生涯18
 

 やっと手に入れた平穏を彼女はただの足踏みだと言った。
 前に進んでいると錯覚していた今を滞留だと言った。重要なのは躍進なんだそうだ、いつの世も。

 未来だとか目標だとかこうなりたいとかそう言ったものは、掲げるだけ無駄だ。虚しくなってしまう。だから誰にも言わずに心の中に握っているのが一番いいと、この状況に陥る前に私は私で納得したというのに、彼女はそれを声にして掲げろという。


「…言うだけ無駄だ」

「言葉にしろ。意味が世界に浸透して、やがて形になる」

「そういうものは、ない」

「握っているだろ、透けて見えてるぞ」

「もう終わったんだ」

「錆びるな、まだ始まってもいないだろ」


 大人はあれこれ言い訳じみた御託を並べて自分をすぐに雁字搦めにする、飛躍の翼を自分でへし折る、難癖をつけて、社会のせいだと決めつけて、恥を知れ、可能性はそんなことで挫けない。塞いでいるのは己だ、ここまで言ってやってもわからないか? と首を傾げられた。

 同じことを、彼女と同じ頃に思っていた。

 電車に揺られながら、友だちと笑いながら、未来に期待を膨らませながら、下を向いて日々を織りなすだけの大人になんか絶対なってやるかと、見返してやると売られてもいない喧嘩を買ったつもりで世界に牙を剥いていた。だってあんまり退屈に見えたんだ。それが何だ。いつしかその中の一部になった。いつも通りをなぞることに安堵していた。これが大人になることなのだ、と自分を納得させていた。私が言葉にしないで抱えていた、本当に握っていて誰にも見せていない核心はどんな色をしていたのか。私が私に晒さなければその夢は形となり顔を出すことも出来ない。

 私に笑いかけることも、だ。


「…ラジオパーソナリティに」

「お前、声がいいもんな」

「…そういうのは早く言って欲しかった」

「出会った時から思っていた。耳障りじゃない。他の大人と比べても圧倒的に」


 ああ、言葉にしてしまった。この瞬間、もう二度となれないんだな、と涙が出そうになった。

 言葉にしないことで私はこの夢をずっと実は掲げていたのだ。リストラされ、妻と娘に逃げられ、負債を抱え、フリーターになって再起しようと試みていても見上げた空の青さがなんだか窮屈だった。突き抜けるような冬の青空がなんだか妬ましかった。こうしていたって、20年前、同窓会で全員を拾ってやると躍進していた覇気ある自分には戻れない。あの頃の私の未来が私であると知ったら、彼は絶望に明け暮れ自害してしまうかもしれない。プライドだけが一丁前だから。

 抱きしめてやることも出来ずに、こんなに落ちて崖のすんでで踏みとどまった私が今口に出す言葉なんかじゃ絶対になかった。それなのに、何故かスッキリしているのだ。


 
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