響は謙太郎を唆す 番外編 お母さんの入院
お母さんの病室にもどる。
大きな窓から、病室の前にある並木道の大きな木の枝が見える。
少し高台の病院の下に広がる町が見える。空が見える。
外が見えるけど、空気は外界と遮断されていて、この大きな立派な病院は、謙太郎の家の病院だった。
彼が手にできるはずの物⋯⋯ 。
「何で響が泣いてんの?」
謙太郎が静かに部屋に入ってきて、当然のように、いつものように、私を腕に抱いた。
謙太郎の腕の強さや体温、なめらかな肌、大きな手、匂い⋯⋯ 。
黙ってメソメソ止まらない涙。
この人が好きだ私。
「また、1人で考えてる。言えよ、俺に。思ってる事ちゃんと言って」
と謙太郎が耳元で言った。
「私⋯⋯ 」
「ん?」
「私。何にも持ってない⋯⋯ 」
「何を?」
と謙太郎がゆっくり自信ありげに聞いた。
「謙太郎に渡せるもの、何も。育ちもお金も文化も⋯⋯ 」
声が詰まる。
こんな事、わざわざ言ったら、謙太郎が否定してくれるのが分かるのに。
謙太郎が答える前に、お母さんとお父さんが部屋に入ってきた。
私はあわてて、謙太郎から離れた。
お母さんはちらっとこちらを見てから、
「響さん、あたくし、ベットに横になりたいんだけど」
と言ったので、いつものように手伝った。
俯いて、涙が落ちて、手の甲でぬぐって、謙太郎がそんな私の頭を後ろから撫でた。
お母さんがベットに横になって、
「フゥ、疲れちゃった!」
と言ってからすぐ、
「あの方たちは、すぐ帰ってもらったわよ。関係ないんだから。何も出来やしない」
「そうだな」
と謙太郎が言った。お母さんがキッと謙太郎を見て、
「だいたい、あなたがタイミングが悪いのよ。格好の噂話を提供しちゃって。なーんで、ちょうど来ちゃうのよ!」
「はは」
と謙太郎が笑った。
「まったくだ。最悪のタイミングだ」
「もっと早く来なさいよ」
とお母さんはプリプリ怒りながら謙太郎に言った。お父さんが、
「タイミングの悪さは遺伝だな」
と言った。
お母さんが、
「だいたい、響さんは変な方ね」
と私に言った。
変?ひやっとして、ぱっとお母さんの顔を見た。
フフ、とお母さんが笑った。
謙太郎は私を見て、優しく笑って手を伸ばして私を引き寄せた。
お母さんが、フン、と言ってから、続けた。
「お金なんて、そこのタイミングの悪い息子に稼がせればいいのよ。そんな甲斐性もなかったら、出て行けやしないでしょうよ」
謙太郎の腕が力強くギュッと私を抱いた。
「絶対に稼ぐさ。どうやってでもな」
と謙太郎が私の耳のそばで言った。
「でも、私、何もない⋯⋯ 、」
謙太郎が私の髪に顔を寄せて、数秒触れてから、また、少し顔をあげた。
「馬鹿だな。どれだけ俺が響からもらってると思ってんだ」
お母さんが、あきれたように続けた。
「あたくしはね、今、こんな状況になって、あなたの信念と思いを、はっきりと思い知ってるのよ」
「⋯⋯ 」
「そこの勘当息子のために、ナイショでこんなところにまで一人で通い続ける信念よ」
「⋯⋯ 」
「しかも、あたくしに過去にあんな事されたのにね。あなた、自信がないの?なら、毎日いらっしゃい。仕込んであげるわ。簡単な事よ。そんなの。どうとでもなるわよ」
それから、お母さんが私を見てはっきり言った。
「あなたのような人間になる方が、無理だわ。あたくしだったら、一生かかっても、あなたみたいにはなれないわよ」
「お前は無理だな」
とボソリと言ったお父さんをキッ睨んでから、
「あなたみたいな人に思われている謙太郎は、どんな得な子かしらって事よ」
と言った。謙太郎が嬉しそうに、
「やっと分かったの?へー、驚いた。それすら、一生無理かと思ってた」
と笑った。
謙太郎はかがんで私を覗き込んでまっすぐ見て、大きな手で頬を包んで親指で涙をぬぐってくれた。
「そうだよ。俺が得してんだよ。俺だけじゃなくて、そこの母親までもだ。響、逆だよ。俺が何もお前に返せてないんだよ。一生かかって返してやるから、絶対離れんなよ」
「あたくしなんて、マイナスからだわ。あたくしの場合は返すんじゃなくて、罪滅ぼしです。いい?全部を伝授させていただくわ」
「うわっ、それはまた迷惑だよ」
と謙太郎が言ってニヤリとした。
「あなたは黙っててちょうだい!
ねっ!響さん!」
「またやりすぎるなよ、お前は極端なんだから」
とお父さんが口を挟んだ。
謙太郎が私を壁際に押してって、囲って、両親から私を隠した。
「ありがとう、響。お前だけ、愛してる」
とキスされた。
心が溶ける。
甘くて優しい気持ちでいっぱいになる。
愛してると、その気持ちだけで全身が満たされる。
頑張れる、私のままで。
努力することができる。
大事にしていきたい。
この人も。
この人の家族も。
この人がかかわるすべてを。
私の全部をかけて。
一生。
「私も愛してる、謙太郎を。
これからの一緒の未来を」