ブアメードの血

58

 志田正は緊張していた。


 事情の説明を受けた志田は、岡嵜邸に向かうことを決め、ヘリコプターの無線を使って捜査本部に連絡した。

逆に捜査本部から受けた情報としては、先ほど、警察庁の公安部が岡嵜母娘を逮捕したらしい、という不確かなこと。

そのため、志田と落谷は先行的に岡嵜邸へ向かい、その情報の真偽と人質の安否両方の確認を命じられた。


 警視庁は、指導的立場の警察庁が捜査本部に情報を下ろさず、独自で動いたことに不審を募らせていた。

岡嵜邸の所在地も志田からの連絡で初めて判明したこと。

警視庁としては、ただちに現場に応援部隊を送りたいところだった。

だが、人員もヘリコプターの数も足りず、また、操縦士や整備士にも発症者が出たり、そのせいか墜落事故まで発生したことから、それは困難だった。

現在、まともに動けるのは、たまたま要人救助として、このヘリコプターに同乗した志田と落谷の二人だけ。


 志田は、民間人を巻き込む訳にはいかないと、今一度、自分たちだけで岡嵜邸へ向かうことを提案したが、四人はこれを拒否。

先ほど、池田と中津で何かをやるかどうか話していたのは、実は自分たち刑事を襲ってでも、岡嵜邸へ向かおうとしていた、という決意まで明かされた始末だ。

教授の救出任務も重要だった志田は、提案を断念。

教授だけ警視庁へ同行してくれることは確約したため、池田たちの無理な要求を呑むことにした。

そして、結局、成瀬一人がヘリコプターに残り、勝を警視庁に連れて行く手筈となった。


 そんな中、わずか八分程で、先ほどまで谷津田たちの乗って来たヘリコプターのあった場所に、図らずも着陸した。

志田と落谷は、池田からスマホ用のバッテリーに付いているライトを懐中電灯の代わりとして借りることとなった。

自分たちの持つスマートフォンにもライトが付いているが、バッテリーの消耗を防ぐためであった。

中津はヘルメットをやはり重たいからと脱いでおり、ヘリコプターに置いていくことにした。

その代り、勝が持っていた杖を護身用として預かった。

そうした装備の整理の後、いざ池田たちがヘリコプターから降りる時になって、勝が改まった。


 「静、本当にお前も行くのか?」

「今さら、何言ってるの、お父さん。

大丈夫、ちゃんと、お兄ちゃんを見つけて帰るから」

「お前は言い出したら聞かないからな。

本当に気を付けろ、無理はするな。

お前まで何かあったら…」

「わかってる。

池田さんが付いてるから大丈夫だってば」

父娘の会話の後、勝は池田に向き直った。

「池田さん、娘をよろしく頼みます。

勝手を言いますが、くれぐれも危険は避けていただいて…

一志は…ほんと、わがままな奴ですが、あれでもかけがえのない愚息です。

できれば、助けてやってください」

「静さんは命に代えてもお守りします。

一志さんについては、必ず、とは言えませんが、最大限、努力します」

「いえ、教授、我々が付いておりますから」

志田がぼそりと割って入る。

「それでは、参りましょうか」

その言葉に、窓側にいた落谷がドアをスライドして開けた。


「成瀬、教授をよろしく頼む」

「お気を付けて」

「それから、瑠奈さんにもよろしくお伝えください」

残る成瀬に、志田、落谷、そして、池田が最後に真顔で言った。

志田と落谷には強く返事をした成瀬だったが、池田にだけは

「それは、いたしかねます」

と言い返し、不機嫌な表情を露わにした。

瑠奈とは成瀬の妹で、池田が付き合っていた彼女だった。

「やっぱり、元カノのお姉さんでしたか」

先にヘリから降りた中津が耳ざとくそれを聞いて言ったが、残りの者は首を傾げるだけだった。

  ◇

 池田は、半年前まで、成瀬瑠奈と付き合っていた。

まだ、八塚と里奈が付き合い始めた頃、瑠奈が自分も彼氏が欲しいと里奈に愚痴った。

それをなんとなく里奈が八塚に漏らしたところ、探偵をやっている池田くらいしか紹介できる相手がいない、と言われた。

が、「探偵?何それ、おもしろそう」という、変わり者の瑠奈の申し出によって、話はあれよあれよと進み、池田は瑠奈と付き合うことになった。


 ただ、瑠奈の興味本位で付き合い始めただけの関係は長続きせず、二人は自然解消したのだった。

ドラマやアニメなどの物語に出てくる探偵と、現実の探偵の実像は余りにかけ離れている。

それでも瑠奈が求めたのは、前者の探偵のイメージであり、池田の誠実さは現実を直視させるだけで、瑠奈の心に響かなかった。

  ◇

 池田、静、中津、志田、落谷の五人を下ろしたヘリコプターは、すぐに上空へと飛び立っていった。

五人は、空を見上げてその様子を見送る。

そのヘリコプターの音が遠ざかろうとした時だった。

「痛!!」

誰かが、叫び声を上げた。

他の四人は顔を下ろして、叫び声の主を見た。

落谷だ。

「キャアー!」

静と中津は悲鳴を上げた。

ヘリコプターの操縦士らしき恰好をした女が、落谷の首元に後ろから噛み付いていたのだ。


「しまった!」

志田は慌てて銃を取り出すと、落谷に向かって走った。


池田もほぼ同時に動き出し、噛み付いた女を後ろから羽交い絞めにする。

操縦士はそれでも、落谷を噛むことを止めなかった。

「痛い、痛い!助けて!

早く、こいつを何とか、ぐああああ!」

落谷は痛みに暴れまくる。

「撃ちます!池田さんはもういいですから離れて!」

志田が噛み付く操縦士の頭に一メートルもない至近距離で銃口を向けた。

その言葉に中津が静の肩を抱えて、視線を外す。

バン!

池田が離れた直後に乾いた銃声が響くと、女はばたりと倒れた。

それでも、まだピクピクッとまだ痙攣している。

近くで銃を撃たれた池田は、まだ耳内で響く銃声に、耳を押さえていた。


 「そんな…俺、噛まれちまったよ、なんで俺なんだよ、くそがああ」

落谷が噛み傷を手で押さえて、地団駄を踏む子供のように喚き散らしている。


<くっ、ぬかった…>

「落谷、落ち着け!」

志田は後悔の念を押さえながら、大声を張り上げた。


「志田さん、俺、俺どうしたら…

俺もゾンビみたいになっちまうんですかね…」

「すまん、自分としたことが…

ヘリに気を取られてしまって…」

「助けてくださいよ、ほら、今ならまだヘリに引き返してもらえるんじゃないですか?

そうだ、電話で連絡を…」

落谷は自分のスマートフォンを取り出すと、電話をかけ始める。

志田以外の三人は黙ってその様子を見守ることしかできない。


「くそ!繋がらねえ!くそおぉ!うう…」

落谷は急に涙声になった。

「落谷さん、電話は繋がらないかもしれませんが、リネならまだネットが生きているようなので、使えるはずです。

ご家族にその…ご連絡をしてみては…」

池田が落谷を刺激しないように下手に出て言った。

「…リネ…か。わかりました。

やってみますよ。

はは…家族や彼女"たち"に今生の別れってやつですか。

まさか、今日、こんなことになろうとは…思いもしなかった。

付き合っている女、なん股もかけてた罰が当たったのか、単についてないのか、なんなのか…うっ!」

傷口が疼くのであろう、落谷は表情を歪める。

「落谷、こんな時になんだが、銃を渡してくれるか」

「え?…いや、勘弁してくださいよ。

こうなったからには、どうせ、俺一人、ここに残されるんでしょう。

これ以上、ゾンビに襲われたら、俺、どうやって戦えばいいんですか?」

「――落谷、言いにくいことだが、お前もいずれ発症するだろう。

それはわかっているはずだ…」

「そ、そんな…くっ、ううううぅ」

落谷はとうとう泣き始めた。

「本当にすまん、申し訳ない。

守れなかったことを許してくれとも言えん。

だが、覚悟を決めてくれ。

お前の言うとおり、俺はここにお前を置いて、この三人を連れて、岡嵜邸に向わなければならない。

発症を防ぐ手立ては今のところわからないし…」

「わかりました…」

「落谷…」

「ただ、銃はやはり渡せません。

それから手錠も…」

落谷はそう言って、駐車場と道路の境にある逆U字型の柵に向かってゆっくりと歩き始める。

「何を…」

志田が肩を貸して歩く。


落谷は柵のところで止まると、銃を取り出し、弾倉を外すと、弾を一発だけ残して取り出し、

「これをお渡しするなら、いいでしょう…」

と言って志田に四発の弾を預けた。

それから、手錠を取り出して、自分の腕と柵にそれぞれかける。

「これで、俺が万が一、じゃないか…たぶん発症するんだろうけども、誰かを襲うことはないでしょう。

その前に、俺の判断で残った弾で自分の身を処しますよ」

「落谷、お前…」

「志田さん、これは俺の最初で最後のわがままですから、聞いてくださいよ。

俺は今まで、あなたにずっと従ってきた。

死に際くらい、自分で決めさせてください」

「わかった。本当にすまん…」

志田は目を強く瞑って、落谷に頭を下げた。


 落谷を残し、志田を先頭に残りの三人は駐車場を後にした。

<着陸時には、誰もいなかったはずの駐車場…

ヘリコプターの特性上、つい見上げてしまった視線…

そしてそのローターの騒音で、聞こえなかった忍び寄る陰の物音…

ほんの少しの気の緩みで落谷を…

全く、油断ができないな…

五感を研ぎ澄まして、全員が注意を払ってもらわなければ…>


その時、後方で一発の銃声が小さく聞こえた。

志田はその音の意味を噛みしめることしかできなかった。
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