君の音に近づきたい
音楽室でもない。小ホールでもない。
一番収容人数の多い、講堂が舞台だ。
この講堂は、思い出すのも忌まわしい公開レッスンで一度演奏している。
でも、でも、でも。
その時とでは観客の数が全然違う――!
舞台袖からちらりと客席を覗き見て、一瞬息が止まる。
数百人が入るホールが満席になっている。
分かっていたことではあった。
だって、二宮奏が演奏するんだから。
でも、実際に客席を埋めるいくつもの顔を見たら、急激に恐怖が襲って来る。
当然だけれど、こんなにたくさんの人の前で演奏したことなど、ない。
「緊張してんの?」
この日二度目のその問いかけに、震える声で答えた。
「失敗したらどうしようって。もし、私のせいで二宮さんの演奏を台無しにしてしまったら――」
『二宮さんの文化祭での連弾を見てから判断してください』
あの三年生たちに、啖呵を切ってしまった。
あんなにたくさんの観客の前で、私のせいで、二宮さんに恥をかかせてしまったら――。
何のためにリベルタンゴを選んだのか。
すべてが無意味なものになる。
そう思うと、怖くて仕方がない。
震えの止まらない手を必死に握り合わせる。
「――今日の桐谷に、失敗なんて言葉は存在しねーよ」
「……え?」
暗幕の内側、薄暗い舞台袖で二宮さんが言った。
「誰と一緒に弾くと思ってんだ。あんたのピアノなんて知り尽くしてる。どこが苦手か、どこが突っ走るか。そんなもの俺がどうにでもしてやるから。どう弾いたって失敗なんてことにはならないんだよ。余計なことを考えるな」
薄く落とされた照明を背に受けて、二宮さんが私を見つめる。
「このステージは俺だけのものじゃない。俺とあんた、二人のステージだろ? ほら――」
小刻みに揺れる私の手を、二宮さんがゆっくりと開いて行く。
「あんたが必死に練習して来た手だ。この手を信じてやれよ」
骨ばった長い指が私の手に優しく触れた。
そして、人差し指で手のひらに何か文字を書いて行く。
その指をじっと見つめた。
「……分かった?」
「はい。分かりました!」
自然とこの顔が笑顔になる。胸の鼓動は収まらないけれど、不思議なほどに気持ちが落ち着いて行く。そして、緊張よりもワクワクが上回って行く。
「――じゃあ、そろそろお願いします」
舞台袖の係の生徒の声がした。
「行くぞ」
「はい」
薄暗い舞台袖から、照明の降り注ぐ舞台へと出て行く。
”ぜったいだいじょうぶ"
まだ、手のひらに二宮さんの指で書いた文字がちゃんと残っていた。