イジワルな夫の不器用過ぎる愛し方
主婦にとって、平日の朝とは戦争である。
「春花、行ってくる」
「あー! 待って、パパ! お弁当!」
洗い物をしていた手を止め、目の前を通過していくスーツ姿の夫――冬馬さんを引き止める。忘れ物に気付いた冬馬さんは、その切れ長な目を少しだけ丸くして、すぐに目元を緩ませた。
「あぁ、ありがとう。可愛い妻の作った愛妻弁当を危うく忘れるところだったよ」
また、そんな心にもないことを言って……と喉の奥で毒つきつつ、久しぶりにもらった「可愛い」の一言がうれしくてつい頬を緩めてしまいそうになる。
だけどここで舞いあがっちゃダメだ。だって彼が今も私のことを可愛いと思ってくれているなんて、ありえないもの。
メイクをしていればそれなりに見えるかもしれないけれど、朝は家族の食事が最優先。今の私はノーメイク、肩まである黒髪を起き抜けにささっと一つに結んだだけの完全主婦モードだ。
それに、私のことを本当に可愛いと思っているのなら――って、いけない。こんなこと考えている時間なんて今はないんだった。
「ほらほら、もう行かなきゃでしょ」
溺愛じみた彼の言葉は完全スルーで、お弁当だけを手渡した。そのままの流れで彼の身体をくるりと玄関の方へ向け、大きな背中を押すようにして進みながら、テレビの前で絵本を読む娘の小さな背中に声をかける。
「芽依ー! パパにいってらっしゃいするよー!」
振り向いた芽依は元気よく「はーい!」と返事をすると、さっき私が二つに結んであげた髪を左右に揺らしながら弾むように玄関へとやってきた。
そんな可愛らしい愛娘の姿に目を細め、しみじみと思う。
髪、伸びたなぁ。顔つきもしっかりしてきたし、最近では話す言葉も増えて、前よりも会話のやりとりがうんと楽しくなった。
芽依も今年で三歳。ほんと、月日が流れるのはあっという間だなぁ……。
「パパ、きをつけてね」
「ありがとう。芽依も気をつけて保育園行くんだぞ」
「うん!」
にっこりと微笑む芽依に冬馬さんは柔らかな笑みを返すと、小さく屈んで、そのぷくぷくのほっぺに軽いキスを落とした。微笑ましい光景なのに、胸がチクチクと痛んで苦しい。
……いいなぁ、芽依は冬馬さんにキスしてもらって。
娘を羨ましいと思うなんて、どうかしている。胸に広がる黒いものを笑顔の裏に隠していると、冬馬さんがしゃがんだまま私を見つめていることに気がついた。
ドキッとしているうちに立ち上がられて、身長180センチもある彼を、今度は私が見上げる形になってしまう。
「春花……」
鼓膜をくすぐるような甘い低音ボイス。薄くて形のいい唇から発せられた自分の名前にドキドキする。
あぁ、どうしてこの人はこんなにもかっこいいんだろう。
三十を過ぎて雰囲気が少し落ち着いた分、大人の色気がぐっと増した気がする。すっと通った鼻筋。いつもは優しい彼の瞳が、私を見る時にだけ少し意地悪な色に染まる。
そんな彼の瞳が、私は嫌いじゃなかった。
身体の内側をぞくぞくとさせながら、うっとりと見つめ返す私の頬に、冬馬さんの手が伸びてくる。
私は少しだけ……本当に少しだけ期待してしまった。このまま頬に手を添えて、新婚の頃交わしたような甘い口づけをしてくれるんじゃないかって。
だけど彼はそんな私の淡い願いなど見透かしているかのように目を細め、親指で頬を優しくなぞった。
「洗剤の泡、ついてるよ」
「あ、あぁ……ありがと」
なぁんだ……。泡を拭ってくれただけか。
「じゃ、いってくる」
落胆する私とは反対に、笑顔で差し出された手のひらが二人を阻む壁のように見えて辛い。
「いってらっしゃい……」
そっと手を触れ合わせ、家を出る彼の背中を見送った。
結婚して四年。
もう新婚とはいえなくなってしまった私たちは、夫婦の営みは疎か、キスをすることさえもなくなっていたのです。
「芽依、ちゃんとハンドル握っててね」
自転車に跨った私は、前にあるチャイルドシートに座った芽依がヘルメットを被ったままこくんと頷いたのを確認し、ペダルを漕ぎ始めた。
頬を撫でる5月の風は爽やかで気持ちがいい。
もともと一軒家に住むことを夢見ていた私たちは、結婚を機に郊外だけど閑静で緑の多いこの土地に、思いきって家を建てた。
それからしばらくして芽依をお腹に授かり、冬馬さんと手を取り合って喜んだことは今でも鮮明に覚えている。
あの時の冬馬さん、本当に嬉しそうだったなぁ……。
「それじゃあ、芽依。ママ行ってくるね……って、もう遊んでるし」
保育室に入るなり友達と先生のもとへ一目散に駆けて行った芽依は、私との別れを惜しむことなく出ていたブロックで遊んでいた。
進級したばかりの頃はまだ新しい環境に慣れなくて、「ママ、ママ」ってあんなに泣いてたのに……。
娘の成長がうれしくもあり、少しだけ寂しくもあるなんて。親というのは勝手なものだと苦笑しながら、私は先生に「よろしくお願いします」と言って職場へと向かった。
職場である小さなお弁当屋に到着した私は、着ていた白いシャツの上にストライプのエプロンをつけ、同じ柄の三角巾を頭の後ろできゅっと結んだ。その後厨房へ向かうと、この店の店主であり友人の敦子が、重たそうな段ボールを持ち上げようとしているところで目が合った。
「あ、春花。おはよー」
そこに五十代のベテランパート、藤森さんが出勤してくる。
「藤森さん、おはようございます」
「おはよう。芽依ちゃん、今日も元気に保育園に行けた?」
「はい、おかげさまで」
私はにこりと笑って答える。
「藤森さんのおっしゃってた通り、二歳くらいになってから少しずつ身体が丈夫になってきたような気がします」
「そうなのよー。去年は大変だったと思うけど、きっともう大丈夫よ。あ、でも芽依ちゃんに何かあったら相談してね。みんな力になってくれるから」
母のような頼もしい笑顔に涙が溢れそうになった私は、震える声で「はい」と頷いた。
職場がスーパーということもあり、一緒に働く人も主婦が多い。去年から働き始めた私は、芽依が熱を出すたびに何度も頭を下げて早退していた。まだ仕事にも慣れていないのに、周りに迷惑ばかりかけてしまうことが心苦しくて、仕事を辞めようかと悩んだ時もある。そんな私を支えてくれたのが、藤森さんをはじめとした子育ての先輩たちだった。「気にしないで、大丈夫だから」そう言っていつも私の背中を優しく撫でてくれた彼女たちに、少しでも恩返しがしたい。
そんな思いもあって、出勤できる日は誰よりも頑張って働こうと心に決めている。
「あ、これつわりの時によく食べてたスティックパンだ」
品出しをしていた手を止め、つい懐かしんでしまう。私が手に持っているのは、子ども用のミニスナックパンだ。
いわゆる吐きつわりだった私は、食べることがとにかく辛かった。だけど、お腹にいる赤ちゃんのことを考えたら栄養はとらないといけない。そこで冬馬さんが果物やゼリーと一緒に買ってきてくれたのが、このミニスナックパンだった。
少しでも栄養のあるものをと思ったのか「野菜風味だから」と差し出した彼の真面目な顔が、なんだかおかしくて。だけど不思議と、このパンだけは食べても気持ち悪くならなかった。
それからも彼は食べられるものが次々と変わっていく私のために、仕事で疲れているにも関わらず、何件もスーパーを梯子してくれたっけ……。
「このパン、芽依も好きだったな。買って帰ってあげよう」
四時に仕事を上がり、保育園まで芽依を迎えに行った。自宅に戻ったらすぐに夕食作りを始め、芽依と一緒にお風呂に入り、食事を済ませて、二階にある寝室へと連れていく。芽依はぴょんっとベッドに飛び乗ると、お利口さんに横になって、そのくりくりの目を私に向けてきた。
「ママ、とんとんして」
「いいよ」
甘えてくる芽依が可愛くて、私はくすりと笑った。照明はベッドサイドの灯りだけにして、芽依と向かい合うようにして横になる。私は、芽依の顔をじっくりと眺めることのできるこの時間が大好きだ。とん、とん、と一定のリズムで優しく背中をたたきながら、まだ眠りそうにない娘に話しかける。
「ねぇ、芽依」
この場合、なんて答えたらベストなんだろう。仕事だから大変なこともあるけれど、働くことは楽しい。ただ、芽依はそういった意味で訊いてるのかな……。
私はしばらく考えてから、芽依をぎゅっと抱きしめた。
「楽しかったよ。でも、芽依と離れてすっごく寂しかったから、ママのこと抱きしめてくれる?」
「ふふ。いいよ」
抱きしめ返してくれた小さな身体が愛おしい。
私にパートで働くことを提案してくれたのは、冬馬さんだった。
芽依がまだ赤ちゃんだった頃、母親としてしっかりしなくちゃと頑張り過ぎてしまう私を心配した彼が「ちょっとした息抜きの時間になれば」とすすめてくれたのだ。
まだ小さいし……と初めは離れることを躊躇したけれど、いざ働き始めたら驚くほど心が軽くなった。子育てに必死になるあまり、自分でも気がつかないうちに多くのストレスを抱え込んでいたのかもしれない。
そんな私に冬馬さんは一早く気がついてくれたのだ。
今では自分の中でもオンとオフの区別がしっかりとついて、前以上に芽依と過ごす時間を大切にできている。
休日だって積極的に芽依と遊んでくれて、私が少しでもひとりになれるよう時間を作ってくれている。
でも、すぐに次の疑問が浮かんできてしまう。
それならどうして彼は朝以外、私に触れようとはしてくれないんだろう……。
自分でも順風満帆な人生だと思う。かっこいい旦那さんに、可愛い娘。憧れの一軒家を手に入れ、平凡で温かい毎日を過ごしている。
だけど心は寂しかった。“夫に求めてもらえない”