君の音に近づきたい
「教えてやるって、さっき廊下で言ったじゃん」
「それは、二宮さんのピアノを教えてくれるのかと……」
二宮さんの奏でる音を間近で聴ける。そう思っていたのだ。
まさか、私なんかにレッスンしてくれるなどと、誰が想像するというのか。
「ぶつぶつ言ってねーで弾けよ。そうだな、公開レッスンで弾いた曲、ショパンのエチュードでいいや」
ベンチに偉そうに座りながら、人を顎で指図する。
「は、はい!」
でも、それに文句を言える立場でもないし言うつもりもない。
どれだけ叩きのめされることになろうと、二宮さんからのレッスンをみすみす失うなんて馬鹿なことはしない。
今にも壊れそうなブリキの人形みたいな動きで、目の前のピアノの椅子に座る。
遠くから見つめて憧れ続けて来た二宮さんの目の前でピアノを弾くなんて。
それも、二人っきりの防音室!
いくらあの音に少しでも近づきたくて、同じ高校に入学したとはいえ。
こんな機会を想像しただろか?
いや、いくらなんでもこんな図々しい想像はしていなかった。
鼓動は収まるどころか加速度的に激しくなる。
二宮さんの裏の顔を知ってすっかり忘れていたが、この人は間違いなくピアノ界のプリンスだ。テレビにも雑誌にも出ている、凄い人。
私は一体、どうして平気な顔でこの人に大口を叩いていたんだ――!
今さら、おそろしい状況だということを実感する。
「早く」
「は、はいっ!」
つべこべ考えている場合じゃない。
心を決める。
いつものように、静かに深呼吸をして無になる。
そして一音目の音を脳内でイメージして、鍵盤に指を置いた。
明るく跳ねるように――。
すっと息を吸って、指を素早く動かし始める。