君の音に近づきたい
スタインウエイのフルコンサートグランドピアノの前まで来ると、正面を向いた。
そして、表情一つ動かさずに申し訳程度に頭を下げて、さっさと椅子に腰かけた。
なんだか、思っていたのと少し雰囲気が違う……。
私が知っている二宮奏は、爽やかな笑顔を常に絶やさない優し気な雰囲気の人。
だから”笑顔の貴公子”なんて言われていたりする。
私としては、”ピアノの”と付いていないのが不服だったりするのだけれど。
息を飲んで彼の一挙手一投足を見つめる。
長い腕から繰り出される手のひらが鍵盤の上に置かれる。
目を閉じて数秒、ふっと息を吸うと同時に、ピアニッシモで紡がれるひそひそとした音色から重低音が会場全体に鳴り響いた。
ショパンのスケルツオ第2番。
その深い響きに、それだけで圧倒された。
それからはもう夢見心地の中、二宮さんから生み出される音の波に身を委ねた。
なんで、こんなに違うの。同じ譜面のはずなのに。私が弾くのとは全く別の曲だよ――。
やっぱり、凄い。
音が躍動してる。
そこにいるのは、小学生でも中学生でもない、高校生の二宮さん。
私が小学二年生の時に初めてその音を耳にした。
私とは別の音楽教室に通う友達の発表会に行った時だった。
友達の演奏が終わって、せっかく来たのだからと他の人の演奏も聴いて行こう――そんな気持ちで席に座っていた。私自身も五歳の時からピアノを習っている。同じ年ごろの子たちの演奏には興味があった。
そのプログラムの中の一人だった。
でも――明らかに違う音色が飛び込んで来た。同じピアノから出ている音とは思えない。
眺めていたプログラムそっちのけで、前のめりになった。
ショパン 子犬のワルツ。
その曲は知っていた。
小学生が弾いていても、そんなに驚くような難易度の曲じゃない。
でも、違う。全然違う。
好きでも嫌いでもなかった超有名曲が、その瞬間に特別な曲に変わった。
上手く説明できない。でも、瞬きすらできず、心を奪われて。
小学二年生だった私は、その音のとりこになった。
まるで、天国からでも降り注いでいるかのような、透明できらきらと輝く音。綺麗なだけじゃない、活き活きと跳ねているような楽しげな音楽。何もかもが、この心を鷲掴みにした。
小学二年生の私の耳は、間違っていなかったようだ。
当時小学四年生だった二宮奏は、その後、国内のジュニアコンクールを次々に制覇していく。
そして、その可愛らしい容貌も手伝って、『天使のような天才少年現る』と一躍注目されテレビなんかにも出るようになった。
小学六年生にして単独リサイタルを開催し、CDデビュー。あれよあれよと、小さなピアニストとなった。
最近では、二宮さんがたまにリサイタルを開いてもなかなかチケットが取れなくて。こうして生の音を聴くのは何年振りだろう。CDで聴くのとはわけが違う。
振動がそのまま胸に届く。
いつまでも終わらないで――。
いつの間にか目を閉じて、ただその音と振動だけを感じていた。