君の音に近づきたい
「何て言った?」
「だから、二宮さんはモスクワに行くんだって」
「モスクワって……」
香取さんが絶句している。
「モスクワには有名な音楽院があるでしょ。いずれは、そこに行きたいんじゃないのかな」
「何、その他人事みたいな感じ。どうして、そんなに冷静なの? 想いは伝えないの?」
「伝えない」
「どうして!」
何故か、香取さんが怒りだした。
「だって、もう遠くに行く人だよ? 何年も帰って来ない人。それどころか、次に帰国するときは、今以上にビッグな人になっているだろうし」
「だから何だっていうのよ」
「そんな人に、気持ち伝えたって迷惑になるだけ。そんなことしたくないの」
「バカ!」
今度は、その目に涙を溜めていた。
「本当にそれで後悔しないの?」
「しない……しないよ。私は、友達として少しでも記憶に残るなら。その方がいいな」
そう自分に言い聞かせている。
ほんの数か月一緒に過ごしただけ。言葉にしてしまったら、悲しいくらい簡単だ。
「それ、絶対に考えないようにしているだけだよね? 知らないからね。時間は戻せないんだからね!」
そんなことは分かっている。
でも、どこにも一歩を踏み出せない。
学生ホールに貼られたポスターが目に入る。
”学内オーケストラ コンサート
ソリスト:ピアノ 二宮奏
ショパン ピアノ協奏曲第一番 ”
ショパン――?
その曲目に驚く。確か、二宮さんはショパンが嫌いなはず。それなのに何で――。
この曲は、哀愁のある、甘くピア二スティックな旋律が特徴だ。
二宮さんが一番嫌いそうな曲なのに。
コンチェルトをやるなら、二宮さんの好きなベートーヴェンでいくらでもできる。
それが、不思議でならなかった。