ブアメードの血
8
佐藤一志はぐったりしていた。
「はい、次の講義の時間となりました…が、栄養補給はやはりしていないようですね。
仕方ない、点滴を打ちます」
医者は部屋に戻って来ると、そう言って手際よく、一志の腕に点滴を施し始める。
<今からゾンビにする相手になんでこんなことをするんだ>
一志はそう思いながら、それを拒否しようと少し抵抗したが、力がもう入らず、すぐに為すがままとなった。
「さて、あと一時間ほどです。いよいよですね。
では、講義の続きといきましょうか。
あなたは先ほど、神はいない、人類絶滅なんてできやしない、とおっしゃいましたね。
なので、神の証明と、私がどうやってウィルスを生成し、それを集団感染させたのか教えましょう」
<させた…?>
講義はもううんざりだったが、なぜ過去形なのか、また疑問に思った。
「まず、先に人類の絶滅方法について説明します。
水道水による集団感染が埼玉県であったことをご存知でしょうかぁ。
二十年ほど前に起こった事件です。
簡単に言うと、クリプトスポリジウムという塩素で死なない寄生性原虫によって引き起こされ、住民の六割以上が感染して、下痢や腹痛を起こしましたぁ」
医者は一志の疑問など知らずに続ける。
「これは大きなヒントになりましたよ。
日本の水道水は弱い。
調べてみると、公的機関が行う管理なんて、杜撰なものでした。
塩素で死なない菌はいくつかありますが、人の健康に影響がないということでそれらを無視していますからねぇ。
そういった菌を混ぜようと思えば、容易くできてしまいます。
そこで私は水道水を使ってウィルスをばらまくことにしましたぁ」
医者は、恐ろしいことをさも簡単そうに言った。
「ただ、残念ながら、私のつくったウィルスは感染力だけでなく、塩素にも弱かったのですぅ。
これはどうしようもないことでしたぁ。
そこである妙案を思いつきました。
それは、細菌に感染するウィルス、バクテリオファージというものの性質を利用する、ということです。
私のウィルスはその中でも、テンペレートファージと呼ばれるもので、これは宿主の細菌を殺しません。
ちなみに、O157という有名な症例がこれにあたりますね、ベロ毒素ともいいますがぁ。
私は、塩素に耐性のある細菌の中から、ウィルスが感染しやすく、その菌そのものの感染力も強いものを選んで、一時の宿主として寄生させることにしました。
これです」
医者は点滴の作業を終えると、ディスプレイにウィルスと細菌の写真を表示した。
ウィルスはまるで、細菌という星に着陸する宇宙船のように見える。
頭はどこから見ても六角形に見える正二十面体。
そこから伸びる体は、たくさんのネジ山が刻まれているような円柱で、六本のヒゲがついており、足も六本で、星への着陸脚そのものだ。
一志が高校の生物の授業や大学の講義で見た時も、これが自然にできたとは思えない人工的なデザインだと思っていた。
「この丸いのが細菌です。
ありふれたもので、ほとんど無害。
なので、水道水の検査にもひっかかりません。
そして、このウィルスが最初から言っている、私が完成させたものです。
ちなみに、頭の形、ひげ、足の数、全て六ですねえ、これこそが獣の数字666ですよ!
うっうっうっうっうっうっ!」
医者はこれまでで一番大きな声で笑った。
「ああ、失礼。
私の最高傑作ですので、つい、興奮してしまいましたぁ。
そうそう、私はね、この666の数字を紋章としてデザインしました。
あなたの頭に被せている袋、ここにその紋章を付けています」
医者は一志に被せてある布の紋章を指でつついた。
紋章は螺旋を上から見たような図案で、渦をアラビア数字の6の字に見立て、内心に向かって三重に撒いたものだ。
渦は6の字を描くたびに、一旦途切れている。
「話がそれましたが、私は作成したウィルスをオメガウィルスと名付けましたぁ。
このオメガは、最初にあなたに話した通り、人間の意思で作られたものです。
コタール症候群というのはご存知ですか。
簡単に言うと、自分が死人だと思う病気ですぅ。
信じられないかもしれませんが、世の中には本当にいるのですよぉ。
あなたが先ほど聞いた叫び声の主です。
実験に行き詰っていた時、この患者がいたことが幸いでしたぁ」
<俺には不幸だったな>
一志は思うが、口にはしない。
「私はその患者を被験者としてアルファと名付け、その血から特殊なウィルスを発見しましたぁ。
そして、アルファには偽薬を与え、『これはゾンビになる薬、あなたは死人でしょう、死人なのに生きている、あなたはゾンビだ、ゾンビとはこうだ』と、情報を次々に与えていきました。
あなたに最初に説明したプラシーボ、いや失礼、その逆のマイナスの効果、『ノシーボ効果』…ですがね」
医者はそこだけ含みを持って、声を抑えて言った。
「そういう情報を与える毎に、ウィルスの変移を観察していったのです。
するとどうでしょう。
ウィルスは変移を繰り返し、最終的には宿主をゾンビだと思い込ませ、自我を崩壊させて暴れ狂わす、オメガに至ったのですぅ。
私の仮説通り、宿主の意思が、ウィルスに働きかけて、このオメガを完成させたのです、う、うん!」
主従の関係がよくわからなくなる説明に、一志は混乱した。
<それに、どういうことだ?
初めはアルファと言っていたのに、途中から宿主と言ったりして…主語を統一してくれ…>
「それではいよいよ、オメガの本質、その力を整理して説明してみましょう。
あなたをゾンビに変える核心についてですぅ、ううん」
医者は喉を鳴らして、嬉しそうに改まって話を続ける。
「まず、先ほど言ったように、オメガは塩素に耐性のある細菌へ感染します。
これは、シェルター兼移動手段となって、仮の宿としては申し分ないですからねぇ。
ヒトという本当の宿主に入り込むまで、細菌の複製機構を乗っ取って、自己複製を繰り返すのですよぉ。
都合のいいことに、細菌が増殖する過程でも、溶原化と言って、その情報は遺伝されて増えてくれるのです。
まあ、これがテンペレートの基本ですからねぇ。
そうやって時を待ち、運良くヒトに入り込めた場合、逆エンドサイトーシス過程でプロファージを放出したり、或いは細菌を溶解したりして離れます。
オメガはさらに自己複製を続けながら、プロファージというエピゲノム、つまり遺伝情報をその尾から送り込み、今度は宿主に様々な遺伝形質を獲得させ、発症の準備を整えます」
医者はまくしたてるように、だんだん早口になってきた。
「様々というのは、正確には六つあります」
医者はディスプレイに六つの項目を映し出した。
「まず、一つ目は、カリウムやセロトニンといった疼痛物質を抑える物質を生成させ、痛みを抑えます。
二つ目は、エンドルフィンという脳内麻薬を発生させ、気持ち良くなって、こちらも痛みを和らげますぅ。
最後の三つ目は、運動を司る神経の制限、これは、リミッターを解除すると言った方がわかりやすいですかね、そんな風に書き換えます。
つまり、痛みを感じずに暴走を始めますので、火事場の馬鹿力のような強い力を生み出しますぅ」
医者はひとつずつ、マウスカーソルで文字をなぞりながら、丁寧に説明を続ける。
「そして、四つ目は、視界に入るものを追いかける衝動を引き起こします。
五つ目は、噛む、食べるという欲求を増幅します。
最後の六つ目は、理性を抑え、本能を呼び起こします。
これら三つは、脳の扁桃体にあるニューロンが過敏となるように書き換えられて、発症します」
「そんな都合のいい変化なんかしてたまるか」
一志は苦々しく言ったが、こう理屈責めされては、そうならない自信はもはや、ほとんどなかった。
「扁桃体というのは情動の中枢ですからねぇ、ここの遺伝子を書き換えられるにつれ、どんな人間でも歯止めが効かなくなりますよ。
特に怒りという感情は普段でも抑えられず、キレる輩は多いでしょう。
この感情は理性が抑えられると、さらに増幅しますからねぇ。
要は、怒りで我を忘れる、という言葉どおり、それを遺伝子的に固定させる、とも言えるでしょうか。
うっうっうっ」
<そうはなって堪るか。だが…>
一志はさっきから頭が重く、体も熱っぽく、脂汗をかいていた。
打たれた点滴が、一滴ずつだが、静かに確実に一志の体に流れ込んでいる。
医者の話もこの点滴のように、徐々に作用し始めていた。
「こうして、ゾンビへのエピジェネクティスはオメガによって成され、以後、この形質は次の世代へと引き継がれていくのです。
私が初めにオメガを水道に放流してから、すでに一年以上が経過しました。
既に日本の主要な都市の河川にこのオメガを放流させ続けていますから、私の見積もりでは少なくとも日本人の約四割が感染しているか、その遺伝形質を引き継いだ一歳以下の子供がいることになりますねえ。
これは当然ながら時間を経るに従い、これからも爆発的に増えていきます」
「ちょっと待ってくれ。
どういうことだ…
さっき俺に打ったのが、そのオメガじゃないのか?
もう日本中にばらまかれているなら、日本はとっくにゾンビだらけだろう…」
「はい、当然の疑問ですねぇ。では、今からそれを解説しましょう」
医者は声のトーンを少し落とした。
「あなたは、オメガに感染していますが、先ほど打ったのはオメガではない。
おわかりですか。
あなたはここに来た時点で既に、オメガに感染していたのですから。
オメガを打つ必要はなかったのです。
そう、先ほど、あなたの首に打ったのは、実は麻酔薬なんですよ。
あなたを一旦、あえて逃して、すぐに動けなくするためにねぇ。
二度目に捕まって目覚めた時、あなたはさらに絶望したはずです。
自分はウィルスを打たれてしまった、ゾンビになってしまうと。
そして、私のさらなる説明で、ずっとゾンビになるという不安が付きまとっていますぅ。
オメガの発症は、その意思が引き金となるのですよ。
ゾンビになるかもしれないという不安や恐怖、そして、あなたのこれまでのゾンビへのイメージがこのオメガの発症には必要なのです。
普通の人間は自分がゾンビになるなんて思いもしない。
しかし、どうでしょう、あなたには最初に説明したじゃあないですか。
あなたはこれからゾンビになると。
あなたは、ゾンビ映画を思い出して自分もそうなるかもしれない、と思う。
それで、あなたの意思が発動して、今、オメガに働きかけているのですよぉ。
遺伝子を書き換え、準備が整っていたオメガは、今まさに次々とニューロンのスイッチをオンにしています。
これも説明したでしょうぅ。
意思がウィルスに働きかけて、実際に作用するということを。
今までは、言わばオメガの潜伏期間ということですぅ。
ウィルスを発症させたのは、あなたの意思なのですよ。
想像だにしていないから、今までゾンビにはならなかっただけです。
発症した今、潜伏期間が終ったということです。
あなたは、さっきから、いらいらして熱っぽいでしょう。
体がだるく、頭も瞼も重くなって、風邪を引いたような症状のはずです。
おや、目が閉じそうですねぇ。
発症の仕方には個人差がありますが、あなたはウィルスと戦うと、意識が朦朧とするタイプの様です。
もう少しすると、気を失うかもしれませんよ」
医者はくどくどと、畳みかけるように話した。
「違う、ばかな…」
一志は言葉では否定したが、体の具合は言われる通りだ。
<ウィルスが働いて俺をゾンビにするのか、俺の意思が俺をゾンビにするのか…もう訳がわからない…>
「もう遅いですよ。一度発症してしまえば、オメガを止めることはできません」
「だけど、どうするつもりだ。
俺一人をゾンビにできたからと言って、こんなの日本中の人間にやるわけにはいかないだろう」
「ええ、その通り。いい質問ですぅ。
こういう実験をやったのは、アルファを除けば、あなたで五人目です。
これまでの被験者はゾンビとなって、有意な結果が得られましたが、日本人全員は当然ながら無理ですね。
というか、もう日本人はあなたで最後です。
アメリカ系、中華系、アラブ系は済ませましたが、スペイン、フランス、ロシア、まだまだいろんな言語の人間でやらなくてはなりませんからね。
今、アラブ系の人間を拐ってきたところですが、これでも十人にも満たない。
が、これが済めば、一度に全世界にばらまく方法がありますからねえ」
医者はそう言って、意味深に間をあける。
<全世界にばらまく?世界各国に行くにしたって、膨大な時間と費用がかかるだろう、一体どうやって…>
医者は黙っている。
「…どうやってやるっていうんだ」
一志は堪らず問いかけた。
「はい、次の講義の時間となりました…が、栄養補給はやはりしていないようですね。
仕方ない、点滴を打ちます」
医者は部屋に戻って来ると、そう言って手際よく、一志の腕に点滴を施し始める。
<今からゾンビにする相手になんでこんなことをするんだ>
一志はそう思いながら、それを拒否しようと少し抵抗したが、力がもう入らず、すぐに為すがままとなった。
「さて、あと一時間ほどです。いよいよですね。
では、講義の続きといきましょうか。
あなたは先ほど、神はいない、人類絶滅なんてできやしない、とおっしゃいましたね。
なので、神の証明と、私がどうやってウィルスを生成し、それを集団感染させたのか教えましょう」
<させた…?>
講義はもううんざりだったが、なぜ過去形なのか、また疑問に思った。
「まず、先に人類の絶滅方法について説明します。
水道水による集団感染が埼玉県であったことをご存知でしょうかぁ。
二十年ほど前に起こった事件です。
簡単に言うと、クリプトスポリジウムという塩素で死なない寄生性原虫によって引き起こされ、住民の六割以上が感染して、下痢や腹痛を起こしましたぁ」
医者は一志の疑問など知らずに続ける。
「これは大きなヒントになりましたよ。
日本の水道水は弱い。
調べてみると、公的機関が行う管理なんて、杜撰なものでした。
塩素で死なない菌はいくつかありますが、人の健康に影響がないということでそれらを無視していますからねぇ。
そういった菌を混ぜようと思えば、容易くできてしまいます。
そこで私は水道水を使ってウィルスをばらまくことにしましたぁ」
医者は、恐ろしいことをさも簡単そうに言った。
「ただ、残念ながら、私のつくったウィルスは感染力だけでなく、塩素にも弱かったのですぅ。
これはどうしようもないことでしたぁ。
そこである妙案を思いつきました。
それは、細菌に感染するウィルス、バクテリオファージというものの性質を利用する、ということです。
私のウィルスはその中でも、テンペレートファージと呼ばれるもので、これは宿主の細菌を殺しません。
ちなみに、O157という有名な症例がこれにあたりますね、ベロ毒素ともいいますがぁ。
私は、塩素に耐性のある細菌の中から、ウィルスが感染しやすく、その菌そのものの感染力も強いものを選んで、一時の宿主として寄生させることにしました。
これです」
医者は点滴の作業を終えると、ディスプレイにウィルスと細菌の写真を表示した。
ウィルスはまるで、細菌という星に着陸する宇宙船のように見える。
頭はどこから見ても六角形に見える正二十面体。
そこから伸びる体は、たくさんのネジ山が刻まれているような円柱で、六本のヒゲがついており、足も六本で、星への着陸脚そのものだ。
一志が高校の生物の授業や大学の講義で見た時も、これが自然にできたとは思えない人工的なデザインだと思っていた。
「この丸いのが細菌です。
ありふれたもので、ほとんど無害。
なので、水道水の検査にもひっかかりません。
そして、このウィルスが最初から言っている、私が完成させたものです。
ちなみに、頭の形、ひげ、足の数、全て六ですねえ、これこそが獣の数字666ですよ!
うっうっうっうっうっうっ!」
医者はこれまでで一番大きな声で笑った。
「ああ、失礼。
私の最高傑作ですので、つい、興奮してしまいましたぁ。
そうそう、私はね、この666の数字を紋章としてデザインしました。
あなたの頭に被せている袋、ここにその紋章を付けています」
医者は一志に被せてある布の紋章を指でつついた。
紋章は螺旋を上から見たような図案で、渦をアラビア数字の6の字に見立て、内心に向かって三重に撒いたものだ。
渦は6の字を描くたびに、一旦途切れている。
「話がそれましたが、私は作成したウィルスをオメガウィルスと名付けましたぁ。
このオメガは、最初にあなたに話した通り、人間の意思で作られたものです。
コタール症候群というのはご存知ですか。
簡単に言うと、自分が死人だと思う病気ですぅ。
信じられないかもしれませんが、世の中には本当にいるのですよぉ。
あなたが先ほど聞いた叫び声の主です。
実験に行き詰っていた時、この患者がいたことが幸いでしたぁ」
<俺には不幸だったな>
一志は思うが、口にはしない。
「私はその患者を被験者としてアルファと名付け、その血から特殊なウィルスを発見しましたぁ。
そして、アルファには偽薬を与え、『これはゾンビになる薬、あなたは死人でしょう、死人なのに生きている、あなたはゾンビだ、ゾンビとはこうだ』と、情報を次々に与えていきました。
あなたに最初に説明したプラシーボ、いや失礼、その逆のマイナスの効果、『ノシーボ効果』…ですがね」
医者はそこだけ含みを持って、声を抑えて言った。
「そういう情報を与える毎に、ウィルスの変移を観察していったのです。
するとどうでしょう。
ウィルスは変移を繰り返し、最終的には宿主をゾンビだと思い込ませ、自我を崩壊させて暴れ狂わす、オメガに至ったのですぅ。
私の仮説通り、宿主の意思が、ウィルスに働きかけて、このオメガを完成させたのです、う、うん!」
主従の関係がよくわからなくなる説明に、一志は混乱した。
<それに、どういうことだ?
初めはアルファと言っていたのに、途中から宿主と言ったりして…主語を統一してくれ…>
「それではいよいよ、オメガの本質、その力を整理して説明してみましょう。
あなたをゾンビに変える核心についてですぅ、ううん」
医者は喉を鳴らして、嬉しそうに改まって話を続ける。
「まず、先ほど言ったように、オメガは塩素に耐性のある細菌へ感染します。
これは、シェルター兼移動手段となって、仮の宿としては申し分ないですからねぇ。
ヒトという本当の宿主に入り込むまで、細菌の複製機構を乗っ取って、自己複製を繰り返すのですよぉ。
都合のいいことに、細菌が増殖する過程でも、溶原化と言って、その情報は遺伝されて増えてくれるのです。
まあ、これがテンペレートの基本ですからねぇ。
そうやって時を待ち、運良くヒトに入り込めた場合、逆エンドサイトーシス過程でプロファージを放出したり、或いは細菌を溶解したりして離れます。
オメガはさらに自己複製を続けながら、プロファージというエピゲノム、つまり遺伝情報をその尾から送り込み、今度は宿主に様々な遺伝形質を獲得させ、発症の準備を整えます」
医者はまくしたてるように、だんだん早口になってきた。
「様々というのは、正確には六つあります」
医者はディスプレイに六つの項目を映し出した。
「まず、一つ目は、カリウムやセロトニンといった疼痛物質を抑える物質を生成させ、痛みを抑えます。
二つ目は、エンドルフィンという脳内麻薬を発生させ、気持ち良くなって、こちらも痛みを和らげますぅ。
最後の三つ目は、運動を司る神経の制限、これは、リミッターを解除すると言った方がわかりやすいですかね、そんな風に書き換えます。
つまり、痛みを感じずに暴走を始めますので、火事場の馬鹿力のような強い力を生み出しますぅ」
医者はひとつずつ、マウスカーソルで文字をなぞりながら、丁寧に説明を続ける。
「そして、四つ目は、視界に入るものを追いかける衝動を引き起こします。
五つ目は、噛む、食べるという欲求を増幅します。
最後の六つ目は、理性を抑え、本能を呼び起こします。
これら三つは、脳の扁桃体にあるニューロンが過敏となるように書き換えられて、発症します」
「そんな都合のいい変化なんかしてたまるか」
一志は苦々しく言ったが、こう理屈責めされては、そうならない自信はもはや、ほとんどなかった。
「扁桃体というのは情動の中枢ですからねぇ、ここの遺伝子を書き換えられるにつれ、どんな人間でも歯止めが効かなくなりますよ。
特に怒りという感情は普段でも抑えられず、キレる輩は多いでしょう。
この感情は理性が抑えられると、さらに増幅しますからねぇ。
要は、怒りで我を忘れる、という言葉どおり、それを遺伝子的に固定させる、とも言えるでしょうか。
うっうっうっ」
<そうはなって堪るか。だが…>
一志はさっきから頭が重く、体も熱っぽく、脂汗をかいていた。
打たれた点滴が、一滴ずつだが、静かに確実に一志の体に流れ込んでいる。
医者の話もこの点滴のように、徐々に作用し始めていた。
「こうして、ゾンビへのエピジェネクティスはオメガによって成され、以後、この形質は次の世代へと引き継がれていくのです。
私が初めにオメガを水道に放流してから、すでに一年以上が経過しました。
既に日本の主要な都市の河川にこのオメガを放流させ続けていますから、私の見積もりでは少なくとも日本人の約四割が感染しているか、その遺伝形質を引き継いだ一歳以下の子供がいることになりますねえ。
これは当然ながら時間を経るに従い、これからも爆発的に増えていきます」
「ちょっと待ってくれ。
どういうことだ…
さっき俺に打ったのが、そのオメガじゃないのか?
もう日本中にばらまかれているなら、日本はとっくにゾンビだらけだろう…」
「はい、当然の疑問ですねぇ。では、今からそれを解説しましょう」
医者は声のトーンを少し落とした。
「あなたは、オメガに感染していますが、先ほど打ったのはオメガではない。
おわかりですか。
あなたはここに来た時点で既に、オメガに感染していたのですから。
オメガを打つ必要はなかったのです。
そう、先ほど、あなたの首に打ったのは、実は麻酔薬なんですよ。
あなたを一旦、あえて逃して、すぐに動けなくするためにねぇ。
二度目に捕まって目覚めた時、あなたはさらに絶望したはずです。
自分はウィルスを打たれてしまった、ゾンビになってしまうと。
そして、私のさらなる説明で、ずっとゾンビになるという不安が付きまとっていますぅ。
オメガの発症は、その意思が引き金となるのですよ。
ゾンビになるかもしれないという不安や恐怖、そして、あなたのこれまでのゾンビへのイメージがこのオメガの発症には必要なのです。
普通の人間は自分がゾンビになるなんて思いもしない。
しかし、どうでしょう、あなたには最初に説明したじゃあないですか。
あなたはこれからゾンビになると。
あなたは、ゾンビ映画を思い出して自分もそうなるかもしれない、と思う。
それで、あなたの意思が発動して、今、オメガに働きかけているのですよぉ。
遺伝子を書き換え、準備が整っていたオメガは、今まさに次々とニューロンのスイッチをオンにしています。
これも説明したでしょうぅ。
意思がウィルスに働きかけて、実際に作用するということを。
今までは、言わばオメガの潜伏期間ということですぅ。
ウィルスを発症させたのは、あなたの意思なのですよ。
想像だにしていないから、今までゾンビにはならなかっただけです。
発症した今、潜伏期間が終ったということです。
あなたは、さっきから、いらいらして熱っぽいでしょう。
体がだるく、頭も瞼も重くなって、風邪を引いたような症状のはずです。
おや、目が閉じそうですねぇ。
発症の仕方には個人差がありますが、あなたはウィルスと戦うと、意識が朦朧とするタイプの様です。
もう少しすると、気を失うかもしれませんよ」
医者はくどくどと、畳みかけるように話した。
「違う、ばかな…」
一志は言葉では否定したが、体の具合は言われる通りだ。
<ウィルスが働いて俺をゾンビにするのか、俺の意思が俺をゾンビにするのか…もう訳がわからない…>
「もう遅いですよ。一度発症してしまえば、オメガを止めることはできません」
「だけど、どうするつもりだ。
俺一人をゾンビにできたからと言って、こんなの日本中の人間にやるわけにはいかないだろう」
「ええ、その通り。いい質問ですぅ。
こういう実験をやったのは、アルファを除けば、あなたで五人目です。
これまでの被験者はゾンビとなって、有意な結果が得られましたが、日本人全員は当然ながら無理ですね。
というか、もう日本人はあなたで最後です。
アメリカ系、中華系、アラブ系は済ませましたが、スペイン、フランス、ロシア、まだまだいろんな言語の人間でやらなくてはなりませんからね。
今、アラブ系の人間を拐ってきたところですが、これでも十人にも満たない。
が、これが済めば、一度に全世界にばらまく方法がありますからねえ」
医者はそう言って、意味深に間をあける。
<全世界にばらまく?世界各国に行くにしたって、膨大な時間と費用がかかるだろう、一体どうやって…>
医者は黙っている。
「…どうやってやるっていうんだ」
一志は堪らず問いかけた。