偉大なる使用人
「音様、やはり私が間違っていました。今ならまだ間に合います。戻りましょう。」
全速力で走って走って、
下着に忍ばせていたカードで服を買い、
変装して街の端まで来た時に
奏多は呆然としながら、やっと口を開いた。
「嫌よ!私は三年耐えたの。あの瞬間だけを待ってた。貴方が首を振るあの瞬間だけを。」
今更戻ってどうなるの?
私は家族も、財産も、何もかも捨てて飛び出したのよ。
「それは…、ですから、私が間違って、」
しどろもどろになる彼を初めて見たかもしれない。
「もう私は九条家のお嬢様でもないし、貴方は使用人じゃないわ。」
敬語は辞めて。
名前に様を付けるのを辞めて。
「音様、」
「音。様はいらない。」
「…できません。」
大層混乱している彼も、初めて見た。
頭に手を当て、ぶつぶつと何かを考えている素振り。
無理よ、何を考えたって。
「…これから、どうなさるつもりですか?」
「敬語も禁止。貴方はもう、ただの男でしょう。」
彼の瞳の中に、大きな葛藤が見える。
その揺れがおさまった時、小さく溜息を吐いて観念したように笑った。
「…音。」
いつもより低めの声で初めて呼び捨てで名前を呼ばれ、
ドクリ、と胸の奥が疼いた。
…これだ。
私が聞きたかったのは、
見たかったのは、
彼のこの目、この声、この姿だ。