君の音に近づきたい
暗幕の後ろに下がるなり、私は急いで死角になる場所でドレスに着替える。
カットソーを脱ぎ、上からドレスを被る。背中のファスナーを素早く押し上げた。
自分の胸元を見て、少しへこむ。
もう少し胸があったら。
でも、そんなことに構う時間はない。
このドレスは、小さい頃から習っていたピアノの先生からお借りしたものだ。先生の手持ちのドレスの中からリベルタンゴに合いそうなものを相談して決めた。
先生と背格好が似ていて、本当によかった。
胸元だけじゃない、背中もかなり大胆に空いているけれど。
私は、大人の女。魔性の女――。
魔性の女がどんなものだか知らないけど、自分に呪文をかける。
「そろそろ時間だぞ。早くしろ」
向こうから潜められた声がした。
「はい、ただいま」
急いで髪を束ねてまとめる。それをヘアピンで止めて真っ赤なバラの造花を突き刺した。
15歳の私には、これが精一杯だ。
裾に広がりがほとんどないIラインのドレス。それが大人っぽい雰囲気を醸し出す。
よし――!
自分を無理やりに強気にして、二宮さんの前へと出て行った。
「二宮さ――」
振り返った二宮さんに、心臓が跳ねる。
な、な、なんで、そんなセクシーに――!
「なんだよ」
第一ボタンまできちんと留められていたシャツが、何故か、第二ボタンまであいていて。二宮さんが違う人に見える。
それに、それに――。
いつもきれいな目にかかる長めの前髪が、かき上げられている。
貴公子からセクシー男子になっている。
そんなの、ドキドキするに決まってる――!
「貴公子は、どこへ?」
「はぁ? 何が貴公子だ。リベルタンゴだぞ。タンゴの破壊者だぞ。そういう桐谷だって――」
二宮さんが、不意に私から目を逸らす。
「馬子にも衣装だな。でも、まあ……」
「なんですか」
「少しは、ドキドキ、しないこともない」
――!
憎まれ口の後のそういうセリフは、本当に反則だ。
「さあ、イメージぶっ壊しに行くか」
「はいっ!」
「とにかく、ノリと勢い。自由への賛歌だ」
そう言って私を笑わせる。
もう、緊張はない。
ただ、二宮さんと、二人の音楽を奏でたい。
今度は、黄色い歓声じゃない。それは、もはや悲鳴だった。
「そ、奏君っ!?」
「ぎゃーっ!」
「一体、何の曲を弾くの?!」
そこかしこでざわついているのが分かる。
そのざわつきさえ味方につけて、私たちの、二宮さんのリベルタンゴを聴かせてやる――!
こんなに燃えたことはない。
舞台で演奏するのに、こんなに情熱が湧き上ったことなんてない。
二宮さんもそうだったら、いいな。
漆黒のグランドピアノの前で、チョイ悪の二宮さんとニセ魔性の女とで礼をする。
(いいぞ、その意味不明な偉そうな顔)
ピアノの椅子に向かう途中で、二宮さんが私に囁いた。
(それは、どうも)
だって、私は魔性の女ですから。
今度は、私が客席から向かって奥の椅子に腰かける。
手前に座った二宮さんに、またもさらに奇声が発せられた。
観客が静かになるのを待つ。どんな演奏がされるのか。その答えを待つ様子が客席からひしひしと伝わって来る。
二宮さんと私で目を合わせた。
視線を交わらせ、息を合わせて頷く。
まず私一人で前奏を弾く。
「これ、リベルタンゴ……?」
そんなひそひそ声も、二宮さんのメロディーが奏でられ始めたらすぐに消え去った。