君の音に近づきたい
放心状態で講堂を出た私に、香取さんが言った。
「本当にバカだね。そんなに泣くなら、何か言えばいいじゃない。ショパンにでもなったつもり?」
その言葉に笑おうと思ったけど、無理だった。
あんな演奏するなんて、二宮さん、反則ですよ――。
切ない胸の痛みをこれでもかと歌い上げられて、どうしろというのだ。
私への、意地悪?
二宮さんならあり得るかもしれない。
思わず笑ってしまいそうになるけど、やっぱり笑えない。
こんなにも胸の痛みを私に教えて。
そして、何でもないみたいな顔で、いなくなるんだろうな。
それが、二宮さんらしい。
胸に残る痛みと苦しみを追いやるようにピアノを弾く。
きっとこんな経験すら、ピアノを弾く糧になる――そんなことを強引に思ったりして。
01教室の扉を見れば、「よう」なんて言って現れそうな気がして。
そして、諦める――。
「よう」
え――?
幻覚だろうか。
「よう、どヘタ。今の、フレーズなんだよ。指が転んでんだよ」
「二宮さん、どうして……?」
そんな憎まれ口でさえ、胸に沁みる。
「最後に、桐谷に会いに来た」
制服じゃない。黒いシャツにジャケットを着て、手にはスーツケースを持っていた。
「――最後に、桐谷のピアノ聴きたくてさ」
「ピアノなんて……」
一人驚いているのに、二宮さんは最後まで意地悪なことを言う。
「あんたのそのどヘタなピアノが心地いいんだ。そうだな。ショパンのエチュード黒鍵がいい」
「だったら、私は、二宮さんの演奏が聴きたいです。最後に私にプレゼントしてくださいよ」
「俺はもう、あんたのために弾いたから」
「え……?」
私の表情を見て、二宮さんが少し困ったように笑った。
「これまで、ショパンを弾くとき、いつも遠くで自分の演奏をもう一人の自分が聴いている感覚だった。でも、今回、ショパンのコンチェルトを弾いてる時、初めて自分自身が弾いているって実感があった。初めて心が動いた。音と心が連動したんだ。自分の感情を音に載せたんだ」
――自分の感情を音に載せた。
以前、ショパンは嫌いだと言っていた。
憂いも切なさも、知らないって――。
「昨日のコンチェルトは、桐谷のためだけに弾いた。それがどういう意味か。自分で考えろ」
それって――。
「早く、弾けよ」
答えを必死に手繰り寄せようとする私を、二宮さんがせかす。
「わ、分かりましたよ」
もう自棄だ。鍵盤に指を置いて、弾き始める。
軽やかなメロディー。二宮さんに初めてレッスンしてもらった曲。
やだ。思い出してしまうじゃないか。
ツンとする鼻に、泣くなと、心の中でしかりつける。
かけおりる音符を懸命に弾く。
もう、以前のような楽しいだけの適当なエチュードじゃない――。
「桐谷、ありがと」
あ――。
必死に弾いている私の、背中から腕が回される。二宮さんの匂いが、私の心をかき乱す。手のひらの温もりに、訳も分からず泣きたくなる。
それでも、懸命に、最後の音まで弾き続ける。
「じゃあ、”行って来る”」
さよならでも、じゃあなでもない。
すぐ近くにあったその気配が、ふっと消える。
そして、二宮さんは旅立った。