君の音に近づきたい
日本を発つにあたって、いろいろと手続きや準備があるみたいで。二宮さんを学校で見ることはほとんどなくなった。
もう少ししたらいなくなる人だ。
これで、いい。
そうもう一人の自分が囁く。
そして、十一月の秋も深まった日。
二宮さんのコンチェルトの演奏会が行われた。
約束通り、私も講堂に足を運ぶ。
隣には香取さんもいる。
既に、二宮さんが高校を辞めて、ロシアに発つことは噂で広まっていた。
そのことも相まって、この講堂には全校生徒のほとんどが集まっている。
「いよいよだね」
「うん」
息を呑むように待っていると、たまたま空いていた私の隣の席に誰かが座る。
視線を寄せると、それは、奈良橋さんだった。
「あ、ど、どうも」
「こんにちは」
優し気な目が細められる。
「奏のショパン、楽しみね」
その言葉を、少し不思議に思う。
「でも、確か、二宮さんはあまりショパンが好きじゃないはずで」
「だからこそ、楽しみでしょう? 苦手なはずのショパンを敢えて選んだのはどうしてなのか――」
どうして、だろう。
視線を舞台に移す。
オーケストラの団員たちはセッティングを始めている。
「ねぇ、桐谷さん」
「はい」
舞台の方を見つめたまま、奈良橋さんが口を開いた。
「この、ショパンのピアノ協奏曲第一番がどんな曲だか知ってる?」
「ショパンが書いた二つの協奏曲のうちの一つですよね? ショパンの初期の頃の作品だったと思います」
あまりに有名なこの曲。ショパンらしさがそこかしこにある、美しい曲だ。
「そうね。ショパンが20歳くらいの頃に書いたもの。故郷ワルシャワを旅立つ時に、自分の告別演奏会で披露したと言われてる。まだまだ音楽家として無名だったショパンは、成功して名を成すために愛する故郷を離れ、ウイーンへ旅立つことを決めた」
成功することを夢見て、そのあしがかりかにこの曲を書いたのだろう。
「この協奏曲は、そんなショパンの夢への期待と、もう一つの思いが込められてる。それが、ショパンの恋」
そう言って、奈良橋さんが私に顔を向けた。
「当時ワルシャワの音楽院の学生だった。そこにショパンの片想いの相手がいた。でも、結局、想いを伝えることさえできずにウイーンに旅立った。本当に、どれだけ弱気なんだって話よね。好きって気持ちくらい伝えて行けばいいのに。でも、出来なかった。
そんな、ショパンの夢への期待と故郷を去る寂しさ、そして青春の切なさを込めた曲」
想いさえ伝えられない――まさに、私だ。
「さて、奏はどんな風に演奏するんでしょうね?」
その言葉と同時に講堂に拍手が沸き上がる。
指揮者と共に、二宮さんが舞台に現れた。
きっちりとタキシードを着ている。
指揮者に紹介されるように、客席に向かってお辞儀をした。
二宮さんのピアノ。もう当分、生で聞くことはできない。
最後の一音まで全部、私の胸の中に留める。