君の音に近づきたい


次の日、香取さんは休まずに学校にやって来た。


「昨日は、ごめんね。あんな電話、心配させるだけだったよね」


そう言って笑う香取さんの表情は、まだどこか痛々しいけれど、いつもの香取さんでもあった。


「ううん。私の方こそ、何も言えなくて。ごめん」
「言えないよ、普通。だから、いいの。ああやって弱音を吐かせてもらえただけでも、楽になったから」


落ち込んでいるはずなのに私にまで心を配ってくれる香取さんに、またも心苦しくなる。


「桐谷さんの言った通り。チャンスはまだある。自分が完全に諦められるまで、挑戦し続けるつもり」
「うん! 夢は、まだ終われないでしょ?」
「もちろん」


そうだ。諦められるはずなんてない。
本当にそれを求めているなら、心はそこに向かうはずだ――。


あんなに頻繁に顔を出していた二宮さんが、ぱったりと姿を現さなくなった。

仕事が忙しくなったのかもしれない。
もしかしたら、私に愛想をつかしたのかもしれない――。

そう思って、胸の奥がちくりと痛む。

謝りたい。でも、三年生の教室に向かう勇気は持てないでいた。


それから数週間が経って。
制服は、いつの間にか冬服に衣替えをしていた。


実技担当の先生にコンクールを受けたいという意思を伝えて、少しずつその準備をし始めている。
まずはレパートリーを増やすこと。
そして、来年、コンクールを受けると決めた。

01教室で、課題に出されている曲を練習する。
以前より宿題に出される曲の数が増えた。
練習が大変だ。
コンクールの恐怖に打ち勝つために。その方法は練習しかない。


「――桐谷」

鍵盤から手を離したその時、久しぶりにその声を聞いた。

「よう」

どこか気まずそうに入って来る二宮さんに、私は思わず立ち上がってしまう。

「この前は、私、勝手なことばかり言って、本当にすみませんでした! それを謝りたいって思っていたんです」

とにかく何よりも先にそれを言いたくて、勢いよく頭を下げた。

「ば、ばかっ。桐谷が謝る必要なんてねーよ。あんたは何一つ間違ったこと言ってない。間違ってたのは俺だから」

「二宮さん……」

恐る恐る頭を上げると、どこかすっきりとした表情をした二宮さんがいた。

「桐谷に言われたこと、全部、ガツンと来た。俺なりにずっと考えて。それで、目が覚めた。いろいろ忙しくて報告が遅くなったけど―ー」

二宮さんの視線が真っ直ぐに私に向けられる。何故だか、その目に緊張する。

「俺、留学する。モスクワの音楽院を目指す。何の後ろ立てもない、助けてくれる人もいない何もない場所で、丸裸の自分でピアノと向き合う。一から勉強するつもりだ」

留学。ロシア、モスクワ――そんな単語に、私は目を見開く。

「厳しい環境で自分のピアノを磨き上げて、そして、国際コンクールに挑戦する」

「二宮さん……っ!」

ロシアなんて果てしなく遠いところに行ってしまう。でも、その言葉に、やっぱり私は喜んでしまうのだ。

「自分が本当に追い求める音を手に入れたい。本物のピアニストに、なりたい」

その目があまりに真っ直ぐで。真摯で、まっさらな、ピアノに出会って喜びを感じた頃の純粋な目そのもののような気がした。


「俺はやっぱりピアノが好きなんだって。桐谷とピアノを弾いて、心から楽しむのを見て。桐谷が俺に気付かせてくれたんだ」

嬉しいのに何かが込み上げて来そうになる。それを必死にこらえた。

「二宮さんなら、絶対大丈夫です。笑顔の貴公子なんて称号、いつか忘れ去られますよ。そんなの必要なくなるんだから」
「”ただの二重人格ピアニスト”のキャッチフレーズもな」

二宮さんも笑った。

もう、会えなくなる。こんな風に笑い合うことも。
友達として憎まれ口をたたき合いながら、ピアノを弾くことも――。

それでも。私の恋した音は、ちゃんと世界をはばたくんだ。


「桐谷」
「はい?」


笑っていた二宮さんが、真剣な表情になって私を見る。


「今度、校内でコンチェルトをやる」
「あの、オーディションに合格していたものですね?」
「そう。それを終えてから日本を発つつもりだ。だから、絶対、聴きに来いよ? 絶対だぞ」


あまりにその眼差しが強くて、呼吸を忘れそうになった。

「そんなの、当たり前です。私が二宮奏の演奏を聴き逃すはずがありませんよ。子供の頃から見守り続けてきているんですから」

私が何かを誤魔化すように笑うと、二宮さんはただ頷いた。

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