誰も悪くないのに婚約破棄された悪役令嬢は人魚王子との恋に溺れます
夫婦げんかの種にされるのは、もうたくさん。
「元婚約者に対してずいぶんと評価してくださっていることは感謝いたします――が、お二人に一言言わせてください」
二人の喧嘩の原因は私だ。正確に言えば、私への罪悪感だ。
「私のこと、勝手に決めつけないでくださいませ」
私には伝わらないとお思いですか?
「ヴェロニカには幸せになってもらわなきゃならない? ヴェロニカのことが大切? お気持ちに大変ありがたいですよ。ですが、お忘れですか? リカ様は私から婚約者を奪った泥棒猫ですし、ミハエル様は私を捨てた薄情者です」
もちろん、それは仕方なかったことだ。
だって二人が結ばれないと、リカ様は今こうして生きていなかったのだから。世界を救った聖女が愛を叶えられないために命を落とす――そんな悲劇を、世界は望まない。私も望まなかった。
だからこそ、私は婚約破棄された。今までの私の人生を捨てた。
そう――それは、誰も悪くないこと。誰も悪くない。私ひとりだけの小さな悲劇。
だけど、馬鹿にしないで。
「そんなお二人が、今更どのような顔で私の幸せを叶えると? 私を馬鹿にするのも大概にしてください。偽善者のおもちゃにされるのは御免こうむりますわ」
きっと二人の気持ちは本物の善意だ。私への償いを、本気でしようとしているのだ。
そのために、私が幸せになるように。もう私が泣かないために。
お二人は、それぞれの立場で最善を尽くしてくれようとしている。
徹夜で二人は相談したのだろう。疲れた体を押して全力で駆けてくれたのだろう。私のために。あの婚約破棄の償いをするために。
黙っていたリカ様の目から、またポロポロと大粒の涙が溢れている。
可愛い、可哀想な、まだあどけなさも残る聖女に、私ははっきりと告げた。
「いい迷惑です」
そして、リカ様はペタンと床に座り込んだ。
「でも……だったら、どうしたら……」
彼女の気持ちが嫌なわけではない。むしろ嬉しい。そこまでして、気まずいのを押して、私を好いていてくれるのは、すごく嬉しい。
だけど、そんな本心なんか教えてあげないわ。そんな気分なの。
「そんなの知りませんよ」
言い捨てる私に、リカ様は「ごめんなさい」とこぼす。何度も何度も、「ごめんなさい」と。世界を救った、これから幸せになるべき少女を、私は泣かす。
そんな自分に苦笑して、私はミハエル様に向き合った。
そして、驚く。てっきり険しい顔かと思いきや、彼も苦笑していたから。
「君の涙を、私は初めて見たんだ」
「え?」
「そんなに彼のことが好きなんだね。僕の時は、涙ひとつ零してくれなかったのに」
いつになく優しい声に、私は視線を逸らす。
「昔の女に嫉妬ですか?」
「あぁ。さっきもそう言っただろう?」
「奥様の前で、最低ですね」
「否定はしない。だが……もう全部過去のことだ。私は今を、後悔していない」
「私もです」
そう――昔のことなのに。それをぐずぐず引きずって、本当に馬鹿な子。せっかく好きな人と結ばれたんだから、さっさと自分が幸せになればいいのに。
床に座って泣く少女に肩を竦めて、私は問う。
「ミハエル様……私って性格悪いんでしょうか?」
「昔から……よくはないんじゃないか? そんないい子だったら、嫌がる僕に無理やりスライム討伐させようとしないだろう」
「嫌がってましたっけ?」
「あぁ、全力で。正直、今でもスライムとだけは戦いたくない。ケルベロスと対峙する方がよほど気がラクだ」
「そうですか」
うーん、正直あまり記憶にないけれど……昔なじみがそういうのなら、きっとそうなのでしょうね。今も、本当に私の性格がいいのなら、リカ様を宥めて励まして感謝を述べるべきだわ。
私はそれをしないけれど。せいぜい、罪悪感くらい持っていてちょうだい。その代わり、私はまわりを気にせず好きなものを手に入れるから。
「少々お花を摘んできますわ。私が戻ってくるまでに、奥様を泣き止ませておいてくださいね。夫婦げんかはスライムも食わないと思いますので」
「あぁ、任されよう」
吹き出すミハエル様に一礼して、私は部屋を後にする。
さて、あそこまで言い捨ててやったのだ。ここで怖気づいたら、それこそ格好が付かないわ――と意気込む私に、
「ひっどい女ねぇ~。聖女泣かすとか、まるで悪役令嬢じゃない」
扉のすぐ横にもたれる長身のオネエは苦笑する。
「盗み聞きですか?」
「あら、堂々と聞いていたつもりよ。部屋の外から」
「ひどい殿方ですね」
「お褒めいただきどうもありがとう♡」
ウインクを飛ばしてくるマルス様に肩を竦めて、私は聞いた。
「ところで、悪役令嬢ってなんです?」
「あらぁ、陸の言葉じゃないのぉ?」
確かそれは、婚約破棄された時にリカ様がおっしゃっていた単語。いつか聞こうと思っていたのに、聞きそびれていたわね。
マルス様は言う。
「言葉どおりみたいよ。ヒロインの女の子をいじめる悪いお嬢様のこと。物語の中では、その悪事の結果不幸になるみたいね」
そんな物語、私は見聞きしたことがない。マルス様の言葉によれば、海でもない。そしてリカ様が知っていた言葉。
なら、その言葉の発祥は? 今までの些細な違和感の答えを、私はまとめて笑い飛ばした。
「そんな悲劇、私は好きじゃないですね」
「それなら、この悪役令嬢はどう物語を綴るのかしら?」
その挑発的な質問に、私は口角を上げた。
「もちろん、悪役のハッピーエンドで終幕ですよ」
そして、私の額はピンッと弾かれる。
「わっるい顔~」
それは、やっぱり痛くない。
リカ様は、よく私たちの知らない単語を口にしていた。
悪役令嬢。オタク。アイドル。推し。
それらの言葉はどこの国のものなのか――考えるまでもない。それは、聖女が元いた世界のものだ。
確か『ニホン』と言っていたはず。当然そんな国名は誰も聞いたことがなく、やはり聖女は世界の危機に対して神が遣わせてくれた存在なのだと皆が信じたし、リカ様自身も『異世界召喚されたんだ』と唖然としていた。
「これね、聖女の落とし物だったんだって」
私がアトル様の部屋に入ると、彼は床いっぱいに広げられた紙を一枚手にしていた。
私も恐る恐る一枚拾って見ると、それはヨレヨレの紙を無理やり伸ばしたようなものだった。しかも、滲んだ文字を無理やり直しているような箇所が多々ある。それでも、元から私の知らない文字のようで、まったく読めなかったけれど。
散らばった紙を集めたら、ざっと本一冊分くらいになるのかしら。
「僕……これは陸から流れてきたものだと思って、一生懸命集めたんだ。ボロボロだったのを、出来る限り再生させて、解析して……頑張って解読したんだけど、そりゃあ的外れに決まっているかな。だって異世界の、しかも個人的な日記だったんだから」
アトル様がくすくすと笑う。だけど、その手は小さく震え、ぽたっと目から涙をこぼす。
「あの聖女は『アイドル』ていう歌姫を応援するのが生きがいだったんだって。それを応援している人たちのことを『ファン』って呼んで、それを極めた人たちのことを『オタク』というらしいんだ。僕が覚えた舞や掛け声も、これに載っていたんだけど……そのオタクたちが踊っていたものらしいよ。聖女も、日記に書いて一生懸命覚えていたんだってさ」
ポロポロと、ポロポロと。蓋を開ければ、なんてどってことない内容を、彼はどんな気持ちで読み込んだのだろう。
会ったこともない女のために。陸という完全に別の生活圏にいた種族のちがう女のために。私のような、建前や外聞を気にして『仕方ない』と大切なものを手放した女のために。
あぁ、本当に、なんて――
「ニカ、僕のこと嫌い?」
「好きです」
「はは、ありがとう。その言葉だけで、十分だ」
彼は笑う。泣きながら笑う。
その顔はとても綺麗で、とても可愛くて……抱きしめたいから、抱きしめた。
「ニカ……?」
「がんばり屋のあなたが好きです。くしゃっと笑うあなたが好きです。私の書いた本を面白いと言ってくれたあなたが好きです。私が罵倒された時真っ先に怒ってやり返してくれるあなたが好きです」
「ニカ……」
「あのヘンテコな踊りをどこでも全力で踊り切る度胸のあるあなたが好きです。その後に満足気に汗を拭うあなたが好きです。嫌なことがあるとすぐ物理的に逃げようとする癖はこれから直していただきます。でも逃げようとしてまず転んでしまうあなたがとても愛おしいです」
「え、あ、ニカ?」
私の腕の中で戸惑うアトル様に、私はふふっと笑う。
「私、悪役令嬢なんですって」
「え……あぁ、そんなのも書いてあったね。流行り! 可愛い! 推せる! とか書いてあったけど……ニカは違うでしょ? 誰もいじめてないし」
「私は性格悪いようですよ。昔馴染みから太鼓判押されてきました」
それを告げると、アトル様はむっとした。
「え、誰それ。ちょっと文句言ってきてもいいかな」
「アトル様も先ほど私の『悪い顔が好き』とおっしゃっていたではありませんか」
「それはそれ、かな。ニカは何も悪くない人が傷ついて喜ぶような人じゃないでしょ。ちょっと待っててね。今からその人を泣かせてくる」
パッと切り替えて部屋から出ていこうとするアトル様の袖を、私は慌てて引いた。
「おやめください。どうしてそんなに海の人は短気なんですか⁉」
「やられる前にやる――それは僕がマルスコーイから一番に習ったことかな」
あのオネエ‼ アタシいい教育してるでしょ~、と鼻を鳴らす姿がありありと目に浮かぶが、さすがに今ミハエル様を傷つけられたら面倒だ。
「復讐はあとできちんと考えますから、ひとまず私にお預けください! 下手に騒動起こして婚約破棄するよう国から言われたら面倒ですから、ね?」
「え?」
動いを止めたアトル様が、金色の目を丸くしていた。
それに、私は真面目にもう一度伝える。
「私は婚約破棄なんてしませんよ」
「いいの……? 悩んでたんじゃ、ないの?」
「やめました。政治面とか、責任とか、これからのこととか……色々考えたんですけど、やめました」
そして、私は笑ってやるのよ。
「だって私、悪い女ですから。欲しいものを手に入れるだけですよ」
悪役令嬢。なんて私にぴったりの言葉なんだろう。
どうせ、王太子殿下に婚約破棄され、その後三十回見合いに失敗した生き遅れよ。しかも、さっきは聖女を泣かせてやったわ。嫌でも吹っ切れるわよ。
だから、私は欲望を堂々と口にするの。
「あなたを下さい、アトクルィタイ様。竜や落とし子、神の御子とかすごいじゃないですか。そこんじょそこらの王太子より優良物件ですよ」
「ニカ……」
「私より年下で長命とか最高ですよね。ずっとその美形を堪能できるんですから。でも、私が老いぼれになったからといって捨てるのは勘弁くださいね。気が狂うと思いますので」
「はは……当たり前かな。安心して。海の生物は一途なんだ。特に僕は奥さんの産んだ子供を一人で育てて命を落とすくらい一途な種族の人魚かな」
「それは勘弁してください。私を置いて死ぬことは許しません」
「……わかった。善処する」
「絶対です」
「うん。わかったよ」
頷くアトル様は、微笑んでいる。泣きそうな顔で。嬉しそうな顔で。幸せそうな顔で。その可愛い顔が私をまっすぐ見てくれていて……もう、嬉しくて私まで泣きそうだわ。だから、もっとわがままになってしまう。
「アトル様、キスをしてくださいまし」
「……いいの?」
「あ、でも火傷してしまいますか?」
一応、さっき抱きしめた時は当然服越しだ。今もアトル様は手袋をしているから、多少の触れ合いなら大丈夫だろう。だけど、当たり前だけど唇を覆うものはない。
それでも、アトル様は笑う。
「ニカとキスできるなら……少しくらい火傷してもいい、かな」
「それなら、あとでリカ様に治してもらいましょう」
そして、私たちは笑い合って。キスをする。ただ唇と唇が触れるだけの行為なのに、どうしてこんなに幸せな気持ちになるのかしら。
ただただ幸せで。世界が眩しくて。愛おしくて。
ふと目を開けると、本当に私たちは温かな光に包まれていた。
――あぁ、これが神の祝福なのね。
私は神様に感謝して、もう一度目を閉じる。
彼を海に落としてくれて、ありがとうございます。
もう息もできなくていい。あなたがいれば、それだけで。
他の面倒なことなんか知らないわ。このまま彼に溺れるの。
強欲でしょ? 勝手ですか? でも許してくださいまし。
だって私は――
拝啓 親愛なるリカ=タチバナ様
あのあと、アトル様の火傷を治してくれてありがとうございます。ですが、覗き見はよくないですよ。泣いて感動していたってダメなものはダメです。今度改めて淑女としての嗜みを再度お話させてくださいまし。
少しずつですが、触れ合っても火傷しないような魔法を開発しているようです。結婚式までに間に合わせると、マルス様が息巻いております。それが終われば、いよいよ出産問題に取り掛かるようです。ここまでしていただいたら、私も腹を括るべきでしょうか。
リカ様の準備は順調ですか? 結婚式当日が、すごく待ち遠しいです。
「元婚約者に対してずいぶんと評価してくださっていることは感謝いたします――が、お二人に一言言わせてください」
二人の喧嘩の原因は私だ。正確に言えば、私への罪悪感だ。
「私のこと、勝手に決めつけないでくださいませ」
私には伝わらないとお思いですか?
「ヴェロニカには幸せになってもらわなきゃならない? ヴェロニカのことが大切? お気持ちに大変ありがたいですよ。ですが、お忘れですか? リカ様は私から婚約者を奪った泥棒猫ですし、ミハエル様は私を捨てた薄情者です」
もちろん、それは仕方なかったことだ。
だって二人が結ばれないと、リカ様は今こうして生きていなかったのだから。世界を救った聖女が愛を叶えられないために命を落とす――そんな悲劇を、世界は望まない。私も望まなかった。
だからこそ、私は婚約破棄された。今までの私の人生を捨てた。
そう――それは、誰も悪くないこと。誰も悪くない。私ひとりだけの小さな悲劇。
だけど、馬鹿にしないで。
「そんなお二人が、今更どのような顔で私の幸せを叶えると? 私を馬鹿にするのも大概にしてください。偽善者のおもちゃにされるのは御免こうむりますわ」
きっと二人の気持ちは本物の善意だ。私への償いを、本気でしようとしているのだ。
そのために、私が幸せになるように。もう私が泣かないために。
お二人は、それぞれの立場で最善を尽くしてくれようとしている。
徹夜で二人は相談したのだろう。疲れた体を押して全力で駆けてくれたのだろう。私のために。あの婚約破棄の償いをするために。
黙っていたリカ様の目から、またポロポロと大粒の涙が溢れている。
可愛い、可哀想な、まだあどけなさも残る聖女に、私ははっきりと告げた。
「いい迷惑です」
そして、リカ様はペタンと床に座り込んだ。
「でも……だったら、どうしたら……」
彼女の気持ちが嫌なわけではない。むしろ嬉しい。そこまでして、気まずいのを押して、私を好いていてくれるのは、すごく嬉しい。
だけど、そんな本心なんか教えてあげないわ。そんな気分なの。
「そんなの知りませんよ」
言い捨てる私に、リカ様は「ごめんなさい」とこぼす。何度も何度も、「ごめんなさい」と。世界を救った、これから幸せになるべき少女を、私は泣かす。
そんな自分に苦笑して、私はミハエル様に向き合った。
そして、驚く。てっきり険しい顔かと思いきや、彼も苦笑していたから。
「君の涙を、私は初めて見たんだ」
「え?」
「そんなに彼のことが好きなんだね。僕の時は、涙ひとつ零してくれなかったのに」
いつになく優しい声に、私は視線を逸らす。
「昔の女に嫉妬ですか?」
「あぁ。さっきもそう言っただろう?」
「奥様の前で、最低ですね」
「否定はしない。だが……もう全部過去のことだ。私は今を、後悔していない」
「私もです」
そう――昔のことなのに。それをぐずぐず引きずって、本当に馬鹿な子。せっかく好きな人と結ばれたんだから、さっさと自分が幸せになればいいのに。
床に座って泣く少女に肩を竦めて、私は問う。
「ミハエル様……私って性格悪いんでしょうか?」
「昔から……よくはないんじゃないか? そんないい子だったら、嫌がる僕に無理やりスライム討伐させようとしないだろう」
「嫌がってましたっけ?」
「あぁ、全力で。正直、今でもスライムとだけは戦いたくない。ケルベロスと対峙する方がよほど気がラクだ」
「そうですか」
うーん、正直あまり記憶にないけれど……昔なじみがそういうのなら、きっとそうなのでしょうね。今も、本当に私の性格がいいのなら、リカ様を宥めて励まして感謝を述べるべきだわ。
私はそれをしないけれど。せいぜい、罪悪感くらい持っていてちょうだい。その代わり、私はまわりを気にせず好きなものを手に入れるから。
「少々お花を摘んできますわ。私が戻ってくるまでに、奥様を泣き止ませておいてくださいね。夫婦げんかはスライムも食わないと思いますので」
「あぁ、任されよう」
吹き出すミハエル様に一礼して、私は部屋を後にする。
さて、あそこまで言い捨ててやったのだ。ここで怖気づいたら、それこそ格好が付かないわ――と意気込む私に、
「ひっどい女ねぇ~。聖女泣かすとか、まるで悪役令嬢じゃない」
扉のすぐ横にもたれる長身のオネエは苦笑する。
「盗み聞きですか?」
「あら、堂々と聞いていたつもりよ。部屋の外から」
「ひどい殿方ですね」
「お褒めいただきどうもありがとう♡」
ウインクを飛ばしてくるマルス様に肩を竦めて、私は聞いた。
「ところで、悪役令嬢ってなんです?」
「あらぁ、陸の言葉じゃないのぉ?」
確かそれは、婚約破棄された時にリカ様がおっしゃっていた単語。いつか聞こうと思っていたのに、聞きそびれていたわね。
マルス様は言う。
「言葉どおりみたいよ。ヒロインの女の子をいじめる悪いお嬢様のこと。物語の中では、その悪事の結果不幸になるみたいね」
そんな物語、私は見聞きしたことがない。マルス様の言葉によれば、海でもない。そしてリカ様が知っていた言葉。
なら、その言葉の発祥は? 今までの些細な違和感の答えを、私はまとめて笑い飛ばした。
「そんな悲劇、私は好きじゃないですね」
「それなら、この悪役令嬢はどう物語を綴るのかしら?」
その挑発的な質問に、私は口角を上げた。
「もちろん、悪役のハッピーエンドで終幕ですよ」
そして、私の額はピンッと弾かれる。
「わっるい顔~」
それは、やっぱり痛くない。
リカ様は、よく私たちの知らない単語を口にしていた。
悪役令嬢。オタク。アイドル。推し。
それらの言葉はどこの国のものなのか――考えるまでもない。それは、聖女が元いた世界のものだ。
確か『ニホン』と言っていたはず。当然そんな国名は誰も聞いたことがなく、やはり聖女は世界の危機に対して神が遣わせてくれた存在なのだと皆が信じたし、リカ様自身も『異世界召喚されたんだ』と唖然としていた。
「これね、聖女の落とし物だったんだって」
私がアトル様の部屋に入ると、彼は床いっぱいに広げられた紙を一枚手にしていた。
私も恐る恐る一枚拾って見ると、それはヨレヨレの紙を無理やり伸ばしたようなものだった。しかも、滲んだ文字を無理やり直しているような箇所が多々ある。それでも、元から私の知らない文字のようで、まったく読めなかったけれど。
散らばった紙を集めたら、ざっと本一冊分くらいになるのかしら。
「僕……これは陸から流れてきたものだと思って、一生懸命集めたんだ。ボロボロだったのを、出来る限り再生させて、解析して……頑張って解読したんだけど、そりゃあ的外れに決まっているかな。だって異世界の、しかも個人的な日記だったんだから」
アトル様がくすくすと笑う。だけど、その手は小さく震え、ぽたっと目から涙をこぼす。
「あの聖女は『アイドル』ていう歌姫を応援するのが生きがいだったんだって。それを応援している人たちのことを『ファン』って呼んで、それを極めた人たちのことを『オタク』というらしいんだ。僕が覚えた舞や掛け声も、これに載っていたんだけど……そのオタクたちが踊っていたものらしいよ。聖女も、日記に書いて一生懸命覚えていたんだってさ」
ポロポロと、ポロポロと。蓋を開ければ、なんてどってことない内容を、彼はどんな気持ちで読み込んだのだろう。
会ったこともない女のために。陸という完全に別の生活圏にいた種族のちがう女のために。私のような、建前や外聞を気にして『仕方ない』と大切なものを手放した女のために。
あぁ、本当に、なんて――
「ニカ、僕のこと嫌い?」
「好きです」
「はは、ありがとう。その言葉だけで、十分だ」
彼は笑う。泣きながら笑う。
その顔はとても綺麗で、とても可愛くて……抱きしめたいから、抱きしめた。
「ニカ……?」
「がんばり屋のあなたが好きです。くしゃっと笑うあなたが好きです。私の書いた本を面白いと言ってくれたあなたが好きです。私が罵倒された時真っ先に怒ってやり返してくれるあなたが好きです」
「ニカ……」
「あのヘンテコな踊りをどこでも全力で踊り切る度胸のあるあなたが好きです。その後に満足気に汗を拭うあなたが好きです。嫌なことがあるとすぐ物理的に逃げようとする癖はこれから直していただきます。でも逃げようとしてまず転んでしまうあなたがとても愛おしいです」
「え、あ、ニカ?」
私の腕の中で戸惑うアトル様に、私はふふっと笑う。
「私、悪役令嬢なんですって」
「え……あぁ、そんなのも書いてあったね。流行り! 可愛い! 推せる! とか書いてあったけど……ニカは違うでしょ? 誰もいじめてないし」
「私は性格悪いようですよ。昔馴染みから太鼓判押されてきました」
それを告げると、アトル様はむっとした。
「え、誰それ。ちょっと文句言ってきてもいいかな」
「アトル様も先ほど私の『悪い顔が好き』とおっしゃっていたではありませんか」
「それはそれ、かな。ニカは何も悪くない人が傷ついて喜ぶような人じゃないでしょ。ちょっと待っててね。今からその人を泣かせてくる」
パッと切り替えて部屋から出ていこうとするアトル様の袖を、私は慌てて引いた。
「おやめください。どうしてそんなに海の人は短気なんですか⁉」
「やられる前にやる――それは僕がマルスコーイから一番に習ったことかな」
あのオネエ‼ アタシいい教育してるでしょ~、と鼻を鳴らす姿がありありと目に浮かぶが、さすがに今ミハエル様を傷つけられたら面倒だ。
「復讐はあとできちんと考えますから、ひとまず私にお預けください! 下手に騒動起こして婚約破棄するよう国から言われたら面倒ですから、ね?」
「え?」
動いを止めたアトル様が、金色の目を丸くしていた。
それに、私は真面目にもう一度伝える。
「私は婚約破棄なんてしませんよ」
「いいの……? 悩んでたんじゃ、ないの?」
「やめました。政治面とか、責任とか、これからのこととか……色々考えたんですけど、やめました」
そして、私は笑ってやるのよ。
「だって私、悪い女ですから。欲しいものを手に入れるだけですよ」
悪役令嬢。なんて私にぴったりの言葉なんだろう。
どうせ、王太子殿下に婚約破棄され、その後三十回見合いに失敗した生き遅れよ。しかも、さっきは聖女を泣かせてやったわ。嫌でも吹っ切れるわよ。
だから、私は欲望を堂々と口にするの。
「あなたを下さい、アトクルィタイ様。竜や落とし子、神の御子とかすごいじゃないですか。そこんじょそこらの王太子より優良物件ですよ」
「ニカ……」
「私より年下で長命とか最高ですよね。ずっとその美形を堪能できるんですから。でも、私が老いぼれになったからといって捨てるのは勘弁くださいね。気が狂うと思いますので」
「はは……当たり前かな。安心して。海の生物は一途なんだ。特に僕は奥さんの産んだ子供を一人で育てて命を落とすくらい一途な種族の人魚かな」
「それは勘弁してください。私を置いて死ぬことは許しません」
「……わかった。善処する」
「絶対です」
「うん。わかったよ」
頷くアトル様は、微笑んでいる。泣きそうな顔で。嬉しそうな顔で。幸せそうな顔で。その可愛い顔が私をまっすぐ見てくれていて……もう、嬉しくて私まで泣きそうだわ。だから、もっとわがままになってしまう。
「アトル様、キスをしてくださいまし」
「……いいの?」
「あ、でも火傷してしまいますか?」
一応、さっき抱きしめた時は当然服越しだ。今もアトル様は手袋をしているから、多少の触れ合いなら大丈夫だろう。だけど、当たり前だけど唇を覆うものはない。
それでも、アトル様は笑う。
「ニカとキスできるなら……少しくらい火傷してもいい、かな」
「それなら、あとでリカ様に治してもらいましょう」
そして、私たちは笑い合って。キスをする。ただ唇と唇が触れるだけの行為なのに、どうしてこんなに幸せな気持ちになるのかしら。
ただただ幸せで。世界が眩しくて。愛おしくて。
ふと目を開けると、本当に私たちは温かな光に包まれていた。
――あぁ、これが神の祝福なのね。
私は神様に感謝して、もう一度目を閉じる。
彼を海に落としてくれて、ありがとうございます。
もう息もできなくていい。あなたがいれば、それだけで。
他の面倒なことなんか知らないわ。このまま彼に溺れるの。
強欲でしょ? 勝手ですか? でも許してくださいまし。
だって私は――
拝啓 親愛なるリカ=タチバナ様
あのあと、アトル様の火傷を治してくれてありがとうございます。ですが、覗き見はよくないですよ。泣いて感動していたってダメなものはダメです。今度改めて淑女としての嗜みを再度お話させてくださいまし。
少しずつですが、触れ合っても火傷しないような魔法を開発しているようです。結婚式までに間に合わせると、マルス様が息巻いております。それが終われば、いよいよ出産問題に取り掛かるようです。ここまでしていただいたら、私も腹を括るべきでしょうか。
リカ様の準備は順調ですか? 結婚式当日が、すごく待ち遠しいです。