君の音に近づきたい
とぼとぼと教室に戻ると、『お化け屋敷』の担当から外れている、手の空いているクラスメイトが私の元に駆け寄って来た。
「桐谷さん、さっきの二宮さんとのステージ本当に凄くかっこよかったよ!」
みんなの目が一斉に私に集まる。
「あ、ありがと――」
「身の程知らずとか、桐谷さんの一方的な追っかけだとか、失礼なこと言ってごめんね。あのステージ見たら、そんなこと言えなくなった。桐谷さんが、あんなに弾けるなんて思ってなくて」
それがきっと正直な気持ちなんだろう。だからこそ、その言葉に嘘がない気がして嬉しかった。
ただ上手くなりたくて。
”人の噂なんて、ピアノの腕で黙らせろ”
二宮さんは、そう言ったんだっけ。
「あれだけ弾けるんだもん。コンクールとか、出ないの?」
「う、ううん。そんな予定は全然ないけど――」
「もったいない。出ればいいのに」
――コンクール。
”ピアノ弾いていて、あんなにも自分と真剣に向き合えるものってないんじゃないか?”
――って、私、さっきから二宮さんのことばかり思い出してる。
「……はぁ。こんな気持ち知らないんですけど」
クラスメイトから離れて、廊下の窓の縁に手を置いてただ外の景色を眺める。
ずっと見つめて来た。その音が私の心を虜にして。それでここまで来た。
でも、それは――。
「音に恋しただけで、あの人に恋したつもりなんてなかった――」
「音に恋したなら、その音を出す人に恋しても不思議じゃないんじゃないかな……?」
「そうなのかな……って、わっ!」
突然入り込んで来た声に、遅れて驚く。
のけぞった私を見つめていたのは、香取さんだった。
「な、何? 私、何か言ってた? っていうか、きいてたの?」
「うん。一人でぶつぶつ言ってるから、どうしたのかなって。いよいよ桐谷さんも、恋の悩み?」
「べ、別に――」
「二宮さんのことでしょ?」
「え……っ?」
さらに香取さんから飛び退いた。
「本当に、分かりやすいね」
「いや、私は、別に」
「認めたくないの? でもね。認めるのが怖い。認めたくないって思っている時点で、それは既に恋だと思うよ」
「そんな――」
それでもまだ反論しようとした私を遮って、香取さんが人差し指を上に向ける。
「では、ここで質問です。1.気が付くとその人のことを考えている」
考えてる。現に、今の今まで考えていた。
「2.一緒にいるとドキドキして苦しいのにもっと一緒にいたいと思ってしまう」
例えば、さっきの練習室で。二人きりでいると息苦しさを覚えるのに、もっと二人でいたいと思った
「3.その人のことを知りたくてたまらない」
あの、大学の敷地内の広場で。二宮さんの隣にいた人は誰なのか。どんな関係なのか。怖いのに知りたくてたまらない。
「では、桐谷さんはいくつ当てはまりますか?」
「ぜんぶ――」
「はい、それは100パーセント恋です!」
「それだけは、ダメ!」
思わず、私はそう叫んでいた。
「どうして? 誰かを好きになる。いいことじゃん。何で、そんなに困ったような顔をするのよ」
「それは――」
「二宮奏だから? 有名人だから困る? でも、人の気持ちは都合よく動いてなんかくれないんだから。桐谷さんは変わったよ。入学したばかりの頃の、自信なさそうに歩いていた桐谷さんはどこにもいない。それって、二宮さんのおかげだよね? それだけ桐谷さんを変えた人なんだよ。むしろ、恋せずにいられるのかな。さっきのステージ。あれがすべての答えでしょ?」
香取さんの言葉全部が私に迫って来て身を覆いたくなる。耳を塞ぎたくなる。
「今、胸の奥、ぎゅってなってる……?」
責めたてるみたいだった声が、優しくなるから。私は、もう頷いてしまっていた。
「だったら、その気持ち。自分で認めてあげたら?」
「……うん。そう、だね」
俯く私の肩に、香取さんがそっと触れてくれて。よけいに泣きたくなる。
私は二宮さんが好きなんだ。それは、私の初めての恋。
でも、この気持ちを表に出すことは出来ない。