黄金の犀木と顔なしの化物
『無躰無貌。
それは太古の昔より日本に伝わる妖モノの名。
万物――無機物から有機物の全てに至るものに化ける力を持つ。
その化け術の精度は凄まじく、本物と並べると、一切の判別がつかなくなる。
加えて、神でさえもその生を侵すことはできないとされている。
この妖は何者でもあるが同時に何者でもない。
顔も身体も持たない、否、持つことのできない異端の化物。
故に無躰無貌。』
「なに、これ」
古びた書籍の前で俺は呆れたように口を開く。目の前の机上には下手に扱おうものならボロボロと崩れ去り、塵になってしまいそう
な本が広げられている。また、その机の前、と言うよりも椅子に腰かけ机に向かっている俺の前には、なぜだか得意げな顔をした友人が腰に手を当て自慢げに仁王立ちしている。
「絶対お前ん家の猫のことだって、これ!」
興奮が抑えられないとでもいうように、友人は本に書いてある『無躰無貌』という言葉を指さしながらそうまくし立ててきた。
「……なんでさ」
彼の勢いに気圧されてパチパチ、と幾度か目を瞬かせる。相変わらずコイツの言うことは良くわからない。というか今日はいつにもまして酷い。
考えてもみてくれ。放課後の図書室でゆっくりと読書に勤しもうとしていたら、いきなり腕を引かれてここ――今は使われていない二―九という札の下げられた開き教室に連れ込まれ、挙句自宅で可愛がっている愛猫を『バケモノ』呼ばわり。普通の人ならこの時点でキレていても可笑しくない。
が、悲しいかな俺は彼のこういった奇行ともすら呼べる行動にすっかり慣れ切ってしまっている。そりゃあそうだ。なんせ小学校に入ってから高校二年生の今に至るまで、ほとんど毎日を共に過ごしてきたのだから。慣れてしまうのが普通だろう。むしろここまでずっと一緒にいたのだから、慣れてしまわない方が可笑しい。お陰様でいつの間にか周囲の人間からは「飼い主」だの「保父さん」だの……果てには「お父さん」なんてあだ名される始末。ちなみにどれも〈彼の〉という言葉が前置される。
まぁ、つまりはそういうことだ。俺は彼の保護者兼制御役と周りにはみなされている。しかし、彼の奇行を抑えることは俺にもできた例がない。というかいつも前触れなくそのような行動を起こすため、事前に対処することは限りなく不可能だし、一度動き始めると事が済むまで止まらないため手の施しようがない。もう諦めてくれ。というか、オレもそろそろ胃に穴が開きそうだ。
「だってほら! お前ん家の猫ってお前のひいおじいちゃんが子供の時からいるんだろ? どう考えたって長生きしすぎじゃん!」
ちょっとした現実逃避にはしっていると、気がつくと目の前に、もっと言えば目と鼻先のすれすれに友人の顔があった。
キラキラ、キラキラ。星の様に、いや光の強さ的には太陽と言った方がいいだろうか、瞳を輝かせながら俺を見つめる友人。……目と目が合う~♪ なんて、これが顔を近づけてくれているのが美女だったらそんな展開もあっただろうに。
「はぁ……。じいちゃんが勝手にそう言っているだけで本当のところは実はあやふやなんだ。悪いな、淳じゅん」
どうかこれで諦めてくれますように、そう祈りながら申し訳なさそうに眉根を下げて友人、戌亥淳にそう言った。
*
「ちぇっ、今度こそって思ったのに」
紆余曲折を経て戌亥に「猫の無実」を納得させた俺は、満身創痍で机に突っ伏していた。戌亥はというと「つまんねーの」と唇を尖らせながら俺と同じく机に伏せている。
「はは、まぁ今回は外れだったけどいつかは本物に会えるかもしれねぇじゃん? そんなに気を落とすなって」
な? と言い体を起こし、戌亥の頭をわしゃわしゃと撫でまわす。
「いつか、本物に会えるかなぁ」
「会えるさ。お前が良い子にしてたらな」
戌亥の頭から手をのけ、カバンを持って立ち上がる。ふと外に目をやると、いつの間にか青空は赤く焼けていた。
「なんだよソレ、サンタさんかよ」
戌亥も俺につられるようにしてカバンを持って椅子を立つ。
「ある意味サンタも妖怪だろう」
下駄箱に向かうために廊下を歩きながら会話を続ける。随分と遅くなってしまい、もう校舎内には教員ぐらいしか残っていないのだろう、日中の喧騒はすっかり身を潜めている。
「あ、確かに」
口からデマカセ、サンタが妖怪なわけ無いだろう。「あぁ納得した」って風に屈託なく笑うんじゃあない、俺のあってないような良心が痛むだろうが。
「そういえば体調はもういいのか?」
靴を履き替えながら戌亥が不意に尋ねて来た。
「ん? あぁ、もうすっかり大丈夫だぜ」
生暖かい風が頬をかすめる。
「もう花は落ちたからな」
目を細めて戌亥の後ろに生えている金木犀の木にすっと目をやる。すっかり花を落としきったソレは恨めしそうにさわさわと葉を揺らした。戌亥は何のことかわからないだろうけれど、それでいい。むしろ知られてはいけない。知られたら俺はコイツを×さないといけなくなっちまうから。
「そっか」
夕焼けを背に、うっすらと弱弱しい顔をした月が昇っている。今日は満月か……アイツらが騒ぎ出す前に早く帰ろう。
「淳、おいてくぞ」
「あ、待てよ!」
夜は待ってはくれないんだ、戌亥。帳が落ちる前に早く帰ろう。お前の夢見る世界はお前が思っているよりも危険で、想像もしないくらい身近に存在しているんだから。
*
戌亥も草木も寝静まったころ、彼の眠る部屋の机上に置かれた例の本がカサリと音を立ててひとりでに開く。真ん丸な月が空高く輝き、秋の冷たい風が大きく開かれた窓をするりと入り込んで、彼の無防備に晒された喉をするりと撫で上げる。
『無躰無貌が唯一化けられないものがある――……』
夜風によっていたずらに開かれたページには放課後、彼と彼の友人が話題に挙げていたものについてのさらなる詳細が綴られていた。
『無躰無貌が唯一化けられないものがある。
それは、金木犀だ。
理由は分らないが、なぜかこれには化けられないそうだ。
またこれは唯一の弱点であり、対抗策でもある。
吸血鬼が太陽の光を恐れるように、狼男が銀製のものを恐れるように、彼らは金 木犀を恐れる。
金木犀の花が咲き、香る季節になると彼らは姿を保てなくなる。
人里に紛れ込んで生活しているモノは、このころになるとひっそりと姿をくらま せる。
そして花が落ちた頃、何食わぬ顔でひょっこりと戻ってくる。
もしもこの書を目にしている者がいるのなら十分注意なされよ。
妖モノは、こぞって己らの存在を隠したがる。
万が一この書を彼らに知られた暁には、これを読む者自身の命も危険にさらされ るだろう。
特に、人に化けて人と共に生きている妖もいる。
気を付けなさい、彼らは人でない。
どこかで自分たちの存在が明るみになっていやしないかと、常々目を光らせ、耳 を尖らせている。
命が惜しければ、大切な者がいるのならば、この書の事は早々に忘れ、妖モノの ことからも手を引くことを強くお勧めする。
これは私からの忠告であり、先達者達の総意だ。
好奇心は九つの命を持つとされる猫をも容易く殺す。
そのこと、努々忘れないように。』 (|葦野瑞(あしやみつる》)
夜はまだまだ明けそうもない。
*
「よう、変わりもんの妖怪さん」
明日が提出期限の課題を一人で黙々とこなしていると、聞き覚えのある軽薄な声が窓の方から聞こえてきた。
「あ、どーも九尾さん」
見ると開けっ放しにされていたそこに、頭から狐の耳を、背後にはゆらゆらと揺れる九つの尾を携えた友人……九尾がいた。
「お前さん、まぁだ人間に紛れて生活してんの?」
心底不思議だ、そんな顔をしながらいろんな奴の口から、何度も耳にした質問をこちらに投げかけてくる。
「うん。けど結構面白いよ? コレ」
ぱたり、ノートを閉じて身体ごとそちらに向ける。
「けどよ、聞いたぜ。危うく人間に正体を暴かれそうになったって」
「あー……うん」
「大丈夫だったのかい」
「一応バレてはいないよ」
「なんでぃ、煮え切らねぇ返事だな」
「まぁ、ね」
日中の事を思い返す。確かにバレてはいないが、あのような書物が残っていること自体が問題だ。あとで対処しておかないとな。それからアイツの記憶もちょっと弄っておかないとまずいかも。
「ふぅん……。まぁ、いいさ。困ったならいつでも言ってくれよ。俺はいつでも腹を空かせているからねぃ」
もともと細い目をにぃっと更に細めて、口には綺麗な弧を引いてこちらに微笑みかける九尾。
「……」
思わずきっ、と睨んでしまったが仕方がないだろう。俺のオモチャを横取りするようなことを言ったコイツが悪い。
「おぉ、怖い怖い。そんなに睨むこたぁないだろう。俺だって命は惜しい。お前のような奴の獲物を横取りするほど死に急いじゃあねぇよ。それよか、随分ご執心のようだけどそんなにイイのかい?」
この野郎、いけしゃあしゃあと言いやがって。お前から先に喰ってやろうか、なんて喉元まで出てきた言葉もぐっと呑み込む。だって俺大人だし? こんな子供いじめるなんて大人げないこと……いや、やろうと思えばできるけども。
「あぁ、今までで一番」
「ふぅん、あっそ」
そっちから聞いてきたくせに態度悪いな、コイツ!
「さて、と。俺、明日も学校があるからそろそろ寝るけど、お前どうする?」
もうコイツと話していたら切れてはいけない大事な所とかが切れてしまいそうだ。正直、戌亥を相手にするよりも厄介だな。
……そりゃそうか、こいつ妖怪だし。癖のバーゲンセールと個性の殴り合いで大渋滞している妖界隈においても、トップクラスの面倒な奴だもんなコイツ。もはや比べられた戌亥が可哀そうだ。
「けっ。やってらんねぇぜ」
やってらんねぇぜ、はこっちの台詞だっつーの。このケモ耳野郎。いい年したおっさんがそんなコスプレまがいなことしてて恥ずかしくねぇのか、なんて人間の常識なんざ俺達には通用しないんだけれども。
「そうかい」
ひきつる顔に無理やり笑顔を浮かべる。こちとら変身だの擬態だのを売りにしている妖怪だからな、表情を意のままに操るなんざ朝飯前なんだよ。
「また来る」
もう来るんじゃねぇ。来るにしてもこんな時間帯はやめろ。非常識だぞ。あ、こいつ人間じゃねぇ、常識とか通じねぇのも無理はない、か。
「おう、待ってる」
「今度は酒くらい用意していろよ」
「お前なぁ……」
呆れたように苦笑する。と言っても、俺もコイツも他に親しい友人……もとい酒を酌み交わすような友はいないため、本気の拒絶は双方ともにしたことも、されたこともないが。
「ふん、じゃあな。ムク」
「あぁ、またな九さん」
人々が寝静まっても、コイツ等が毎夜毎夜歌って踊っての大騒ぎをするから、ゆっくり眠れた例がない。
今日も今日とて、九尾の野郎もどこかの宴会場に向かうのだろう。
「ったく、騒がしいったらありゃしねぇな」
ふと空を見上げる。アイツはもう寝ているだろうか、そんなことを考えながら。
それは太古の昔より日本に伝わる妖モノの名。
万物――無機物から有機物の全てに至るものに化ける力を持つ。
その化け術の精度は凄まじく、本物と並べると、一切の判別がつかなくなる。
加えて、神でさえもその生を侵すことはできないとされている。
この妖は何者でもあるが同時に何者でもない。
顔も身体も持たない、否、持つことのできない異端の化物。
故に無躰無貌。』
「なに、これ」
古びた書籍の前で俺は呆れたように口を開く。目の前の机上には下手に扱おうものならボロボロと崩れ去り、塵になってしまいそう
な本が広げられている。また、その机の前、と言うよりも椅子に腰かけ机に向かっている俺の前には、なぜだか得意げな顔をした友人が腰に手を当て自慢げに仁王立ちしている。
「絶対お前ん家の猫のことだって、これ!」
興奮が抑えられないとでもいうように、友人は本に書いてある『無躰無貌』という言葉を指さしながらそうまくし立ててきた。
「……なんでさ」
彼の勢いに気圧されてパチパチ、と幾度か目を瞬かせる。相変わらずコイツの言うことは良くわからない。というか今日はいつにもまして酷い。
考えてもみてくれ。放課後の図書室でゆっくりと読書に勤しもうとしていたら、いきなり腕を引かれてここ――今は使われていない二―九という札の下げられた開き教室に連れ込まれ、挙句自宅で可愛がっている愛猫を『バケモノ』呼ばわり。普通の人ならこの時点でキレていても可笑しくない。
が、悲しいかな俺は彼のこういった奇行ともすら呼べる行動にすっかり慣れ切ってしまっている。そりゃあそうだ。なんせ小学校に入ってから高校二年生の今に至るまで、ほとんど毎日を共に過ごしてきたのだから。慣れてしまうのが普通だろう。むしろここまでずっと一緒にいたのだから、慣れてしまわない方が可笑しい。お陰様でいつの間にか周囲の人間からは「飼い主」だの「保父さん」だの……果てには「お父さん」なんてあだ名される始末。ちなみにどれも〈彼の〉という言葉が前置される。
まぁ、つまりはそういうことだ。俺は彼の保護者兼制御役と周りにはみなされている。しかし、彼の奇行を抑えることは俺にもできた例がない。というかいつも前触れなくそのような行動を起こすため、事前に対処することは限りなく不可能だし、一度動き始めると事が済むまで止まらないため手の施しようがない。もう諦めてくれ。というか、オレもそろそろ胃に穴が開きそうだ。
「だってほら! お前ん家の猫ってお前のひいおじいちゃんが子供の時からいるんだろ? どう考えたって長生きしすぎじゃん!」
ちょっとした現実逃避にはしっていると、気がつくと目の前に、もっと言えば目と鼻先のすれすれに友人の顔があった。
キラキラ、キラキラ。星の様に、いや光の強さ的には太陽と言った方がいいだろうか、瞳を輝かせながら俺を見つめる友人。……目と目が合う~♪ なんて、これが顔を近づけてくれているのが美女だったらそんな展開もあっただろうに。
「はぁ……。じいちゃんが勝手にそう言っているだけで本当のところは実はあやふやなんだ。悪いな、淳じゅん」
どうかこれで諦めてくれますように、そう祈りながら申し訳なさそうに眉根を下げて友人、戌亥淳にそう言った。
*
「ちぇっ、今度こそって思ったのに」
紆余曲折を経て戌亥に「猫の無実」を納得させた俺は、満身創痍で机に突っ伏していた。戌亥はというと「つまんねーの」と唇を尖らせながら俺と同じく机に伏せている。
「はは、まぁ今回は外れだったけどいつかは本物に会えるかもしれねぇじゃん? そんなに気を落とすなって」
な? と言い体を起こし、戌亥の頭をわしゃわしゃと撫でまわす。
「いつか、本物に会えるかなぁ」
「会えるさ。お前が良い子にしてたらな」
戌亥の頭から手をのけ、カバンを持って立ち上がる。ふと外に目をやると、いつの間にか青空は赤く焼けていた。
「なんだよソレ、サンタさんかよ」
戌亥も俺につられるようにしてカバンを持って椅子を立つ。
「ある意味サンタも妖怪だろう」
下駄箱に向かうために廊下を歩きながら会話を続ける。随分と遅くなってしまい、もう校舎内には教員ぐらいしか残っていないのだろう、日中の喧騒はすっかり身を潜めている。
「あ、確かに」
口からデマカセ、サンタが妖怪なわけ無いだろう。「あぁ納得した」って風に屈託なく笑うんじゃあない、俺のあってないような良心が痛むだろうが。
「そういえば体調はもういいのか?」
靴を履き替えながら戌亥が不意に尋ねて来た。
「ん? あぁ、もうすっかり大丈夫だぜ」
生暖かい風が頬をかすめる。
「もう花は落ちたからな」
目を細めて戌亥の後ろに生えている金木犀の木にすっと目をやる。すっかり花を落としきったソレは恨めしそうにさわさわと葉を揺らした。戌亥は何のことかわからないだろうけれど、それでいい。むしろ知られてはいけない。知られたら俺はコイツを×さないといけなくなっちまうから。
「そっか」
夕焼けを背に、うっすらと弱弱しい顔をした月が昇っている。今日は満月か……アイツらが騒ぎ出す前に早く帰ろう。
「淳、おいてくぞ」
「あ、待てよ!」
夜は待ってはくれないんだ、戌亥。帳が落ちる前に早く帰ろう。お前の夢見る世界はお前が思っているよりも危険で、想像もしないくらい身近に存在しているんだから。
*
戌亥も草木も寝静まったころ、彼の眠る部屋の机上に置かれた例の本がカサリと音を立ててひとりでに開く。真ん丸な月が空高く輝き、秋の冷たい風が大きく開かれた窓をするりと入り込んで、彼の無防備に晒された喉をするりと撫で上げる。
『無躰無貌が唯一化けられないものがある――……』
夜風によっていたずらに開かれたページには放課後、彼と彼の友人が話題に挙げていたものについてのさらなる詳細が綴られていた。
『無躰無貌が唯一化けられないものがある。
それは、金木犀だ。
理由は分らないが、なぜかこれには化けられないそうだ。
またこれは唯一の弱点であり、対抗策でもある。
吸血鬼が太陽の光を恐れるように、狼男が銀製のものを恐れるように、彼らは金 木犀を恐れる。
金木犀の花が咲き、香る季節になると彼らは姿を保てなくなる。
人里に紛れ込んで生活しているモノは、このころになるとひっそりと姿をくらま せる。
そして花が落ちた頃、何食わぬ顔でひょっこりと戻ってくる。
もしもこの書を目にしている者がいるのなら十分注意なされよ。
妖モノは、こぞって己らの存在を隠したがる。
万が一この書を彼らに知られた暁には、これを読む者自身の命も危険にさらされ るだろう。
特に、人に化けて人と共に生きている妖もいる。
気を付けなさい、彼らは人でない。
どこかで自分たちの存在が明るみになっていやしないかと、常々目を光らせ、耳 を尖らせている。
命が惜しければ、大切な者がいるのならば、この書の事は早々に忘れ、妖モノの ことからも手を引くことを強くお勧めする。
これは私からの忠告であり、先達者達の総意だ。
好奇心は九つの命を持つとされる猫をも容易く殺す。
そのこと、努々忘れないように。』 (|葦野瑞(あしやみつる》)
夜はまだまだ明けそうもない。
*
「よう、変わりもんの妖怪さん」
明日が提出期限の課題を一人で黙々とこなしていると、聞き覚えのある軽薄な声が窓の方から聞こえてきた。
「あ、どーも九尾さん」
見ると開けっ放しにされていたそこに、頭から狐の耳を、背後にはゆらゆらと揺れる九つの尾を携えた友人……九尾がいた。
「お前さん、まぁだ人間に紛れて生活してんの?」
心底不思議だ、そんな顔をしながらいろんな奴の口から、何度も耳にした質問をこちらに投げかけてくる。
「うん。けど結構面白いよ? コレ」
ぱたり、ノートを閉じて身体ごとそちらに向ける。
「けどよ、聞いたぜ。危うく人間に正体を暴かれそうになったって」
「あー……うん」
「大丈夫だったのかい」
「一応バレてはいないよ」
「なんでぃ、煮え切らねぇ返事だな」
「まぁ、ね」
日中の事を思い返す。確かにバレてはいないが、あのような書物が残っていること自体が問題だ。あとで対処しておかないとな。それからアイツの記憶もちょっと弄っておかないとまずいかも。
「ふぅん……。まぁ、いいさ。困ったならいつでも言ってくれよ。俺はいつでも腹を空かせているからねぃ」
もともと細い目をにぃっと更に細めて、口には綺麗な弧を引いてこちらに微笑みかける九尾。
「……」
思わずきっ、と睨んでしまったが仕方がないだろう。俺のオモチャを横取りするようなことを言ったコイツが悪い。
「おぉ、怖い怖い。そんなに睨むこたぁないだろう。俺だって命は惜しい。お前のような奴の獲物を横取りするほど死に急いじゃあねぇよ。それよか、随分ご執心のようだけどそんなにイイのかい?」
この野郎、いけしゃあしゃあと言いやがって。お前から先に喰ってやろうか、なんて喉元まで出てきた言葉もぐっと呑み込む。だって俺大人だし? こんな子供いじめるなんて大人げないこと……いや、やろうと思えばできるけども。
「あぁ、今までで一番」
「ふぅん、あっそ」
そっちから聞いてきたくせに態度悪いな、コイツ!
「さて、と。俺、明日も学校があるからそろそろ寝るけど、お前どうする?」
もうコイツと話していたら切れてはいけない大事な所とかが切れてしまいそうだ。正直、戌亥を相手にするよりも厄介だな。
……そりゃそうか、こいつ妖怪だし。癖のバーゲンセールと個性の殴り合いで大渋滞している妖界隈においても、トップクラスの面倒な奴だもんなコイツ。もはや比べられた戌亥が可哀そうだ。
「けっ。やってらんねぇぜ」
やってらんねぇぜ、はこっちの台詞だっつーの。このケモ耳野郎。いい年したおっさんがそんなコスプレまがいなことしてて恥ずかしくねぇのか、なんて人間の常識なんざ俺達には通用しないんだけれども。
「そうかい」
ひきつる顔に無理やり笑顔を浮かべる。こちとら変身だの擬態だのを売りにしている妖怪だからな、表情を意のままに操るなんざ朝飯前なんだよ。
「また来る」
もう来るんじゃねぇ。来るにしてもこんな時間帯はやめろ。非常識だぞ。あ、こいつ人間じゃねぇ、常識とか通じねぇのも無理はない、か。
「おう、待ってる」
「今度は酒くらい用意していろよ」
「お前なぁ……」
呆れたように苦笑する。と言っても、俺もコイツも他に親しい友人……もとい酒を酌み交わすような友はいないため、本気の拒絶は双方ともにしたことも、されたこともないが。
「ふん、じゃあな。ムク」
「あぁ、またな九さん」
人々が寝静まっても、コイツ等が毎夜毎夜歌って踊っての大騒ぎをするから、ゆっくり眠れた例がない。
今日も今日とて、九尾の野郎もどこかの宴会場に向かうのだろう。
「ったく、騒がしいったらありゃしねぇな」
ふと空を見上げる。アイツはもう寝ているだろうか、そんなことを考えながら。