ブアメードの血
5
池田敬は悩んでいた。
目の前の依頼者の内容が余りにも荒唐無稽だったからだ。
ここは、雑居ビルの二階にある池田探偵事務所。
元刑事の叔父が経営を始めた探偵業。
池田も警察官だったが、職場の体質に嫌気が差して退職し、叔父を手伝うことにした。
その叔父が死に、引き継いだばかり。
大手に押され、個人探偵事務所の実入りは少なく、仕事を選んでいる余裕はない。
<しかし、どうしたものかな…>
「ですから、あれはお兄ちゃんなんです!
間違いありません!」
依頼者である佐藤静は断言した。
静の主張は、学園祭で見た映画が作り物ではなく、そこに映っている人物が自分の兄で、今もどこかに監禁されているというのだ。
信じろ、という方が無理である。
「映画の中の役者は真っ黒い袋を被っていたんでしょう?
顔は確認できなかった。たまたま、声の似た役者だっただけではないんですか?」
「違います!私は妹だからわかります。
おかしな点もいっぱいあるんです。
お兄ちゃ…えっと、兄は大学の時、あの映研に入っていたんです。
兄が在籍中に作った映画で、恐怖の館っていうのがあって、それを見ようと思ったのに、急に、今言った映画に差し替えられてて。
最後の驚かし方は同じですけど、全く別物です。
それで、映研の人に訊いても、なんかウヤムヤにはぐらかされて、ちゃんと答えてくれないんです。
映画の中でも、おかしなことが…」
「それなら、お兄さんでもおかしくないかもしれませんね」
静の勢いに飲まれまいと池田は途中で口を挟んだが、
「え、そうでしょ!」
と静は自分の意見が認められたと思い、うれしそうに言った。
「いや、それこそお兄さんが在学中に撮ったんじゃないかということですよ。
自分たちの代で作ったんじゃないから、映研の方も言いにくいだけでは?
内容も似てるんでしょう?
そのー、最後のネタバレの部分も」
「ですから!違いますって!
何度言ったらわかってくれるんですか!」
静の勢いが良くなる度に、池田の視線の向こうにいる、スーツをきめた事務員の若い男、木塚が苦笑していた。
池田のスーツは探偵を始めて以来着ているもので、だいぶ草臥れている。
「うーん、仮に、あくまで仮にですよ、あなたの言われる通りだとしても、あなたの両親は失踪届を出されていないんですよね?
そして、この依頼の件も知らない。
それでは、こちらも受けにくいんですよ。
あなたは未成年ですから」
「もう、何かと言っては、未成年、未成年って、子供扱いして、なんですか!
来年でもう二十歳ですよ。
警察も未成年じゃあ両親の許可がないと失踪届は受理できないって、聞いてもらえないし。
お金は払うんだから、いいじやないですか。
お願いします!」
静はそう言って、ブランド物の手提げバッグから札束を一つ、机の上に取り出した。
「そんな、大金を、持ち歩いちゃ…いけない…」
池田はそう吐き出すように言いつつも、札束に目が眩んだ。
<こんな娘が、なんでこんな金持っているんだ?
お嬢様の見本のような恰好だし、意外と金持ち…>
「私、本気なんです。
兄を探したいんです。
会いたいんです。
これじゃあ、足りないんですか?
ちゃんと見積もってください」
静は真っ直ぐ池田を見つめる。
ショートの艶やかな黒髪、まだ幼さの残る顔立ち、くっきりとした眉に大きな目。
<かわいい…
そんな目で見つめないでくれ、いや、そうではなくて、どうしようか>
「あのー、そうは言っても、民法で決められていましてね。
未成年者の法律行為は法定代理人の同意、要は契約には両親のどちらかでも許可がいるということなんですよ。
あなたの両親にこのことがばれて、と言ったら言葉が悪いか、ええと、知れて、一方的に契約解除されても、こちらは言って出るところはないんですよ。
十八歳を成年とする法律はまだ先のことですし。
要はこちらが丸損する可能性がある訳です」
「それは、先に行った探偵社にも聞かされましたから、知ってます。
そんなことはさせませんから。
約束します!」
「約束されても、法律は許しちゃくれませんから」
「もう、こんなのばっかり!
来年、成人するんだから、いいじゃないですか!」
静は子供のように頬を膨らませ、唇を尖らせた。
「…あの、佐藤さん、誕生日はいつです?」
「え、五月十三日ですけど」
<あと半年かあ>
池田は心の中で呟く。
<二十歳となった瞬間、民法第五条の効力はなくなる。
しかし、この調子ではそれを待ってもいられないな。
この娘はあれこれ言っているが、話を聞く限り、まず夜逃げと見て間違いないだろう。
失踪人の捜索は私的な理由からも受けたいところだが、借金から逃げている人間を探し出すのは難しい。
依頼を受けても、金だけいただいて、この娘を余計に傷付けてしまうかも知れない。
だからと言って、断ったとて、うちが駄目となれば、この様子じゃ他の探偵業者にあたるだろう。
しかし、お金は欲しい…
そして、この娘を他にやるのは金以外の意味でも惜しい…>
仕事のほとんどは熟年世代の浮気調査や子の交際相手の素行調査。
他の探偵業者には、夜逃げ屋や別れさせ屋のようなグレーゾーンの内容を引き受けているところもあるが、ここではやらない。
猫のしっぽを追いかけてでも、法に触れない依頼を引き受けてきた。
こんな今までにない清涼剤のようなお客を、そんなコンプライアンスの低い探偵事務所に持っていかれたくない。
何より、行方不明者の捜索となれば…
「あの…あのですね、こういうのはどうでしょう。
映画の件はひとまず置いといて、お兄さんが行方不明なのは事実ですよね。
なので、あなたのお兄さんを探し出す準備を、私はこれからします」
「はい」
静は大人しくなって、次を促すような返事をした。
「準備なので、契約はまだです」
「はい」
「ちょうど半年くらいで、準備が出来そうです…」
「それじゃあ、遅過ぎます!」
「いや、待って、そうじゃなくて、その誕生日、五月ですよね、その日に契約を結ぼうと…」
「ああ、え、でも…」
「あ、もちょっと聞いてね、その…五月まであくまで探す準備、ということで、その探、いや、動きますから」
「動く…?」
「ですから、その、手がかりとかそういうのを準備の段階で、用意するための作業というか…」
「作業…?」
「あの、わかってもらえませんかね?」
「え、何をですか?」
<ああ、まどろっこしい。
うまく言えない俺も悪いが、遠回しに言っても、十九歳の娘には通じないか>
池田は頭を掻いた。
「ですから…」
「あの、探す準備の中で、半年以内に見つかったらどうするんですか?」
静が急にわかったようなことを言い始めた。
「その場合は、ほら、まだ見つかってないという体で」
「て、い、で?」
「見つかってないこととして、契約したとたんに見つかったことにすれば、いいんじゃないかと」
「ないかと」
「あの、言ってる意味わかってくれてます?」
「わかります!要は受けてくださるんですね!
ありがとうございます!」
「いや、ですから、受けるのは、あくまで、五月十三日、という体で」
池田がゆっくりと諭すように言った。
「ていで!」
わかっているのかどうか、静はうれしそうに微笑んだ。
<かわいい…>
「法律上の誕生日は前日ですけど…いや、この場合…調べて置く価値はありそうですね…」
木塚が眼鏡を左手で直しながら呟いているのには気付かず、池田は鼻の下を伸ばしていた。
目の前の依頼者の内容が余りにも荒唐無稽だったからだ。
ここは、雑居ビルの二階にある池田探偵事務所。
元刑事の叔父が経営を始めた探偵業。
池田も警察官だったが、職場の体質に嫌気が差して退職し、叔父を手伝うことにした。
その叔父が死に、引き継いだばかり。
大手に押され、個人探偵事務所の実入りは少なく、仕事を選んでいる余裕はない。
<しかし、どうしたものかな…>
「ですから、あれはお兄ちゃんなんです!
間違いありません!」
依頼者である佐藤静は断言した。
静の主張は、学園祭で見た映画が作り物ではなく、そこに映っている人物が自分の兄で、今もどこかに監禁されているというのだ。
信じろ、という方が無理である。
「映画の中の役者は真っ黒い袋を被っていたんでしょう?
顔は確認できなかった。たまたま、声の似た役者だっただけではないんですか?」
「違います!私は妹だからわかります。
おかしな点もいっぱいあるんです。
お兄ちゃ…えっと、兄は大学の時、あの映研に入っていたんです。
兄が在籍中に作った映画で、恐怖の館っていうのがあって、それを見ようと思ったのに、急に、今言った映画に差し替えられてて。
最後の驚かし方は同じですけど、全く別物です。
それで、映研の人に訊いても、なんかウヤムヤにはぐらかされて、ちゃんと答えてくれないんです。
映画の中でも、おかしなことが…」
「それなら、お兄さんでもおかしくないかもしれませんね」
静の勢いに飲まれまいと池田は途中で口を挟んだが、
「え、そうでしょ!」
と静は自分の意見が認められたと思い、うれしそうに言った。
「いや、それこそお兄さんが在学中に撮ったんじゃないかということですよ。
自分たちの代で作ったんじゃないから、映研の方も言いにくいだけでは?
内容も似てるんでしょう?
そのー、最後のネタバレの部分も」
「ですから!違いますって!
何度言ったらわかってくれるんですか!」
静の勢いが良くなる度に、池田の視線の向こうにいる、スーツをきめた事務員の若い男、木塚が苦笑していた。
池田のスーツは探偵を始めて以来着ているもので、だいぶ草臥れている。
「うーん、仮に、あくまで仮にですよ、あなたの言われる通りだとしても、あなたの両親は失踪届を出されていないんですよね?
そして、この依頼の件も知らない。
それでは、こちらも受けにくいんですよ。
あなたは未成年ですから」
「もう、何かと言っては、未成年、未成年って、子供扱いして、なんですか!
来年でもう二十歳ですよ。
警察も未成年じゃあ両親の許可がないと失踪届は受理できないって、聞いてもらえないし。
お金は払うんだから、いいじやないですか。
お願いします!」
静はそう言って、ブランド物の手提げバッグから札束を一つ、机の上に取り出した。
「そんな、大金を、持ち歩いちゃ…いけない…」
池田はそう吐き出すように言いつつも、札束に目が眩んだ。
<こんな娘が、なんでこんな金持っているんだ?
お嬢様の見本のような恰好だし、意外と金持ち…>
「私、本気なんです。
兄を探したいんです。
会いたいんです。
これじゃあ、足りないんですか?
ちゃんと見積もってください」
静は真っ直ぐ池田を見つめる。
ショートの艶やかな黒髪、まだ幼さの残る顔立ち、くっきりとした眉に大きな目。
<かわいい…
そんな目で見つめないでくれ、いや、そうではなくて、どうしようか>
「あのー、そうは言っても、民法で決められていましてね。
未成年者の法律行為は法定代理人の同意、要は契約には両親のどちらかでも許可がいるということなんですよ。
あなたの両親にこのことがばれて、と言ったら言葉が悪いか、ええと、知れて、一方的に契約解除されても、こちらは言って出るところはないんですよ。
十八歳を成年とする法律はまだ先のことですし。
要はこちらが丸損する可能性がある訳です」
「それは、先に行った探偵社にも聞かされましたから、知ってます。
そんなことはさせませんから。
約束します!」
「約束されても、法律は許しちゃくれませんから」
「もう、こんなのばっかり!
来年、成人するんだから、いいじゃないですか!」
静は子供のように頬を膨らませ、唇を尖らせた。
「…あの、佐藤さん、誕生日はいつです?」
「え、五月十三日ですけど」
<あと半年かあ>
池田は心の中で呟く。
<二十歳となった瞬間、民法第五条の効力はなくなる。
しかし、この調子ではそれを待ってもいられないな。
この娘はあれこれ言っているが、話を聞く限り、まず夜逃げと見て間違いないだろう。
失踪人の捜索は私的な理由からも受けたいところだが、借金から逃げている人間を探し出すのは難しい。
依頼を受けても、金だけいただいて、この娘を余計に傷付けてしまうかも知れない。
だからと言って、断ったとて、うちが駄目となれば、この様子じゃ他の探偵業者にあたるだろう。
しかし、お金は欲しい…
そして、この娘を他にやるのは金以外の意味でも惜しい…>
仕事のほとんどは熟年世代の浮気調査や子の交際相手の素行調査。
他の探偵業者には、夜逃げ屋や別れさせ屋のようなグレーゾーンの内容を引き受けているところもあるが、ここではやらない。
猫のしっぽを追いかけてでも、法に触れない依頼を引き受けてきた。
こんな今までにない清涼剤のようなお客を、そんなコンプライアンスの低い探偵事務所に持っていかれたくない。
何より、行方不明者の捜索となれば…
「あの…あのですね、こういうのはどうでしょう。
映画の件はひとまず置いといて、お兄さんが行方不明なのは事実ですよね。
なので、あなたのお兄さんを探し出す準備を、私はこれからします」
「はい」
静は大人しくなって、次を促すような返事をした。
「準備なので、契約はまだです」
「はい」
「ちょうど半年くらいで、準備が出来そうです…」
「それじゃあ、遅過ぎます!」
「いや、待って、そうじゃなくて、その誕生日、五月ですよね、その日に契約を結ぼうと…」
「ああ、え、でも…」
「あ、もちょっと聞いてね、その…五月まであくまで探す準備、ということで、その探、いや、動きますから」
「動く…?」
「ですから、その、手がかりとかそういうのを準備の段階で、用意するための作業というか…」
「作業…?」
「あの、わかってもらえませんかね?」
「え、何をですか?」
<ああ、まどろっこしい。
うまく言えない俺も悪いが、遠回しに言っても、十九歳の娘には通じないか>
池田は頭を掻いた。
「ですから…」
「あの、探す準備の中で、半年以内に見つかったらどうするんですか?」
静が急にわかったようなことを言い始めた。
「その場合は、ほら、まだ見つかってないという体で」
「て、い、で?」
「見つかってないこととして、契約したとたんに見つかったことにすれば、いいんじゃないかと」
「ないかと」
「あの、言ってる意味わかってくれてます?」
「わかります!要は受けてくださるんですね!
ありがとうございます!」
「いや、ですから、受けるのは、あくまで、五月十三日、という体で」
池田がゆっくりと諭すように言った。
「ていで!」
わかっているのかどうか、静はうれしそうに微笑んだ。
<かわいい…>
「法律上の誕生日は前日ですけど…いや、この場合…調べて置く価値はありそうですね…」
木塚が眼鏡を左手で直しながら呟いているのには気付かず、池田は鼻の下を伸ばしていた。