君の音に近づきたい
朝、正門を過ぎ校舎に向かって歩いている時だった。
「もしかして、桐谷さんですか?」
「え……?」
呼び止められて、辺りを見回す。
「やっぱりそうだ!」
あの人――。
一瞬にして身体が固まる。
どうして――。
「ごめんなさい、突然声を掛けたりして」
私の元に駆け寄ってくると、綺麗な弧を描くような目で微笑んだ。
その人は、文化祭の日、二宮さんと一緒にいた人だった。
「奏と桐谷さんの連弾を見てね、いつかお話したいなって思っていて。今、見かけたから声を掛けちゃった」
大人っぽくてとても綺麗な人なのに、その微笑みには親しみやすさがあった。
「ごめんなさい。私、自己紹介もしないで」
私が何も言えないでいると、慌てたようにぺこりと私に頭を下げた。
「ここの大学でピアノを専攻している奈良橋楓《ならはしかえで》と言います。奏のことは、奏がこんなにちっちゃい頃から知ってるの。奏のお母さんのピアノ教室にずっと通っていたから、それで」
手のひらで背の高さを表すようにしてその人が言った。
「だからね。二人の連弾を聴いて、私、本当に嬉しくて。奏が心から楽しんで弾いてるの久しぶりに見たから。あんな奏を引き出してくれたのは、きっと桐谷さんのおかげよね?」
「い、いえ、そんな……」
薄い水色のワンピースが清楚でおしとやかで。私にはあまりに眩しすぎる。
「それに、すっかり表情も変わってて。明るくなってた。あなたという、心を許せる友達が出来たからなのかな。それも、嬉しいの。奏は、物心ついた時から周囲の人に注目される生活になったから。いつの間にか、自分の心を見せなくなっちゃって。桐谷さんといることで、解放されているんだと思うの。だから、奏の事、これからもよろしくね」
そう言って、私の手を取る。
「あの子にも、年相応の人間関係が必要だと思うから」
奈良橋さんは、本当に二宮さんのことを親身に思っているんだ。
そう思うのに、どうしてこの心はこんなにももやもやとしているんだろう。
どう見たって素敵な人だ。なのに、こんな感情を抱く自分がイヤでたまらない。
「私の方がお世話になってるばっかりで。私の方こそ、いろんなことを教えてもらっています」
なんとか笑顔で返す。
「こんなに可愛い子が近くにいるなんて。奏も幸せ者だ」
にっこりと微笑むその姿を見ていたら、子どもの自分と大人な奈良橋さんの違いが余計に浮き彫りになって、落ち込んでしまう。