スイレン ~水恋~
「仕事、まだ終わらないんですか?」

怒らないけど待ちくたびれちゃうじゃない。隆二のばか。

「朝には帰ってきますよね?」

あたしと仕事どっちが大事なの。
・・・死んでも言わないって決めてる科白が、喉まで出かかった。

困り笑いで訊き返しながら。目の前の(ひと)が言ってくれるのを期待した、『大事な女をそんなに待たせやしませんよ』って。

おもむろに口を開く伊沢さんを見つめる。

「・・・隆二が、出張(でば)る前に顔を出しました。頼み事なんざ今までねぇってのに、手前ェが戻らねぇ時はお嬢さんを頼むと、笑って頭下げやがった。・・・俺に押し付けるなと突っぱねたが、聞かねぇ訳にもいかねぇんで」

もっと簡単な返事でいいのに。
ひと言でいいのに。
帰ってくるって、それだけで。

ドクン。と心臓が変に脈打った。ざわつく胸の奥の奥を、ぎゅっと鷲掴みたくなるような。

その先を聞きたくないのに、金縛りに遭ったように声が出ない。耳を塞ぎたいのに指先ひとつ動かせない。

お嬢さん、と低くて重い声が鉛玉になって落ちてくる。のめり込む、頭の天辺から。

「柳隆二は・・・、もうこの世のどこにもいやしません」
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