいな…逃げよう」
「でも、智香が…」
江角はまだ友達を諦めきれないようだ。
「悪いが、置いて行くしかないだろう」
「そんな!友達を置いて行けません…」
「くそ、どうなっても知らんぞ!」
八塚はキーレスキーのボタンをまた押して、ドアを開けた。
智香はスマートフォンの画面をじっと見つめている。
<まだ、大丈夫のようだが…>
池田は少し迷った。
「賀茂さん、車がこれ以上動かない。
悪いが歩いて行けるかい?」
「智香、大丈夫?行こ…」
八塚に続いて、江角も声を掛けた。
「…四つ目は、視界に入るものを追いかける衝動を引き起こします。
五つ目は、噛む、食べるという欲求を増幅します…」
スマートフォンには先ほどの動画の続きが流れているようだ。
「噛む…」
賀茂が呟いた。
「もう、その動画を見ている暇はない。
急いでここを離れないと」
八塚は片膝をシートに付いて乗り込み、賀茂のシートベルトを外そうとした。
「噛む…噛む噛む噛む…」
賀茂の表情が明らかにおかしい。
八塚の声が聞こえてないのか、スマートフォンの画面をじっと見つめたままだ。
八塚はゆっくりと後退した。
「悪いが、やっぱりこれはもう、あきらめるしかない…」
「智香、しっかりして!」
江角が言うが、賀茂から応当はない。
「閉めるぞ」
バタン!
八塚はドアを勢いよく閉めると、またキーレスキーで鍵をかける。
「どうやら、賀茂さんは発症直前のようだ。
こんな状況ではどうしようもない。
助けられなくて本当にすまないが、ここに置いて行くしかないだろう」
「そんな、どうして…」
「智香、ごめん…」
二人も、賀茂の様子がおかしいことで諦め、それに従った。
「俺は警視庁に戻る。君たちはどうする?」
八塚は二人に言った。
「え?私、家に帰りたいです」
「私も…」
「わかった。けど、自分の足で帰るしかないな。
電車は閉鎖空間、使っちゃ駄目だ。
バスやタクシーもこの渋滞で動きがとれないと思うから、徒歩しかないな。
あ、あと、おかしな動きをしてる奴には近付くな」
「えー、そんな…」
「噛む!噛む!かああああむうううう!」
急に車の中から、怒声が聞こえてきた。
振り返って見ると、髪をふり乱した賀茂が窓の近くまで顔を近付け、暴れている。
三人は思わず、後ずさりした。
「危機一髪だったな。
大丈夫、たぶん、出られないよ。
この病気を発症したら、シートベルトを外したり、鍵を開けたりすることにまで、気が回らないみたいだから」
二人は見るに耐えられないのか、目を背ける。
「いずれにせよ、うかうかしてられない、早くここから離れよう」
「あの、私も付いて行っていいですか?」
「え?なら私も」
恐れをなしたのであろう、阪水と江角が立て続けに言った。
「それはいいけど…あ、そうだ。
ちょっと待ってて」
八塚は、車の後ろに回ると、トランクのロックをキーを直接差し込んで開ける。
キーレスキーのボタンだと、全てが開錠してしまうためだ。
中の賀茂はそれに気付いて後ろを向くが、どうすることもできす、喚き散らしているだけだ。
八塚はポリカーボネート製の盾と警棒の二セットを次々に取り出すと、すぐにまた鍵を閉めた。
<使うことはないと思ってたが…>
「これ、持っておくかい?」
と、手にしたものを二人に示す。
「美加佐は、ほら、ソフトボールやってたじゃん?
持ってたら」
江角が押しつけるような仕草で言った。
「そりゃ高校の時までやってたけど、バットと違うし…」
そう言いながらも、阪水はしぶしぶ一セットを受け取った。
「無理に使わなくていい。
あくまで、自己防衛手段だ。
逃げるのを優先して。
そうだ、君はこれだけでも持つかい?」
「え、私は大丈夫です。
そんなのださくて持ってたくないし」
江角は残りの楯を渡されそうになったが、そう言って受け取らない。
AEDを探している間に起きたことを知らないせいで、まだ事態を呑み込めていないようだ。
<女子はこんな時でも見た目を気にするのかなあ、まあしゃあないか>
「よし、じゃあ、行こう」
八塚は二人を連れて警視庁に向かい歩き始めた。
構えているせいか、街の騒がしさがいつもと違って聞こえてくる。
<そうだ…もう一回、課に連絡してみるか…>
八塚は警棒を脇に挟むと携帯電話を取り出し、一課に電話するが、応当がない。
<それなら…>
八塚は上司の持つ個人の携帯番号に電話した。
すると、今度は応当があった。
「あ、八塚です。お疲れ様です。
あの、ちょっと、いろいろあって報告を…
え?サイバー犯罪対策課の連中が…?」
電話の内容に八塚は青ざめた。
「そんな…あ、はい。わかりました。
じゃ、あとで。はい、切ります、切ります」
「どうかしたんですか?」
歩を停め、ただならぬ様子の八塚に阪水が声を掛けた。
「あんまり、詳しくは言えないが、警視庁もいろいろあって、忙しいようなんだ」
八塚はなんとか誤魔化そうとしたが、表情には焦りが色濃く出ていた。
サイバー犯罪対策課を皮切りに、ウィルスの症状を発症した者が続出し、今、それを鎮静化することに全庁を挙げて対応しているという。
<一体全体、何が起こってるんだ…
どうしてこうも急に次々にみんなゾンビになっていく?>
八塚は考えた。
<まさか…?あの動画か。
あの動画を見た者がゾンビになるのか…
あの襟野って娘もそうだ。
あの動画を見た後、発症したという。
中には帝薬大の映研の動画を先に見ていた者もいた。
そして、発症した木本、先ほどの賀茂もその動画を見ていた…
だが、葬儀場のスタッフの常松は…動画は見ていないはずだ。
ああ、でも、あの女子大生に肩を噛まれ、傷を負っていた。
ただ、彼は翌日になってやっと発症している、これは…>
「あの、刑事さん…あの!どうしたんですが…」
考え込む八塚に阪水が声を掛けた。
「ああ、ごめん、ちょっと考え事をしてて、もう少し、待ってて」
八塚は考えをさらに進めようと、阪水をやんわりと制した。
「ねえ、瑞枝、ちょっとこの盾だけでも持ってくれない?
やっぱり両方は重いから」
待つのに落ち着かない阪水が発したその言葉に、八塚ははっとした。
<両方は重い…?両方は…>
「――そうか、それだ!」
自分の閃きを、思わず声に出した。
<両方だ。つまり、あの動画を見たら発症する。
発症した者から感染しても発症する。
どちらも経験した者は発症が早くなる、そういうことだ。
ああ、これなら、合点できる。
そう考えると、恐らく、動画を見た時間や理解度も関係してくるのでは…>
「ねえ、君たち、さっきの動画、どのくらい見た?」
八塚は唐突に、かつゆっくりと質問を切り出した。