君の音に近づきたい
この曲は、右手の早いパッセージが続く。可愛らしくて軽やかなメロディーがくるくると奏でられる。
弾いているうちに、この曲の持つ楽しさに入り込んで行く。
次へ次へと連なっていく右手の16分音符と一緒になって遊びまわるみたいに、左手がジャンプする。
いつの間にか緊張なんかどこかへ行って、身体と鍵盤が一体化し始める。
何と言っても、この瞬間が一番楽しい。
何度も何度も挫折しそうになりながら複雑な楽譜を譜読みして、指が絡まりそうな早いパッセージを繰り返し繰り返し指に覚え込ませる。
最初は片手で、ゆっくり、リズムを変えて。
特に難所の部分は、なんの曲だか分からないような練習を延々と続ける。
はっきり言って、地味で楽しくない作業だ。
でも、これを乗り越えなければ、楽しく弾くことに到達なんて出来ない。
この楽しさを夢見て、面白くもない反復練習をする。
投げ出したくなっても、この心躍る感覚を身体が覚えているからやめられないのだ。いくら才能がないと分かっていても、ピアノを捨てることができない。
クライマックス、オクターブで鍵盤を下降して華々しく終わる。
ピアノの音が完全に消えて、思わずふっと息を吐いた。
「――随分と、楽しそうなことで」
その声で、二宮さんに聴かせていたんだということを思い出す。
そのせいで、一気に緊張がぶり返して来た。
「は……はい! 黒鍵、大好きんなんです。だから、つい、ワクワクしちゃって……」
おそるおそる二宮さんが座っているベンチの方に視線を向けた。
そうしたら、相変わらず偉そうに腕を組み脚を組んでいる。
そして、私の方を呆れたように見ていた。
や、やっぱり、ヘタ――だよね。
これから言われるであろう辛辣な言葉を想像して俯く。
「ったく。あんた、何考えてんだよ。これまで、ガキの頃から少なくとも10年は習って来たんだろ。一体、教師に何を教えられてきたんだ」
う――っ。
やっぱり、想像通りの言葉がすっ飛んでくる。