君の音に近づきたい


ちょっとまずいかもしれない。こんな緊張感、味わったことない。

朝起きた瞬間から、感じていた。
入試の時も、公開レッスンも、連弾オーディションの時も。死ぬほど緊張した気でいた。
でも、そのどれとも比較にならない。
桐谷春華の15年の人生史上、最大の緊張感に見舞われている――。


教室に入ると、クラスメイトたちがクラスの出し物の準備に追われていた。
私たち1-Bは「お化け屋敷」をする。私がこれまで関わって来たのは、背景や小物の作成くらいだ。連弾があったので、役割分担を決める時点で一番負担の少ないものを選んでいた。

私も、すぐにその準備の輪の中に加わる。


「おはよう」
「おはよ―」


その中には香取さんもいた。
香取さんは、無事日コンの二次予選も突破していた。
もう少しで、本選進出をかけた三次予選がある。そのことで気が気じゃないはずだ。


「いよいよ、今日だね」
「うん」


すぐに香取さんが私の隣に来てくれる。


「もしかして、緊張してる?」


すぐに気付かれた。それほどに緊張感が身体中を覆い尽しているのかもしれない。


「緊張して当然。そう思えば、少しは気が楽になるよ? 私はいつもそうしてる」
「当然……なるほど。ありがとう」
「頑張ってね」


頑張る――。
そうだ。私は今日、何が何でも頑張らなけれならない――。


「じゃあ、行って来るね」


とうとう、連弾ステージの時間が近付いて来た。
本番の30分前に、いつもの01教室で二宮さんと落ちあうことになっている。最終確認をするためだ。


「見に行くからね。頑張れ!」
「ありがとう」


香取さんの声援を背に教室を出ると、林君に出くわした。
あれから、なんとなく気まずい空気が流れている。


「私、これから連弾行って来るね」


でも、林君は友達だ。私はせめて、避けたりなんかしたくない。


「うん。頑張ってね。僕も見に行くよ」


やっぱり、その笑顔はどこか無理しているものだった。

衣裳の入った大きなバッグを胸に抱えて、01練習室へと向かう。
扉を開けると、そこには既に二宮さんがいた。


「すみません、遅くなって」

「早速、一回ずつ合わせよう」

「はい」


二宮さんは、黒い長袖のシャツと黒いズボンを着ていた。
シャツのボタンは上まできちんととめられている。肌が白いから黒が映える。きちんと感のある、まさに貴公子だ。
一曲目の愛の挨拶は、私も黒いカットソーに黒いパンツ。黒で二宮さんと揃えている。一曲目が終わったら舞台袖に戻り、アイドルのコンサートばりの早着替えをする。言うのは簡単だけど、これが結構大変なのだ。

二宮さんの隣に素早く座る。

何日もこの01教室で練習して来た。
木の壁と床の匂いも、このピアノの鍵盤の感触も、何もかもが私の身体に沁みこまれている。
大袈裟に言うなら、私のこの夏の青春そのものだ。

二宮さんと視線を合わせる。そして、呼吸を合わせ、指に神経を行き渡らせ鍵盤を鳴らす。



「――じゃあ行くか」

「はい」


時間はあったけれど、何故か二宮さんは一度合わせればそれでいいと言った。
直前にいくら弾いても意味はないということなのかもしれない。
それに、私に一切注意をしなかった。

ダメだ。やっぱり、全然緊張が収まらない――。

むしろ本番が近付くにつれて、恐ろしいほどの緊張が身体を侵食して行く。



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