君の音に近づきたい
「俺、本当はベートーヴェンが一番好きなんだよ。桐谷は?」
「弾くのは苦手だけど……あっ、でも、中学生の時に弾いた『ロンドカプリチオ』は好きです!」
涙とドキドキを押しやるために、私ははしゃいだように声を張り上げた。
「ああ。別名『失われた小銭への怒り』だろ?」
「そうです! ベートーヴェンは部屋の片づけが苦手でいつも物が散乱してて。机から小銭が見つからなくて怒り爆発して書いた曲だって。その逸話が面白くて。それに、曲も可愛くて好きだったなー」
そう言うと、冒頭の悪戯っ子みたいなメロディーを二宮さんが弾き始めた。
「それです、それ!」
二宮さんが右手だけを弾くのを止めて、私を目で促す。
「え? 右手、私に弾けってことですか?」
うんうんと頷く。
私はおずおずと鍵盤へと向かって、右手だけを弾いた。
「もっと早く。この曲は、早い方が楽しいだろ?」
二宮さんの笑みがすぐ近くにある。
「む、無理です―っ!これ以上無理!」
「行ける、行ける。まだまだ」
「わーっ」
もう追いつけなくて、叫んでしまった。
「おい、弾けないからって叫んで誤魔化すなよ!」
二宮さんが大笑いした。
「だ、だって。そんなテンポ、意地悪以外になんだって言うんですか!」
手を振り上げて抗議すると、肩をひくひくとして笑いながら私の手首を掴んだ。
「――ホント、あんたといると楽しいわ。苛めがいあるし――」
「こっちは、いつも苛められて楽しくないです!」
「それに、桐谷といるとホッとする」
「え……?」
意地悪な顔で笑っていたくせに、そこだけ優しい眼差しを向けて来るなんて。
やっぱり、二宮さんは私を翻弄する意地悪な人だ。
「これまで、俺に近付いて来る女は、いつも"二宮奏”っていう笑顔の貴公子が目当てだった。でも、桐谷は違う。俺がピアノを弾いている時、あんたは必ず目を閉じて聴いてる。俺の容姿じゃない。音を聴いてるんだ。初めて会った時、俺の練習を盗み聞きしていた時も、俺の公開レッスンの時も、こうして二人で練習室にいる時も」
その眼差しが真剣なものに変わる。
「あんたは本当に下心なんて一切なくて、俺を特別扱いしない。だから、気付くといつも自然体でいられる。こんな風に何も考えずに誰かといられるの、初めてかも。だから――」
何と言葉を返していいのかまったく思いつかない。ただ、心臓だけは激しく動いている。
「あんたを俺の友人に昇格してやる」
「ゆ、友人、ですか……?」
後輩じゃなくて、友人――?
「ああ。名誉に思えよ。俺にとっての友人第一号だ」
「第一号って――」
「だって俺、友達なんていねーもん」
二宮さんが、あっけらかんと言ってのけた。
「気付いた時には、ピアノだけの生活になっていたし。周りは仕事関係のオトナばかり。学校来たって、俺を対等に見る奴もいないしな。だからあんたは俺の友人第一号」
「二宮さんの友達だなんて……恐れ多いです! 後輩ってだけでもう十分なので」
「じゃあ、後輩兼友人、な!」
テレビや雑誌では見せない、無邪気な笑顔で私の頭をくしゃくしゃっとする。
そんな楽しそうな顔で笑われたら、もう何も言えなくなる。